第21話 失敗作を、みんなで食べます
夕方の食堂に、長い机が一つ置かれた。
いつもは、主人の食卓と使用人の食卓が分かれている。今夜は、それを一つにした。先日ガストンに頼んだ「失敗作も、皆で食べて」を、ルチアが実行に移したのである。
上座にルチア。両脇に、オズワルドとタバサ。その隣に、ミロと、ニナと、洗濯係の二人。全員が、背筋を伸ばして座っている。
誰も、最初のひと口に、手をつけようとしない。
「皆さん、楽にして」
「はい」
「はい」
「はい」
返事だけは、そろっていた。
厨房の扉が開いて、ガストンが大皿を運んできた。匂いが、一歩遅れて食堂に広がる。香草と、焦がしバター。
「お待たせいたしました。第一号です」
皿の上には、茶色い塊が三つ。
「冬の間も食べられる肉を、作りたいのです。豚肉を塩と香草に漬けて、十日間、風に当てました」
ルチアは、フォークで端を切って、口に入れた。
……しょっぱい。
とても、しょっぱい。舌が縮むほどである。
「……失敗ね」
「はい」
ガストンは、あっさり頷いた。
「塩を、入れすぎました」
「わたくしの舌では、四割ほど多いかと」
タバサが、冷静に言った。
「さすが、侍女長」
「恐れ入ります」
ミロは、塩辛い肉を口に入れたまま、目を丸くしている。洗濯係の一人は、涙目だった。
ルチアは、慎重に言葉を選んだ。
「失敗でも、わかることがあるわ。塩が四割多いなら、次は四割減らせばいい」
「そのつもりです」
ガストンは、失敗帳を開いて、さらさらと書き込んだ。
――第一号。塩過多。四割減。
その顔は、失敗した料理の前なのに、少し嬉しそうだった。
そのとき、ニナが、小さく手を挙げた。
「あの」
「どうしたの」
「お肉の、脂のところだけ、匂いが少し、違いました。……と、思います」
ニナは、慌てて下を向いた。
「間違っているかも、しれないんですけど」
ガストンは、ニナを見た。
それから、失敗帳に、一行、書き足した。
――脂の部分、匂いが違う(ニナ)。
扉が開いたのは、そのときである。
「ただいま」
全員が、いっせいに立ち上がった。椅子がいくつも倒れた。
レオンハルトが、外套を肩にかけたまま、扉の前に立っていた。金色の髪が、夕焼けを浴びている。
今夕に戻ると、エマが言っていた。ちょうど、約束の時刻である。
「匂いが、玄関まで来ていた」
「失礼いたしました、旦那様」
オズワルドが、深く一礼した。
「ガストンが、冬の間も食べられる肉を研究しておりまして。その試作品を、皆で食べております」
「悪くない匂いだ」
彼は、外套を脱いでエマに渡し、ルチアの隣の椅子に座ろうとした。
その椅子には、小さな札が置かれていた。
――旦那様。
タバサの筆跡である。
「……タバサ。この札は」
「三日前から、ございました」
「三日前から」
「旦那様が、いつお戻りになってもよいように」
タバサは、真顔だった。エマは、そっぽを向いている。
レオンハルトは、何も気づいていないふりをして、残った第一号を、ひと切れ食べた。
一拍、置いて。
「…………しょっぱいな」
「はい」
「次は、いつだ」
ガストンが、顔を上げた。
「五日後に、改良したものを」
「楽しみにしている」
ガストンの肩から、ふっと力が抜けた。
その五日間、厨房の灯りは、夜明け前まで消えなかった。
最初の夜は、塩を減らしすぎて、味がぼやけた。次の夜は、香草が強すぎて、肉の味が負けた。三日目の朝には、肉の表面に白い黴が浮いて、ガストンは黙ってそれを裏庭に埋めた。
「お嬢様」
四日目の朝、エマが髪を梳きながら言った。
「昨夜で、七回目だそうです」
「何が」
「肉を、吊るし直した回数が」
