第26話 持ち帰った答え
一週間は、思ったより長かった。
ルチアは、検討用の資料を作った。
一枚目。手の甲への口づけ。メリットとデメリット。
二枚目。ハグ。メリットとデメリット。
三枚目。契約上の位置づけと、今後の関係への影響。
四枚目は、まだ白紙である。
「お嬢様」
四日目の夜、エマが紅茶を運んできて、机の上の紙を見た。
「これは」
「検討用の資料よ」
「……項目に、『顔がいい』と書いてございます」
「メリットよ」
「デメリットの欄にも、『顔がいい』と」
「…………」
「検討が、進んでおりませんね」
「進んでいるわ。同じ場所を、ぐるぐると」
エマは、紅茶を置いて、机の紙を一枚ずつ重ね直した。
「お嬢様。ひとつ、お伺いしても」
「なあに」
「旦那様のお気持ちを、お嬢様は、どう思っておられますか」
「どうって」
「迷惑ですか」
「迷惑ではないわ」
「嫌ですか」
「嫌ではないの」
「では」
エマは、そこで言葉を切った。
「……恋愛を、なさったことは」
「ないわ」
ルチアは、あっさり答えた。
「ずっと、仕事ばかりしていたから。恋愛の話は、本の中で読むだけで」
「そうでございましたか」
「だから、よくわからないのよ。好きとは、何なのか」
エマは、少しの間、黙っていた。
それから、静かに言った。
「わかるときは、わかります」
「そうなの?」
「ええ。理屈ではございませんので」
「それは、困るわ」
ルチアは、本気で困った顔をした。
理屈でないものは、検討用の資料に書けない。
七日目は、朝から雨だった。
閣下は、この一週間、一度も邸に来なかった。
約束を守ってくれているのだと、ルチアは理解していた。急かさない。待つ。何日でも。
理解していたのに、朝から、何度も窓の外を見ていた。
「お嬢様」
「なあに」
「今日は、何度目でしょう」
「何が」
「窓の外を、ご覧になった回数が」
「数えていないわ」
「十四回でございます」
「数えていたのね」
「はい」
午後になって、雨が少し弱まった。
ルチアは、傘を持って庭へ出た。
菩提樹の下のベンチは、濡れていた。それでも、座った。傘を肩に預けて、枝先から落ちる雫を見ていた。
返事の期日は、今日である。夕方までに、白紙の四枚目を埋めなければならない。
四枚目の紙は、まだ白紙のままだった。
(……何を書けばいいのかしら)
雨の音が、庭に降っていた。
そのとき、門の方角から、馬の足音がした。
ルチアは、顔を上げなかった。上げられなかった。
足音が止まる。
玄関のほうで、誰かの声がする。オズワルドの声かもしれない。
それから、庭の砂利を踏む足音が、ゆっくり、こちらへ近づいてきた。
「…………」
「…………」
傘の縁の向こうに、濡れたブーツが見えた。
顔を上げた。
金色の髪が、雨で、濡れていた。額に張りついた前髪から、雫が落ちている。外套の肩は、色が変わるほど濡れていた。碧い目が、少し息を切らして、こちらを見ていた。
「……閣下」
「し、師匠」
「傘は」
「馬の上で、折れました」
「折れた」
「風が、強くて」
レオンハルトは、頬の水滴を手の甲で拭った。
その仕草が、いつもの完璧な公爵とは違って、ひどく無防備だった。
「お返事は、今日のはずです」
「はい」
「わかっております。急かしに来たのでは、ありません。……ただ、その、お顔が、見たくなりまして」
「…………」
「それだけです。お返事は、約束の刻限で、結構です。お顔を拝見したら、帰ります」
そう言って、彼は、少し笑った。
取り繕っていない、少し困ったような笑い方だった。
その瞬間。
ルチアの胸の奥で、何かが、どくん、と鳴った。
(…………え)
心臓が、一拍、飛んだ。
それから、急に、速く動き始めた。
手のひらが、じわりと熱い。耳の後ろが、燃えるようである。傘の柄を握る指に、力が入った。
(これは何。動悸。……いえ、不整脈。いえ、待って。先月までは、どこも悪くなかったはず)
前世の知識を総動員して、自分の症状を診断した。
結論は、出なかった。
「師匠」
「は、はい」
「お顔が、赤うございます」
「き、気のせいです」
「お熱が、おありなのでは」
「ありません」
「ですが」
レオンハルトが、一歩、近づきかけて、足を止めた。
そして、おずおずと、自分の濡れた外套を見下ろした。
「……失礼を承知で、お願いします。傘に、入れていただけませんか」
「え」
「濡れたままでは、師匠のお隣に、座れませんので」
ルチアは、傘を、少しだけ横にずらした。
レオンハルトが、ベンチの端に、遠慮がちに腰を下ろす。
それでも、小さな傘の下で、肩が、触れた。
濡れた外套の冷たさが、布越しに伝わってくる。それなのに、触れた場所だけが、熱かった。
(落ち着きなさい、ルチア。六十二年の人生経験を、思い出して)
いくら思い出しても、役に立たなかった。
六十二年の中に、こういう経験は、一度もなかったからである。
「…………」
「…………」
雨の音だけが、続いた。
隣のレオンハルトは、何も言わなかった。待っている。何日でも、と言ったとおりに。
ルチアは、膝の上で、握りしめていた手を、ほどいた。
四枚目の紙は、白紙だった。
けれど、頭の中の答えは、いつの間にか、決まっていた。
「閣下」
「はい」
「検討の、結果を申し上げます」
「……はい」
レオンハルトの背筋が、ぴんと伸びた。
「手の甲への口づけは、許可いたします」
「…………!」
「ハグは」
「ハグは」
「まだ、心臓の調子が悪いので、次回の検討事項とさせてください」
「…………心臓、ですか」
「はい。原因は、調査中です」
レオンハルトは、数秒、固まった。
それから、口元を押さえて、声を殺して笑い出した。
「何がおかしいのですか」
「いえ。……失礼しました。師匠らしいと、思いまして」
「真剣です」
「はい。承知しております」
彼は、笑いを収めて、ルチアのほうを向いた。
濡れた前髪の下の碧い目が、あまりに優しかった。
「許可を、ありがとうございます」
「…………はい」
「で、では。失礼いたします」
彼は、両手で、そっとルチアの手を取った。
壊れものを扱うように。指先が、少し冷たくて、少し震えていた。
レオンハルトは、身を屈めた。
金色の髪が、ルチアの視界に入る。
手の甲に、唇が触れた。
ほんの、一瞬のことだった。
けれど、ルチアには、永遠のように思えた。
「…………」
「…………」
顔を上げたレオンハルトの耳が、赤い。
「……これ以上は、やめておきます」
「はい」
「師匠が、倒れてしまいそうですので」
「倒れません」
「左様でございますか」
「…………はい」
倒れそうだった。
雨は、静かに降り続けていた。
少し離れた木陰で、エマが、傘を差したまま、棒立ちになっていた。
見てはいけないものを見た顔だった。
けれど、一歩も動かなかった。
その唇が、声に出さずに、動いた。
承知いたしました、と。
承知した顔だった。生まれて初めて、完全に。




