第23話 散歩は、北の村まで
ミロが言った「三日」は、人間の感覚の三日だった。
その朝、玄関の前に、荷車が一台と、小さな匙と、大量の麻袋と、ミロと、シルヴェリアが並んでいた。
「準備が、整いました」
「ありがとう。じゃあ、お願いね」
「はい。行ってまいります」
「いってらっしゃい」
ルチアは、手を振った。
それから、日傘を持ったエマと並んで、荷車の後ろについて歩き始めた。
「お嬢様」
「なあに」
「どちらへ」
「散歩よ」
「北の村までの道は、馬車で二時間です」
「歩いてもいいでしょう。第二項目は、庭に限るとは書いていないもの」
「書いてございます。『一日一回庭を散歩』と」
「…………」
「…………」
「今日は、庭が、大きいのよ」
「承知いたしました」
承知していない顔だった。
けれど、日傘は、ルチアの頭の上に、しっかり差し出されていた。
北の村は、小麦色の丘に囲まれた、静かな村だった。
けれど、近づくにつれて、ルチアは違和感を覚えた。
畑の麦が、どれも、背が低い。色も、薄い。穂の数は少なく、風が吹いても、さわさわと頼りない音を立てるだけである。
「これは……」
「ひどいですね」
ミロが、荷車の上から降りて、畑の縁にしゃがみ込んだ。
その横に、シルヴェリアもしゃがむ。
ミロは、土を一つかみ、手に取った。そして、それを、ぺろりと舐めた。
「ミロ!」
「はい」
「舐めるの!?」
「はい。味で、わかりますので」
ミロは、真面目な顔で言った。
「酸っぱいです」
「酸っぱい」
「あと、粉っぽいです。……あ、ここは、ちょっと苦いかな」
「それで、何がわかるの」
「何が足りないかが、わかります。土の養分と、それから、石灰が少し」
ルチアは、ぽかんとした。エマは、日傘を持つ手が、わずかに震えていた。
シルヴェリアが、ミロの頬についた土を、指でそっと拭った。
「泥がついていますよ」
「あっ、すみません」
「いいえ。……おいしかったですか」
「えっ」
「土の味です」
「ええと、その、独特でした」
「そう。わたくしにも、分けてくださる?」
「ええっ!?」
ルチアは、見なかったことにして、畑の中に目を戻した。
そのとき、背後で、咳払いが聞こえた。
「あの……失礼ですが」
振り返ると、日焼けした老人が立っていた。腰は曲がっているが、目は鋭い。村長のハンスと名乗った。
「公爵夫人様でいらっしゃいますか」
「ええ、ルチア・ユナカイトと申します」
「このような田舎に、わざわざ」
「散歩のついでです」
「……散歩」
ハンスは、ルチアの足元を見た。日傘の下の、きれいな靴は、すでに泥だらけだった。
「麦の件で、いらしたのですか」
「ええ。収穫量が減っていると伺いました」
「そうですか。……実は、わしらも、困っておりましてな」
ハンスは、重い息を吐いた。
「三年前から、毎年、少しずつ、減っております。種を替えても、肥やしを増やしても、効きません。村の者たちも、すっかり諦めておりまして」
「今年も、同じ畑に、同じ麦を」
「はい。ほかに、育てるものが、ありませんので」
ミロが、立ち上がった。
帽子を取って、深く頭を下げた。
「失礼します。僕は、邸の庭師で、ミロと申します」
「庭師さんが、なぜ畑に」
「奥様に、頼まれまして。畑の土を、見に来ました」
「……庭師に、畑が」
「はい。見れば、わかります」
ミロは、穏やかに言った。
「この畑の土は、疲れています」
ハンスの眉が、動いた。
「疲れて、いる」
「毎年、同じものばかり食べさせていると、土は飽きてしまうのです。違うものを植えて、休ませないと」
「そんな話は、聞いたことがない」
「僕も、人間の本では読んだことがありません。でも、そうなのです」
ミロは、しゃがんで、畑の隅に小さな穴を掘った。
そこから、一本の根を引き抜いた。
「見てください」
それは、細くて、白っぽい、頼りない根だった。
「麦の根です。短くて、ひげが少ない。土の中に、食べるものがないから、遠くまで探しに行けないのです」