「……ガストンは、寝ているの?」
「椅子の上で、三時間ほど。ニナが毛布をかけました」
ルチアは、櫛の動きを止めさせた。
「エマ。タバサに、伝えてちょうだい」
「何と」
「ガストンを、今日の午後は、寝かせるように」
「承知いたしました」
承知した顔だった。
午後、ガストンは、タバサに腕をつかまれて、厨房から連れ出された。
「しかし、肉が」
「肉は、ニナが見ます」
「しかし」
「四時間でございます」
それ以上は、誰も何も言わなかった。
五日後の夕方。
食堂には、同じ長机と、同じ顔ぶれがそろっていた。
ルチアの隣には、レオンハルトがすでに座っていた。当然のように。札は、もう要らなかった。
ガストンが、大皿を運んできた。目の下には、まだ影が残っている。けれど、足取りは、しっかりしていた。
「第五号です」
皿の上には、薄く切った豚肉が、扇形に並んでいる。表面は深い赤褐色で、つやがあった。
「塩は、四割減らしました。脂の部分は、漬ける前に、削り落としました」
ガストンは、そこで、ニナを見た。
「お前が、気づいたからだ」
ニナが、フォークを持ったまま、固まった。
ルチアは、ひと切れ、口に運んだ。
……おいしい。
塩気は控えめで、噛むほどに、香草の香りが広がる。肉の甘みが、後から追いかけてきた。
「おいしいわ」
食堂が、一瞬、静まった。それから、ひそやかなどよめきが、波のように広がった。
「本当ですか」
「ええ。ほら、閣下も」
「……ああ」
レオンハルトも、ひと切れ食べて、目を瞬いた。
「おいしい」
「恐れ入ります」
ガストンは、深く頭を下げた。それから、顔を上げて、ニナのほうを向いた。
「ニナ」
「は、はい」
「お前が、あの日、手を挙げなかったら、第五号はできなかった」
ニナの唇が、震えた。
「わたし、間違っているかもって、思って……」
「間違いかどうかは、俺が決める。言わなければ、決めようがない」
無愛想な声だった。けれど、ニナの目から、ぽろりと涙が落ちた。
「ありがとうございます……」
洗濯係の二人が、そっと、ニナの背中をさすった。
レオンハルトが、フォークを置いて、ガストンに尋ねた。
「これは、何日もつ」
「それは、まだ、わかりません」
ガストンの答えは、正直だった。
「今日お出ししたのは、味の確認です。保存がきくかどうかは、別の話でございます。同じものを、地下の貯蔵庫に置いてあります。三か月後に、開けて確かめます」
「三か月後」
「はい。そのときに、もし傷んでいたら、また最初からやり直します」
レオンハルトは、小さく頷いた。
それから、机の端に置かれた失敗帳に、目を留めた。
「……これを、見てもいいか」
「どうぞ」
彼は、頁をめくった。
第一号、塩過多。第二号、味がぼやけた。第三号、香草過多。第四号、黴。
その横に、いくつもの短い書き込みが並んでいた。
――脂の部分、匂いが違う(ニナ)。
――風は朝より夕方がよい(洗濯係)。
――吊るす場所は北側。
二十年間、誰にも見せなかった帳面である。それが今、食卓の上に、開いたまま置かれている。
レオンハルトの指が、ある頁で止まった。しばらく、動かなかった。
彼は、ゆっくりと顔を上げて、ルチアのほうを見た。
そして、他の誰にも聞こえない声で、言った。
「師匠」
「……はい、閣下」
「この邸では、誰の言葉でも、ここに書かれるのですね」
「何も見ておりません。わたくしは、皆さんと食べているだけです」
ルチアは、にっこり笑った。
承知していない顔だった。
食堂の隅で、ガストンが、小さく拳を握った。
誰にも見えないように。
けれど、エマにだけは、見えていた。




