第25話 お聞きしたいことが、ございます
レオンハルトが邸に来る日は、使用人たちの挨拶に、順番ができた。
「奥様、おはようございます」
「旦那様、おはようございます」
奥様が先で、旦那様が後である。
最初に気づいたのは、レオンハルト本人だった。
「……オズワルド」
「はい、旦那様」
「挨拶の順番が、逆ではないか」
「奥様のほうが、お顔を出されるのが、早いからでございます」
「いや。……構わない。奥様が先で、当然だ」
レオンハルトは、深くうなずいた。
その背後で、エマが、紅茶の盆を持ったまま、澄ました顔をしている。肩だけが、わずかに揺れていた。
ルチアは、気づかないふりで、庭へ出た。
菩提樹の下のベンチは、すっかり、お気に入りの場所になっていた。
座ると、ちょうど邸の屋根が見える。窓が開いて、洗濯物が揺れて、遠くからガストンの叫び声が聞こえる。
今日は、ベンチの反対の端に、もう一人、座っていた。
「……閣下。そんなに端でなくても」
「いえ。師匠の隣に座るなど、畏れ多いので」
「ベンチは、広く空いておりますが」
「ここで、十分です」
レオンハルトは、背筋を伸ばして、膝の上に手を揃えている。金色の髪が風に揺れて、碧い目は、庭の遠くを見ていた。
エマは、少し離れた木陰で、日傘を畳んで待っている。気配を消す技術は、完璧だった。
「閣下」
「はい、師匠」
「少し、お聞きしたいことが、ございます」
「何なりと」
即答だった。声が少し、上ずっている。
ルチアは、手帳を膝の上で閉じたまま、言葉を選んだ。
三か月、見て見ぬふりをしてきた疑問である。
「シルヴェリア様のことです」
レオンハルトの肩が、ぴくりと動いた。
「……はい」
「契約結婚の相手として、確認しておきたいのです。わたくしの立場と、世間の見方に、関わりますので」
「承知しております」
「シルヴェリア様とは、その、どのようなご関係だったのでしょう」
沈黙が落ちた。
レオンハルトは、ゆっくりと、ルチアのほうを向いた。
その顔が、ほんの少し、赤い。
「……師匠は、なぜ、それを」
「ですから、契約上の」
「お気になさって、くださるのですか」
「はい。気になります」
「私と、あの人の関係を」
「はい」
「…………」
レオンハルトの口元が、ゆるんだ。
それを隠すように、彼は、手の甲で口を覆った。
「失礼しました。……何でも、ありません」
「閣下?」
「いえ。その、嬉しく……いえ、光栄です。師匠が、私のことを、気にかけてくださるとは」
目が、泳いでいる。耳の先まで、赤い。
ルチアは、眉をひそめた。何か、致命的な誤解が生まれつつある気がした。
(わたくしは、契約上の確認を、したいだけなのだけれど)
「ええと、閣下。お答えいただけますか」
「は、はい。包み隠さず、お答えします」
レオンハルトは、咳払いをして、座り直した。
「手は、触れておりません」
「え」
「指一本、触れたことがありません。彼女は、人間に触れられるのを、好まなかったので」
「…………」
「王都の隠れ家は、私の持ち物です。そこに、彼女を住まわせました。それだけです」
「それだけ、ですか」
「それだけです。社交界では、愛人と呼ばれましたが、一度も、否定しませんでした」
「なぜ」
「否定すれば、縁談が来ますので」
ルチアは、天を仰いだ。
契約結婚を持ちかけられた理由は、そこにあったのである。
「彼女は、承諾していたのですか」
「…………」
レオンハルトの声が、低くなった。
「していません。帰りたいと、何度も言われました。私は、聞こえないふりをしました」
「聞こえないふり」
「彼女が、美しかったからです」
彼は、苦い顔で、膝の上の手を握りしめた。
「エルフを、初めて見ました。この世のものとは思えませんでした。私は、容姿に弱くて……いえ、弱かったのです」
「弱かった」
「過去形です。お聞き流しください」
「どういう意味でしょう」
「…………」
レオンハルトは、数秒、黙った。
それから、膝の上の手を見つめたまま、ぽつりと言った。
