第20話 失敗帳
ガストンの「少々、お話が、ございます」は、玄関ではなく、居間で聞くことになった。
玄関に整列していた使用人たちが、あまりにも真剣な顔で見守っていたからである。
「皆さん、持ち場に戻って」
ルチアがそう言うと、全員が、名残惜しそうに散っていった。タバサだけが、最後まで残った。
「タバサも」
「承知いたしました」
承知していない顔で、タバサは下がった。
居間の椅子に、ガストンが座った。身体が大きいので、椅子が小さく見える。エプロンを外してきたのか、白いシャツの袖口に、まだ小麦粉がついていた。
エマが、静かに紅茶を運んできた。ルチアの前と、ガストンの前に、一つずつ。ガストンは、カップを見て、会釈をした。無言である。
それから、さらに無言になった。
長い時間が経った。
ルチアは、紅茶を飲んだ。ガストンは、膝の上の拳を、見ている。
「ガストン」
「はい」
「辞めたいのなら、引き止めないわ」
「違います」
即答だった。
「じゃあ、何かしら」
「……辞めません。辞めるわけが、ございません」
ガストンは、そこで言葉を切った。眉間に、深い皺が寄っている。
隣で、エマが小さく咳をした。助け舟のつもりだろうか。
「あー、その。料理長は」
「エマ」
「はい」
「今は、ガストンが喋る番よ」
「失礼いたしました」
ガストンは、ゆっくり息を吸った。
そして、懐から、一冊の帳面を取り出した。
表紙は、油と手の跡で黒ずんでいる。角が丸くなっていた。紐で綴じられた束が、二冊、三冊と、続けて机に置かれた。
「ご覧いただきたいものが、ございます」
「見ていいの?」
「はい」
ルチアは、一冊目を開いた。
最初の頁に、日付と、短い文章があった。二十年前の日付だった。
――鶏肉を塩漬け。三日目で臭い。失敗。
次の頁。
――塩を増やした。五日目で硬くなった。失敗。
次の頁。
――干してみた。十日目に黴。失敗。
ずっと、失敗が続いていた。
ルチアは、頁をめくった。
失敗。失敗。失敗。
日付が進むにつれて、文字が小さくなり、書き込みが増えていく。気温、湿度、塩の量、日数。数字が、ぎっしりと並んでいた。
「これは」
「失敗帳です」
ガストンは、ぼそりと言った。
「見習いの頃から、つけている」
「全部、失敗なの?」
「いえ。成功も、少しは」
「どこ?」
「ほとんど、ありません」
ルチアは、顔を上げた。
無愛想な顔の、その奥に、少し恥ずかしそうな色があった。
「師匠に叱られました。『料理に理屈を持ち込むな』と」
「そう」
「勘と舌で、やるものだと」
「そうなの」
「けれど、どうしても、気になるのです。なぜ三日目で臭うのか。なぜ五日目で硬くなるのか」
ガストンの拳が、膝の上で握られた。
「厨房の勘では、わからないことが、ある。それを知りたいのです。……調べたい。時間と、場所と、少しの金が、要ります」
言い終えると、彼は、深く息を吐いた。
その場にいた全員が、息を吐いた気がした。エマも、扉の影のタバサも。タバサは、まだいた。
ルチアは、帳面を、もう少しめくった。
ある頁で、手を止めた。
同じ鶏肉、同じ塩の量で、冬と夏で、日数が違っている。その横に、ガストンの字で、小さく書いてあった。
――気温か? それとも、湿度か?
「ガストン」
「はい」
「これ、条件を、一つずつ変えて、記録しているわね」
「はい。……そのつもり、です」
「一回の試しで、変えるのは、一つだけ。他は、全部同じ」
「はい」
「それが、できているわ」
ガストンの目が、少し開いた。
「前の世界で……いえ。昔、わたくしの知っている人が、同じことをやっていたの。数字に違和感があると、他の条件を全部そろえて、一つだけ動かす。そうすると、原因が、ひとつだけ残るのですって」
「……」
「あなたは、二十年前から、それをやっていたのね」
「たまたまです」
「たまたまで、二十年は続かないわ」
ガストンは、帳面を見た。そして、ぼそりと言った。
「誰にも、お見せしたことが、ございませんでした」
「そうでしょうね」
「見せれば、笑われると、思っておりました」
「笑わないわ。笑う人がいたら、わたくしが叱ります」
ルチアは、帳面を閉じた。
「調べて、いいわ」
「……本当に」
「ええ。場所は、地下の貯蔵庫の一角を使って。予算は」
ルチアは、言いかけて、やめた。
扉の外で、咳払いが聞こえた。オズワルドである。いつからいたのか、わからない。
「奥様。ご予算の件でしたら、月の裁量枠の内側で、調整が可能でございます」
「オズワルド」
「はい」
「いたのね」
「いつでも」
どこまで聞こえているのだろう。ルチアは、少しだけ、頭が痛くなった。
「ガストンの研究費を、枠の内側から、出してもらえるかしら」
「かしこまりました。使い道の報告は」
「月末に、ガストンが自分でして。長くなければ」
「承知いたしました」
承知していない顔、ではなかった。承知しきった顔だった。
ルチアは、ガストンに向き直った。
「ひとつだけ、条件があります」
「何なりと」
「失敗したら、帳面に、ちゃんと書くこと。それと」
「それと」
「失敗した試作品は、捨てずに、わたくしたちにも食べさせて」
「……食べる、のですか」
「ええ。皆で」
「失敗作を」
「失敗作でも、味は、わかるでしょう?」
ガストンは、しばらく、固まっていた。
それから、こらえきれなくなったように、口の端を押さえた。肩が、小さく震えている。
「……奥様」
「はい」
「変わっておられます」
「よく言われるの」
そのとき、廊下の奥から、ごとん、と何かが倒れる音がした。
扉が少し開いて、見習いの料理番の少年が、顔を出した。
「あの、料理長、昼のスープが」
「すぐ戻る」
ガストンは、立ち上がった。帳面を抱え、一礼する。
去り際に、扉の前で、立ち止まった。
「奥様」
「なあに」
「期待は、なさらないでください。たぶん、また、失敗します」
「ええ。しなさい」
「はい」
扉が閉まった。
廊下の足音は、いつもより、少しだけ軽かった。
一週間後。
ルチアが、朝食の席につこうとしたときである。
食堂の扉を開けた瞬間に、強烈な匂いが襲ってきた。
酢と、香草と、焦がしたバターと、それから、説明のつかない甘い何か。
「…………エマ」
「はい、お嬢様」
「この匂いは」
「ガストン様の、最初の試作品でございます」
「邸中に、漂っているわね」
「はい。地下の貯蔵庫から、換気口を通りまして」
「換気口」
「侍女長が、窓をすべて開けるよう、指示を出しております」
エマは、何事もないような顔で、続けた。
「お嬢様。念のため、お伝えいたします。旦那様は、本日の夕刻、お見えになるそうです」
「閣下が」
「はい。お夕食を、ご一緒にと」
「……この匂いのまま」
「はい」
ルチアは、鼻をつまんだ。
それでも、どこか、悪くない匂いだと思ってしまった。




