第22話 庭師の庭は、思ったより広い
朝の散歩の途中で、ルチアは、見てはいけないものを見た。
庭の奥、薔薇の垣根のそば。ミロが、苗の鉢を抱えて立っている。その胸に、シルヴェリアが顔を埋めていた。
「ミロ、今日の苗は、元気ですか」
「元気です。昨日より、芽が二つ増えました」
「まあ。偉いわ」
シルヴェリアは、ミロの頬に口づけた。ミロは、帽子の下で真っ赤になった。
「あの、苗の前では」
「苗は、気にしません」
「僕が気にします」
「では、見えないところで」
シルヴェリアは、ミロの首筋に、もう一度、そっと唇を寄せた。
ルチアは、ゆっくり向きを変えた。散歩の順路を、変更したのである。
「お嬢様」
後ろから、エマが言った。
「目のやり場にお困りですか」
「いいえ。あれは、肥料の話をしているのよ」
「肥料の」
「ええ。そう思うことにしているの」
「承知いたしました」
承知していない顔だった。
二人が三年越しの想いを伝え合ってから、半月が過ぎた。
ミロとシルヴェリアの熱々ぶりは、邸の名物になっていた。
仕事の合間に、目が合うと、二人とも手を止めて見つめ合う。廊下ですれ違うと、人目も気にせずに手を握る。ミロが転びかけたら、シルヴェリアが駆け寄って、そのまま抱きしめる。使用人たちは、もう慣れたもので、「あ、またですね」と、静かに通り過ぎる。
ニナだけは、まだ顔を赤くして、ほうきで顔を隠していた。
その日の午後。
居間で本を読んでいたルチアのところに、オズワルドが、書類を持って現れた。
「奥様。月例のご報告でございます」
「ありがとう。……何か、あったの?」
「領地の北の村から、報告が」
オズワルドは、書類を広げた。
「麦の収穫量が、三年続けて、一割ずつ、減っております」
「天候のせいではなくて?」
「いいえ。他の村は、安定しております」
「原因は」
「わかりません。農夫たちも、首をかしげておりまして」
ルチアは、数字を見た。
きれいに、なだらかな右下がりだった。自然災害なら、こうはならない。何かが、少しずつ、確実に、悪くなっている。
(土、かしら)
前の世界で、農家の確定申告を手伝ったことがある。収穫量が毎年少しずつ下がる畑は、たいてい、土が疲れていた。
ルチアは、顔を上げた。
「オズワルド。ミロを、呼んでもらえる?」
「ミロ、でございますか」
「ええ」
オズワルドは、わずかに目を細めた。
「承知いたしました」
承知した顔だった。
ミロは、帽子を両手で握って、居間に入ってきた。
背後には、当然のように、シルヴェリアがついている。
「あの、奥様。シルヴェリアも、よろしいでしょうか」
「ええ。もちろん」
「僕が呼ばれる用事の、見当がつかなくて。花壇の件でしょうか」
「いいえ。畑のことを、聞きたいの」
「畑」
ミロの顔が、ぱっと明るくなった。
それから、慌てて、元の表情に戻した。
「畑は、庭の外では」
「あなたの庭が、少し広くなったと思って」
ルチアは、報告書を差し出した。
「北の村の麦が、三年続けて、減っているの。どうして、だと思う?」
ミロは、報告書を受け取った。
数字を、じっと見た。
そして、しばらくして、ぽつりと言った。
「……土が、眠そうです」
「眠そう」
「三年前から、あの村の土は、息をしていません。去年の秋、通りかかったときに、気づきました」
ミロは、言いにくそうに、続けた。
「毎年、同じ麦を、同じ畑に植えているでしょう。土が、同じものばかり食べて、飽きてしまっているのです」
ルチアは、思った。
連作障害である。農業の初歩の知識だ。この世界では、まだ広まっていないのかもしれない。
「ミロ。それ、いつから気づいていたの?」
「去年の秋です」
「どうして、誰にも言わなかったの」
「僕は、庭師ですから」
ミロは、さも当然のように言った。
「畑のことは、畑の人が、考えることだと思っていました。庭と畑は、別ですので」
「そう」
「それに、数百年、生きていますと、土が休むくらいは、よくあることでして。三年なら、ちょっとの間です」
「人間にとっては、三年は長いのよ」
「あっ」
ミロは、帽子を握りしめた。
「失礼しました。時間の感覚が、ずれておりまして」
ルチアは、笑いそうになって、唇を結んだ。
隣で、シルヴェリアが、そっとミロの肩に触れた。
「ミロ。あなたは、悪くありません」
「でも、僕が早く言っていれば」
「言わなかったのは、遠慮でしょう。あなたは、いつも、そうです」
「…………」
「わたくしは、あなたのそういうところを、好きですけれど」
ミロが、ぴたりと動きを止めた。
耳の先が、帽子の下で、赤く染まっていくのが見えた。
エマが、小さく咳をした。ルチアは、報告書を見るふりをした。
一拍、置いて。
「……ミロ」
「はいっ」
「あなたに、お願いがあるの」
「は、はい」
「北の村の畑の土を、見てきてくれないかしら。何が足りないのか。どうすれば、回復するのか。必要なものは、オズワルドに言って」
「僕が、ですか」
「あなたにしか、わからないと思うの」
ミロは、目を丸くした。
それから、報告書を、もう一度、見下ろした。
「…………」
「どうかしら」
「やっても、よいのですか」
「ええ」
「庭の外へ、出ても」
「ええ。畑は、庭のつづきだと思って」
「畑は、庭のつづき」
ミロは、その言葉を、ゆっくりと繰り返した。
それから、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
承知した顔だった。いちばん、承知した顔だった。
「では、準備をします。苗の植え替えと、道具と、土を見る小さな匙と」
「ゆっくりでいいわ」
「はい。三日で、整います」
「そう。三日」
「はい。多分、人間の感覚の、三日です」
「ありがとう」
ミロは、帽子を抱えて、小走りに出ていった。
その背中を、シルヴェリアが、愛おしそうに見送った。
ルチアに向き直ると、胸の前で、両手を重ねた。
「奥様」
「はい」
「ミロが、庭の外へ出ると聞いて、わたくし、嬉しくなりました」
「そうなの」
「あの人は、ずっと、小さな庭の中だけで生きてきました。広い世界に出ていくのを、見たかったのです」
シルヴェリアの目に、うっすらと涙が浮かんでいた。
彼女は、深く一礼した。
「わたくしも、同行させていただいても、よろしいでしょうか」
「同行?」
「ミロの、助手として。……いえ、正直に申し上げますと、離れたくないのです」
ルチアは、少しだけ考えた。
「助手として、ね」
「はい。土を運ぶのも、苗を持つのも、できます」
「エルフの力は、すごいものね」
「はい。かなり」
シルヴェリアは、にっこり微笑んだ。
その笑顔は、確かに、神々しいほど美しかった。ルチアは、納得した。
(……これは、一目ぼれされるわね)
誰に、とは、考えないことにした。
「いいわ。許可します」
「ありがとうございます、奥様」
シルヴェリアは、足早に扉へ向かった。
廊下で、ミロの声がした。
「シルヴェリア、助手になるって、本当ですか」
「ええ。決めました」
「でも、畑は、土だらけで」
「あなたと一緒なら、泥でも構いません」
「…………」
ばたん、と、鉢植えの倒れる音がした。
「ミロ!」
「だ、大丈夫です!」
エマが、静かに言った。
「お嬢様」
「なあに」
「お二人は、三日後、畑で何を」
「肥料の話よ」
「承知いたしました」
承知していない顔だった。




