第2話 冷徹公爵は、ゲームより顔がいい
背の高い男は、柱の陰から一歩だけ、灯りの届くところへ出てきた。
金の髪が、燭台の火を受けて淡く光る。切れ長の目は、碧。深い海の底に、光が差したような青緑色をしていた。夜会服の襟元には皺ひとつなく、立っているだけで、廊下の空気がぴんと張る。ゲームでは、この人が画面に出るたび、BGMまで一段低くなったものだった。
(ゲームより顔がいい)
ルチアは、ドレスの下で膝に力を入れた。
画面越しの立ち絵は、確かによくできていた。けれど、紙の上と目の前とでは、情報量が違う。睫毛の影の落ち方や、手袋をはめた指の長さまで、いちいち正確に目に入ってくる。
六十二年分の人生経験は、こういうときに限って、何の役にも立たなかった。
ゲームの領主一覧には、この人の財務能力が星五つで載っていた。外見の項目がなかったのが、いまとなっては惜しまれる。
(落ち着いて。相手は二十八歳。わたくしからすれば、孫……いえ、甥……いえ、とにかく年下)
そう言い聞かせても、鼓動の速さは変わらない。金髪に碧の瞳。それは前世から数えて何十年も、ルチアの弱点であり続けている。誰にも認めたことはないけれど。
「ユナカイト公爵閣下」
ルチアは膝を折った。ドレスの裾が、床の上で静かに広がる。声は、ちゃんと出た。
「このような場所で、失礼をいたしました」
「いえ。呼び止めたのは、こちらです」
公爵レオンハルト・ユナカイトは、低く落ち着いた声で言った。表情は、ほとんど動かない。「冷徹」と噂されるのも頷ける顔だった。
「ベルナール・クラレンスの、妹君とお見受けしました」
「はい。兄が、いつもお世話になっております」
口から出たのは、定型の挨拶だった。兄のベルナールは、この公爵の下で働く財務官である。家で顔を合わせるたびに、「閣下はすごい」と、熱に浮かされたように語っていた。
「彼は優秀です。ただ、貴女の話になると、少々うるさい」
「……うるさい、と申しますと」
「『うちの妹は天才です』と。何度聞いたか分からない」
公爵の眉が、ほんのわずかに動いた。
「身内の贔屓目だろうと、聞き流していたのですが」
(お兄様。職場で、何をおっしゃっているの)
首筋から耳まで、熱が這い上がってくる。婚約破棄の一部始終を見られていたうえに、兄の妹自慢まで露見した。今夜は、厄日かもしれない。
「兄が、大変失礼を」
「いや。それより、先ほどの引き継ぎの件ですが」
(聞かれていた)
「ウィンスロー領の財務に、貴女が関わっておられたのですか」
「少しだけです」
「少し、とは」
「月に一度、帳簿を拝見していた程度ですわ」
事実である。ただ、「月に一度」の中身を、いちいち説明する気はなかった。
「では、夜も更けておりますので」
ルチアは、もう一度深く膝を折った。
ここで話し込むと、ろくなことにならない。前世の五十二年と今世の十年を合わせた、確かな経験則である。
「兄のこと、今後ともよろしくお願いいたします。失礼いたします」
「クラレンス嬢」
呼び止める声が背中に届いたが、ルチアは振り返らなかった。振り返れば、またあの顔を見ることになる。それは、心臓によくない。
石造りの廊下に、自分の靴音だけが高く響いた。背後から、足音は追ってこない。追ってこなくてよかった、と思う。少し残念だと思ったことは、なかったことにした。
ルチアは、背筋を伸ばしたまま、できるだけ優雅な速さで歩き続けた。
馬車止めには、見慣れた栗毛の馬と、見慣れた顔があった。
「お嬢様、お早いお帰りで」
エマ・リードは、馬車のステップの脇で、きちんと背筋を伸ばして待っていた。ルチアと同い年。生まれたときから姉妹のように育った、乳姉妹である。ルチアの顔を見るなり、エマは片方の眉を上げた。
「お嬢様。お顔が赤うございます」
「夜気に当たったからよ」
「今夜は、暖かいほうですが」
「……風邪かもしれないわ」
「お熱を測りますか」
エマは大真面目な顔で、ルチアの額に手を伸ばしてきた。ルチアは、その手をそっと避けて馬車に乗り込む。
座席の上には、毛布と、革の水筒と、紙に包んだサンドイッチが、きちんと並んでいた。夜会で何も口にしていないことまで、お見通しなのだ。
「まずは召し上がってください。話は、それからです」
向かいの席に腰を下ろして、エマはにっこり笑った。
「婚約破棄の件は、旦那様と奥様に、使いを出してお伝えしてあります」
「……早いわね」
「お嬢様が支度をされている間に、ラディ様のお屋敷の使用人たちが、ずいぶん落ち着きなく動いていると聞きましたので。そろそろだろうと」
調査と手配と情報収集は、エマの担当である。ルチアが何か言う前に、必要なものが揃っているのが、日常になってしまっていた。
「ところで、兄が職場で、わたくしの自慢をしているそうなの」
「ベルナール様でしたら、屋敷の者は全員、存じております」
「全員……」
「先月の晩餐で、ご自分から」
「それで」
エマは、ルチアのサンドイッチを持つ手元を、じっと見た。
「お顔が赤い理由は、金色の髪の殿方にお会いになったから、でしょうか」
ルチアは、サンドイッチを喉に詰まらせかけた。
「……エマ」
「当たりましたか」
「当たっていません」
「お嬢様が赤くなるのは、金髪の殿方にお会いになったときだけと、昔から決まっております」
返す言葉が、見つからなかった。この乳姉妹は、ルチアの弱点を、ルチア自身よりよく知っている。
水筒の温かいお茶で、ようやく喉が落ち着いた頃、エマが後ろの小窓にちらりと目をやった。
「お嬢様。一つ、よろしいですか」
「なあに」
「後ろの馬車に、ユナカイト公爵家の紋章がございます」
「あら。帰り道が、同じなのでしょう」
「そのようです」
エマはそう言って、小窓の布を戻した。けれど、ルチアの、サンドイッチを持つ手は、止まったままだった。
(……まさか、さっきの話の続きを?)
「少し、とは」の続きが、頭の中で勝手に補われそうになる。「少しではないでしょう」だろうか。「お見事」だろうか。どちらにしても、いい予感はしない。
二周目の人生計画書の第二項目は、「面倒なことには近づかない」にするつもりだった。書き出す前から、雲行きが怪しい。
車輪の音が、石畳の上を規則正しく鳴っている。そのうしろを、黒塗りの馬車が、何事もないような顔で走っていた。




