第24話 奥様の、ベンチ
三か月が、過ぎた。
ルチアの暮らしは、ほとんど変わらなかった。遅く起きて、庭を歩いて、午後は読書。第一項目と第二項目は、見事に守られている。
変わったのは、まわりのほうである。
「お嬢様。オズワルド様が、ご報告に」
朝食のあと、エマが言った。
「月例の?」
「はい。ただ、今月は、いつもより書類が厚いそうです」
「そう。薄くしてもらって」
「承知いたしました」
承知していない顔だった。
オズワルドは、居間の机に、分厚い帳面を三冊、置いた。
「奥様。この三か月の、邸と領地の収支でございます」
「ありがとう。……えっと、一頁だけ読めばいいかしら」
「一頁で結構でございます。一頁目に、要点を」
ルチアは、一頁目を開いた。
項目が、五つ並んでいた。
食費。前の三か月と比べて、二割減。
食材の廃棄量。七割減。
使用人の欠勤・離職。ゼロ。
新人侍女の定着。三名全員。
北の村の豆。収穫、予想の一・四倍。
「…………」
「いかがでしょう」
「……すごいわね」
「恐れ入ります」
オズワルドは、わずかに背筋を伸ばした。口元が、ほんの少し緩んでいる。
「食費の二割減は、ガストンの保存食と、食材の仕入れ先の見直しによるものです。廃棄の七割減は、保存の改善と、必要量の把握によります」
「ガストンの、あの肉は」
「先週、貯蔵庫を開けました。三か月経った一号は、少し固くなっておりましたが、味は問題ございません。ガストンが、ほっと息を吐いておりました」
「そう。よかった」
「第五号は、あと一か月、様子を見るそうです」
ルチアは、顔を綻ばせた。三か月前、塩辛い肉を前に、嬉しそうに失敗帳をつけていた、あの顔を思い出した。
「北の村の豆は」
「ハンス村長が、昨日、直接ご報告に参りました。『来年は、畑の三分の一に豆を植えたい』と」
「三分の一」
「はい。ほかの村も、噂を聞いて、見学に来ているそうです」
「噂?」
「『庭師が、畑の土を舐めて、麦を治した』と」
ルチアは、後ろに控えるエマの肩が、小刻みに揺れるのを見た。
一頁目の下に、小さな字で、追記があった。
――領地全体の、今季の増収見込み、金貨二百枚。
ルチアは、そっと帳面を閉じた。
「……私は、何もしていないわ」
「存じております」
「皆さんが、頑張ってくれたのよ」
「存じております」
「では、なぜ、そんなにうれしそうな顔なの」
「うれしいからでございます」
オズワルドは、きっぱりと言った。
「奥様が来られる前の三か月と、今の三か月では、この邸の空気が、まるで違います。わたくしは、三十年、ここにおりますが、こんなに、朝が楽しみな日々は初めてでございます」
「…………」
「ですので、奥様。ひとつ、お願いが」
「何かしら」
「庭へ、お越しいただけますか」
「今から?」
「はい。皆から、見ていただきたいものが」
庭の東屋の近く、いつもルチアが散歩の途中で立ち止まる、菩提樹の下に、新しいベンチが置かれていた。
木製の、背もたれのある、やわらかな曲線のベンチだった。座面に、細かな彫刻がある。右の端に、小さな文字が刻まれていた。
――奥様の席。
ルチアは、立ち尽くした。
周囲には、使用人たちが、ずらりと並んでいた。ニナも、洗濯係も、庭師の見習いも、料理番の少年も。タバサまで、背筋を伸ばして、端に立っている。ガストンが、エプロンを握りしめていた。ミロとシルヴェリアが、寄り添っていた。
「……これは」
「奥様が、散歩の途中でお疲れになったときのために、皆で、つくりました」
オズワルドが、静かに言った。
「材木は、庭師の見習いが。彫刻は、ニナが。仕上げは、タバサ様が」
「タバサが?」
「少しだけでございます」
タバサは、真顔だった。口の端が、ごくわずかに上がっていた。
「どうぞ、お座りください」
ルチアは、ゆっくりとベンチに腰を下ろした。
背もたれは、体に、ぴたりと合った。座面は、あたたかかった。
庭の向こうに、邸の屋根が見える。窓がいくつも開いて、白い洗濯物が風に揺れている。
「…………」
誰も、何も言わなかった。
ルチアは、顔を上げて、全員を見渡した。
「ありがとう」
声は、思ったより、小さく出た。
「とても、座りやすいわ」
拍手が、起きた。
ミロが、帽子を振っている。シルヴェリアが、泣いている。ニナは、ガストンの袖をつかんで、跳ねていた。
ガストンが、のっそりと前に出た。両手で、布に包んだ小さな包みを差し出している。
「奥様。散歩のお供に、お使いください」
「これは」
「第五号の、挟みパンでございます」
ルチアは、包みを受け取った。まだ、ほんのりと温かい。
「……ありがとう、ガストン」
「いえ」
ガストンは、帽子のかわりに、エプロンの端を握りしめて、頭を下げた。耳が、赤かった。
その輪の外側で、エマが、そっと口を開いた。
「お嬢様」
「なあに」
「最近、旦那様のご来訪が、増えていることに、お気づきですか」
「え?」
「三日に一度が、二日に一度に。先週は、毎日でございました」
「そうだったかしら」
「はい。お仕事を、王都から持って来られて、東屋で、広げておられます」
「…………」
「お嬢様の、散歩の時間を狙っておいでです」
ルチアは、ベンチの背に、そっともたれた。
そういえば、昨日も、おとといも、庭で顔を合わせた気がする。
「……ご熱心ね」
「はい」
「お仕事が、はかどるのかしら」
「そのようでございます」
エマの口元が、ほころんでいる。ルチアは、深く考えないことにした。
けれど、菩提樹を見上げながら、気づいた。
この邸の皆が、自分を、慕ってくれている。
それは、ありがたいことである。
同時に、ひとつの疑問が、頭の隅に、浮かんだ。
(……そういえば、まだ、聞けていないことが、あったわね)
しばらく、封印していた疑問だった。
三か月間、見て見ぬふりをしてきた、あの件。
エマと、目が合った。
エマは、小さくうなずいた。
ルチアは、ベンチに座ったまま、決めた。
(次に、閣下が来られたら、聞いてみましょう)