「師匠に、契約結婚を申し出る前のことを、覚えておいででしょうか」
「ええ」
「私は、夜会で、師匠のお姿を拝見して、息が止まりました」
「…………」
「金色の髪が、灯りの下で光っておりました。碧い目が、まっすぐこちらを見ておいででした。……お美しい方だと、思いました」
「閣下」
「そのとき、私は、まだ、シルヴェリアが最高だと思っておりました。あの人の隣に並べる女性は、いないと」
「はい」
「ですが、師匠を拝見した瞬間、その考えが、ゆらぎました」
ルチアは、手帳を、ぎゅっと握りしめた。
「その後、毎日お顔を拝見するうちに、お美しいだけではないと、わかりました。お仕事がおできになって、人を見る目があって、笑われると、目尻が少し下がって」
「閣下、あの」
「私は、どうやら、容姿から入る人間らしいのです。それから、中身にも、惚れ……いえ、その、敬服いたしまして」
「…………」
「今は、師匠が、その、私にとって、最も……こ、好ましい女性で、ございます」
最後の言葉は、ほとんど、聞き取れなかった。
風が、庭を吹き抜けた。
菩提樹の枝が、さらさらと鳴った。
エマの日傘が、木陰で、かすかに揺れた。
「…………」
「…………」
「あの、閣下」
「は、はい」
「わたくしは、シルヴェリア様との関係について、お聞きしたのですが」
「そ、そうでした。お答えしました」
「それ以外の、お話は」
「聞かれておりません。……が、いずれ、申し上げるつもりで、おりました」
レオンハルトは、耳まで真っ赤にして、うつむいた。
ルチアは、膝の上の手帳を見下ろした。
頭の中で、契約書の条項が、ぐるぐる回った。
夜伽はなし。互いの私生活には、干渉しない。……恋愛感情についての取り決めは、どこにもない。
(盲点だったわ)
契約書の穴である。
前世で、数多の契約書を見てきたはずなのに。
「師匠」
レオンハルトが、背筋を伸ばして、呼んだ。
「は、はい」
「弟子の分際で、不躾なお願いを、ひとつ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「……どうぞ」
「師匠の、手の甲に、く、口づけを……させていただけないでしょうか」
「…………!」
「それから、可能であれば、そ、その、ハグも」
言い終えると、彼は、石像のように固まった。
金髪。碧い目。整った顔立ち。真っ赤になって、息を止めている。
ルチアは、ベンチの端まで、ずり下がった。
断る理由を探したが、見つからなかった。
断る理由は、ある。契約上の関係である。けれど、契約書には、書かれていない。
(……禁止条項は、なかったわよね)
「閣下」
「はい」
「そのお願いは、契約書に、禁止条項がなかったことを、確認いたしました」
「で、では」
「ですが、わたくしは、すぐに答えられません」
「…………」
「持ち帰って、検討させてください」
レオンハルトの顔が、ぱっと輝いた。
「持ち帰って」
「はい」
「いつまで、お待ちすれば」
「……一週間、いただけますか」
「お待ちします」
彼は、きっぱりと言った。
「何日でも、お待ちします」
その声は、あまりに嬉しそうだった。
ルチアは、ベンチから立ち上がった。
「失礼します。散歩の続きに、行って参ります」
「はい。……よい散歩を、師匠」
背を向けて、歩き出す。
足が、いつもより、少しだけ早かった。
木陰で、エマが、日傘を差しかけながら、並んで歩き始めた。
「お嬢様」
「…………なあに」
「お顔が、赤うございます」
「暑いのよ」
「風は、冷たいですが」
「暑いの」
「承知いたしました」
承知していない顔だった。
けれど、エマの口元は、これ以上ないほど、緩んでいた。
ルチアは、小さな声で、呟いた。
「……持ち帰るなんて、言ってしまったわ」
「検討は、お得意でございましょう」
「得意よ。得意だったはずなのよ」
背後で、レオンハルトの声が聞こえた。
「オズワルド! 今日の会議は、延期だ!」
「承知いたしました」
承知した顔だったに、違いない。




