第1話 婚約破棄、承りました
「君との婚約を解消したい」
大広間のざわめきが、一拍だけ遠のいた。
シャンデリアの灯が、ラディ・ウィンスローの握りしめた手袋を照らしている。白い布に、深い皺。婚約者が何を言ったのか、もう耳に残っていない。それより、そちらから目が離せなかった。
「あ、はい。構いませんよ」
ルチア・クラレンスは、手にしていたレモン水のグラスを、通りかかった給仕の盆に戻しながら答えた。声の高さも、笑みの形も、先ほど挨拶を交わした伯爵夫人に向けたものと変わらない。
ラディの口が半分開いたきり、閉じない。こめかみに、汗が一筋流れていく。
(あ、これ知ってる)
知っているも何も、台詞の一言一句まで諳んじられる。前世で五百時間は遊んだ、領地育成シミュレーションゲームの序盤イベントだ。夜会の最中に婚約者から婚約破棄を告げられた伯爵令嬢ルチアは、婚約者の隣に立つヒロインへ嫌がらせをした罪で断罪され、あっさり退場する。立ち絵は三枚、台詞は十行足らず。公式のキャラクター紹介にも載らない、名前だけの悪役モブである。
この場面のルチアの台詞は、確か「わたくしを誰だと思っているの!」の一行きりだ。画面の下に文字が流れて、それでおしまいだ。ゲームの彼女なら、このグラスをヒロインのドレスにぶちまけている頃合いだ。
ラディの半歩後ろには、淡い水色のドレスの令嬢が立っている。ジゼル・ロッティ。そのゲームの主人公であり、ルチアの幼なじみでもある。ラディの袖をつまむ指先が小刻みに震えていた。けれど伏せた睫毛の下で、口もとがひくりと引きつった。笑いをこらえたな、とルチアは見た。
(若いわねえ)
二十歳の身体の中で、六十二年分の人生が、のんびりと頷く。
十歳の冬に高熱を出して以来、ルチアの中には本条渚という日本人女性の記憶がある。税務署に勤め、のちに独立して、経営コンサルタントとして若い経営者たちの帳簿を睨み続けた五十二年。その延長線上に、今世の十年が積み重なっている。
そんな人間にとって、二十歳そこそこの男女の色恋沙汰は、庭先で子猫が転げ回っているのを眺めるのと、あまり変わらない。
「ル、ルチア」
ラディがようやく声を取り戻した。
「その、君に非があるわけではないんだ。ただ、僕は……ジゼルと」
「好きな方がいらっしゃるんですよね」
先回りして言うと、ラディの喉仏が上下に動いた。
穏便に済ませる文面を、昨夜のうちに三通りは考えてきたのだろう。そういう顔をしている。優しい人なのだ。仕事ができないだけで。
「ええ、構いません。婚約は解消で結構です。お話し合いを延ばしても、お互いの時間を使うだけですので」
「時間」
「時間です」
それを聞いて、にこやかに頷く。
「ご両家へのご連絡は、明日の朝までにわたくしの父からお出しします。それから、一つ言い忘れていました」
ここで言っておかないと、来月の頭に困るのはこの人だ。
「書斎に、引き継ぎの資料を置いてあります。急ぎのものには、青い紐をかけておきましたので」
「……引き継ぎ?」
「ええ。これまでわたくしが担当していた分です」
「……担当?」
ラディの目が、泳いだ。
数字の合わない帳簿は、枕に挟まった小石のように気になる。気になるから直していたら、いつの間にか任されていた。それだけの話である。
ラディの顔から、血の気が引いていく。
「き、君が……僕の領地の、何を……」
「あら」
小首をかしげてみせる。
「ご存じなかったのですか」
ジゼルの唇の端から、笑みが消えた。
「ル、ルチア様。わたし、そんなつもりでは……」
「いいのよ、ジゼルさん。ラディ様のこと、よろしくね」
心の底からそう言ったのだが、なぜかジゼルは一歩あとずさった。優しくしたつもりが、裏目に出たらしい。経験を積んだ大人の悲しさである。
ドレスの裾をつまんで、小さく膝を折る。形だけは完璧だ。流れるような所作に、周囲の令嬢たちがはっと息を呑む。壁際では、誰かが扇子を取り落とす音がした。
背を向けると、ざわめきが戻ってくる。囁きが背中に降り積もっていく。
「婚約破棄を、あんなにあっさり」
「泣きもしないなんて」
「強がりよ、きっと」
「あのドレス、三年前の型でしょう。クラレンス家は台所が苦しいと聞くもの」
ちゃんと耳には届いている。三年前の型なのは本当だ。まだ着られるものを、新調する理由がない。
台所は、苦しくない。利益が出れば領地へ戻し、設備を直し、備蓄を積む。その結果、帳簿に残る利益が少ないだけだ。税とは、制度を守ったうえで、賢く付き合うものである。
足取りは、自分でも呆れるほど軽かった。
大広間の隅、柱の陰からも、ずっと視線を感じていた。夜会ではよくあることだ。見物人の一人だろうと流して、ルチアは歩を進める。
(断罪イベント、回避。あとは──)
大広間の重い扉まで、あと十歩。
扉の脇に立つ従僕が、ルチアが近づくより先に、黙って片方の扉を開けた。取っ手を握る手が、気の毒なほど震えている。目だけで礼を言う。
(今度こそ、のんびり暮らすのよ。働きすぎて一生を終えたのだもの。二周目くらい、日当たりのいい縁側でお茶を飲んで過ごしたって、罰は当たらないはず)
縁側がこの世界にあるのかどうかは、いったん脇に置いた。
廊下へ出ると、夜気が頬を撫でた。ドレスの袖口から入り込む冷たい空気が、火照った肌に心地いい。胸の奥で、肩の荷がひとつ、ことりと床に降りた。
馬車止めでは、エマが待っているだろう。乳姉妹で、ルチアが何か言う前に必要なものを揃えてしまう、頼もしすぎる右腕だ。帰ったら温かい飲み物をお願いして、二周目の人生計画書を作る。第一項目は「毎朝、遅く起きる」。
そう考えながら、廊下の角を曲がりかけたとき。
「失礼。クラレンス嬢」
低い声が、背後から名を呼んだ。
振り返ると、燭台の灯が届かない柱の陰に、背の高い男が立っていた。夜会服の黒に、整った輪郭だけが浮かんでいる。見覚えのある顔だった。ゲームの立ち絵で、何度も見た。
領地育成ゲームで最強クラスの領主NPC。「冷徹」と名高い、ユナカイト公爵その人である。




