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婚約破棄された転生令嬢は、今世こそスローライフを送りたい ~ちょっと指摘しただけなのに領地が勝手に発展して、冷徹公爵様に「師匠」と呼ばれています~  作者: 滝内亜依
第3章 使用人たちが覚醒しました

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第25話 お聞きしたいことが、ございます

 レオンハルトが邸に来る日は、使用人たちの挨拶に、順番ができた。

「奥様、おはようございます」

「旦那様、おはようございます」

 奥様が先で、旦那様が後である。

 最初に気づいたのは、レオンハルト本人だった。

「……オズワルド」

「はい、旦那様」

「挨拶の順番が、逆ではないか」

「奥様のほうが、お顔を出されるのが、早いからでございます」

「いや。……構わない。奥様が先で、当然だ」

 レオンハルトは、深くうなずいた。

 その背後で、エマが、紅茶の盆を持ったまま、澄ました顔をしている。肩だけが、わずかに揺れていた。

 ルチアは、気づかないふりで、庭へ出た。

 菩提樹の下のベンチは、すっかり、お気に入りの場所になっていた。

 座ると、ちょうど邸の屋根が見える。窓が開いて、洗濯物が揺れて、遠くからガストンの叫び声が聞こえる。

 今日は、ベンチの反対の端に、もう一人、座っていた。

「……閣下。そんなに端でなくても」

「いえ。師匠の隣に座るなど、畏れ多いので」

「ベンチは、広く空いておりますが」

「ここで、十分です」

 レオンハルトは、背筋を伸ばして、膝の上に手を揃えている。金色の髪が風に揺れて、碧い目は、庭の遠くを見ていた。

 エマは、少し離れた木陰で、日傘を畳んで待っている。気配を消す技術は、完璧だった。

「閣下」

「はい、師匠」

「少し、お聞きしたいことが、ございます」

「何なりと」

 即答だった。声が少し、上ずっている。

 ルチアは、手帳を膝の上で閉じたまま、言葉を選んだ。

 三か月、見て見ぬふりをしてきた疑問である。

「シルヴェリア様のことです」

 レオンハルトの肩が、ぴくりと動いた。

「……はい」

「契約結婚の相手として、確認しておきたいのです。わたくしの立場と、世間の見方に、関わりますので」

「承知しております」

「シルヴェリア様とは、その、どのようなご関係だったのでしょう」

 沈黙が落ちた。

 レオンハルトは、ゆっくりと、ルチアのほうを向いた。

 その顔が、ほんの少し、赤い。

「……師匠は、なぜ、それを」

「ですから、契約上の」

「お気になさって、くださるのですか」

「はい。気になります」

「私と、あの人の関係を」

「はい」

「…………」

 レオンハルトの口元が、ゆるんだ。

 それを隠すように、彼は、手の甲で口を覆った。

「失礼しました。……何でも、ありません」

「閣下?」

「いえ。その、嬉しく……いえ、光栄です。師匠が、私のことを、気にかけてくださるとは」

 目が、泳いでいる。耳の先まで、赤い。

 ルチアは、眉をひそめた。何か、致命的な誤解が生まれつつある気がした。

(わたくしは、契約上の確認を、したいだけなのだけれど)