「…………」
「豆を、植えませんか」
「豆」
「一枚の畑に、一年だけ。豆の根は、土の中に、栄養を残します。翌年の麦は、元気になります」
ハンスの顔が、くもった。
「豆では、金にならん。税が払えません」
「それは」
ミロは、言葉に詰まった。
庭師の、彼の領分ではない話である。
ルチアが、一歩、前に出た。
「村長さん。この村の畑は、全部でいくつありますか」
「三十枚ほど、ございます」
「そのうち、まず一枚だけ、豆を植えてみませんか」
「一枚」
「ええ。ほかの二十九枚は、今まで通り、麦です。一枚分の収穫が減っても、税の全体には、ほとんど響きません」
ルチアは、手帳を取り出して、さらさらと計算した。
「麦の収穫の減りに比べたら、一枚分の損は、三十分の一です。しかも、その一枚は、来年から良くなるかもしれない」
「……ほう」
「それでも、不安ですか」
「いや。……一枚なら」
ハンスは、しばらく、腕を組んだ。
やがて、ぽつりと言った。
「一枚だけなら、やってみましょう。うまくいかなければ、元に戻すだけだ」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「豆を植えるのは、誰がやる」
「僕がやります」
ミロが、すぐに答えた。
「そして、シルヴェリアも手伝います」
「はい。わたくし、土を運ぶのは得意です」
シルヴェリアは、麻袋を、片手でひょいと持ち上げた。
ハンスが、目を丸くした。
それから、畑のあちこちで見ていた村人たちが、いっせいにどよめいた。子供が一人、シルヴェリアを指さして、母親の袖を引っ張った。
「かあちゃん、あのお姉さん、神様?」
「しっ。そうかもしれないけど、しっ」
作業は、昼から始まった。
ミロは、鍬を振るい、土をほぐした。
シルヴェリアは、麻袋の土を畑に運び、均した。
ときどき、二人の目が合った。
すると、二人とも、手を止めた。
見つめ合って、微笑んで、また手を動かした。
しばらくして、ミロが土を運ぼうとして、つまずいた。シルヴェリアが、ふわりと受け止めた。そのまま、ミロの額に、そっと口づけた。
「危ないですよ」
「す、すみません」
「でも、嬉しいです。倒れてきてくださるなら」
「…………」
ミロは、顔を真っ赤にして、土をまた運び始めた。鍬を振る手が、いつもの三倍、速かった。
村人たちは、最初こそ戸惑っていたが、そのうち、慣れた。
「あれは、いつものことか」
「見ていると、こっちまで、元気が出るな」
「うちの嫁さんにも、ああしてやるか」
「やめとけ、腰が」
笑い声が、畑に広がった。
夕方、一枚の畑に、豆の種が植え終わった。
ハンスが、ルチアのところへ来て、帽子を取った。
「奥様。ありがとうございました」
「いいえ。やったのは、ミロと、シルヴェリアです」
「いえ。奥様が、わしの話を聞いてくださったからです」
「聞いただけです」
「それが、有り難いのです」
ハンスは、深く頭を下げた。
「公爵様の邸の方々が、こんなに話を聞いてくださるとは、思いませんでした」
ルチアは、少し、驚いた。
三年間、減り続ける麦を見ながら、この村の人たちは、誰にも話を聞いてもらえなかったのだろうか。
「また、来ます」
「ぜひ」
「次の散歩の、行き先にします」
「……散歩、でございますか」
「ええ」
ルチアは、にっこり笑った。
帰りの荷車の後ろで、エマが、日傘を畳みながら、ぽつりと言った。
「お嬢様」
「なあに」
「これ、クラレンス家で、お嬢様がずっとなさってきたことと、同じでは?」
「何が」
「お客様の話を聞いて、困りごとを整理して、小さく試して、人を動かす。……旦那様の商会でも、お嬢様は、そうなさっておられました」
ルチアは、夕焼けの空を見上げた。
赤い雲が、ゆっくり流れていた。
「…………趣味よ」
「趣味」
「ええ。散歩のついでの、趣味」
「承知いたしました」
承知していない顔だった。
けれど、エマの口元は、確かに、ほころんでいた。