「ええと、閣下。お答えいただけますか」

「は、はい。包み隠さず、お答えします」

 レオンハルトは、咳払いをして、座り直した。

「手は、触れておりません」

「え」

「指一本、触れたことがありません。彼女は、人間に触れられるのを、好まなかったので」

「…………」

「王都の隠れ家は、私の持ち物です。そこに、彼女を住まわせました。それだけです」

「それだけ、ですか」

「それだけです。社交界では、愛人と呼ばれましたが、一度も、否定しませんでした」

「なぜ」

「否定すれば、縁談が来ますので」

 ルチアは、天を仰いだ。

 契約結婚を持ちかけられた理由は、そこにあったのである。

「彼女は、承諾していたのですか」

「…………」

 レオンハルトの声が、低くなった。

「していません。帰りたいと、何度も言われました。私は、聞こえないふりをしました」

「聞こえないふり」

「彼女が、美しかったからです」

 彼は、苦い顔で、膝の上の手を握りしめた。

「エルフを、初めて見ました。この世のものとは思えませんでした。私は、容姿に弱くて……いえ、弱かったのです」

「弱かった」

「過去形です。お聞き流しください」

「どういう意味でしょう」

「…………」

 レオンハルトは、数秒、黙った。

 それから、膝の上の手を見つめたまま、ぽつりと言った。

「師匠に、契約結婚を申し出る前のことを、覚えておいででしょうか」

「ええ」

「私は、夜会で、師匠のお姿を拝見して、息が止まりました」

「…………」

「金色の髪が、灯りの下で光っておりました。碧い目が、まっすぐこちらを見ておいででした。……お美しい方だと、思いました」

「閣下」

「そのとき、私は、まだ、シルヴェリアが最高だと思っておりました。あの人の隣に並べる女性は、いないと」

「はい」

「ですが、師匠を拝見した瞬間、その考えが、ゆらぎました」

 ルチアは、手帳を、ぎゅっと握りしめた。

「その後、毎日お顔を拝見するうちに、お美しいだけではないと、わかりました。お仕事がおできになって、人を見る目があって、笑われると、目尻が少し下がって」

「閣下、あの」

「私は、どうやら、容姿から入る人間らしいのです。それから、中身にも、惚れ……いえ、その、敬服いたしまして」

「…………」

「今は、師匠が、その、私にとって、最も……こ、好ましい女性で、ございます」

 最後の言葉は、ほとんど、聞き取れなかった。

 風が、庭を吹き抜けた。

 菩提樹の枝が、さらさらと鳴った。

 エマの日傘が、木陰で、かすかに揺れた。

「…………」

「…………」

「あの、閣下」

「は、はい」

「わたくしは、シルヴェリア様との関係について、お聞きしたのですが」

「そ、そうでした。お答えしました」

「それ以外の、お話は」

「聞かれておりません。……が、いずれ、申し上げるつもりで、おりました」

 レオンハルトは、耳まで真っ赤にして、うつむいた。

 ルチアは、膝の上の手帳を見下ろした。

 頭の中で、契約書の条項が、ぐるぐる回った。

 夜伽はなし。互いの私生活には、干渉しない。……恋愛感情についての取り決めは、どこにもない。

(盲点だったわ)

 契約書の穴である。

 前世で、数多の契約書を見てきたはずなのに。

「師匠」

 レオンハルトが、背筋を伸ばして、呼んだ。

「は、はい」

「弟子の分際で、不躾なお願いを、ひとつ、申し上げてもよろしいでしょうか」

「……どうぞ」

「師匠の、手の甲に、く、口づけを……させていただけないでしょうか」

「…………!」

「それから、可能であれば、そ、その、ハグも」

 言い終えると、彼は、石像のように固まった。

 金髪。碧い目。整った顔立ち。真っ赤になって、息を止めている。

 ルチアは、ベンチの端まで、ずり下がった。

 断る理由を探したが、見つからなかった。

 断る理由は、ある。契約上の関係である。けれど、契約書には、書かれていない。

(……禁止条項は、なかったわよね)

「閣下」

「はい」

「そのお願いは、契約書に、禁止条項がなかったことを、確認いたしました」

「で、では」

「ですが、わたくしは、すぐに答えられません」

「…………」

「持ち帰って、検討させてください」

 レオンハルトの顔が、ぱっと輝いた。

「持ち帰って」

「はい」

「いつまで、お待ちすれば」

「……一週間、いただけますか」

「お待ちします」

 彼は、きっぱりと言った。

「何日でも、お待ちします」

 その声は、あまりに嬉しそうだった。

 ルチアは、ベンチから立ち上がった。

「失礼します。散歩の続きに、行って参ります」

「はい。……よい散歩を、師匠」

 背を向けて、歩き出す。

 足が、いつもより、少しだけ早かった。

 木陰で、エマが、日傘を差しかけながら、並んで歩き始めた。

「お嬢様」

「…………なあに」

「お顔が、赤うございます」

「暑いのよ」

「風は、冷たいですが」

「暑いの」

「承知いたしました」

 承知していない顔だった。

 けれど、エマの口元は、これ以上ないほど、緩んでいた。

 ルチアは、小さな声で、呟いた。

「……持ち帰るなんて、言ってしまったわ」

「検討は、お得意でございましょう」

「得意よ。得意だったはずなのよ」

 背後で、レオンハルトの声が聞こえた。

「オズワルド! 今日の会議は、延期だ!」

「承知いたしました」

 承知した顔だったに、違いない。

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