↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された転生令嬢は、今世こそスローライフを送りたい ~ちょっと指摘しただけなのに領地が勝手に発展して、冷徹公爵様に「師匠」と呼ばれています~  作者: 滝内亜依
第3章 使用人たちが覚醒しました

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/27

第20話 失敗帳

 ガストンの「少々、お話が、ございます」は、玄関ではなく、居間で聞くことになった。

 玄関に整列していた使用人たちが、あまりにも真剣な顔で見守っていたからである。

「皆さん、持ち場に戻って」

 ルチアがそう言うと、全員が、名残惜しそうに散っていった。タバサだけが、最後まで残った。

「タバサも」

「承知いたしました」

 承知していない顔で、タバサは下がった。

 居間の椅子に、ガストンが座った。身体が大きいので、椅子が小さく見える。エプロンを外してきたのか、白いシャツの袖口に、まだ小麦粉がついていた。

 エマが、静かに紅茶を運んできた。ルチアの前と、ガストンの前に、一つずつ。ガストンは、カップを見て、会釈をした。無言である。

 それから、さらに無言になった。

 長い時間が経った。

 ルチアは、紅茶を飲んだ。ガストンは、膝の上の拳を、見ている。

「ガストン」

「はい」

「辞めたいのなら、引き止めないわ」

「違います」

 即答だった。

「じゃあ、何かしら」

「……辞めません。辞めるわけが、ございません」

 ガストンは、そこで言葉を切った。眉間に、深い皺が寄っている。

 隣で、エマが小さく咳をした。助け舟のつもりだろうか。

「あー、その。料理長は」

「エマ」

「はい」

「今は、ガストンが喋る番よ」

「失礼いたしました」

 ガストンは、ゆっくり息を吸った。

 そして、懐から、一冊の帳面を取り出した。

 表紙は、油と手の跡で黒ずんでいる。角が丸くなっていた。紐で綴じられた束が、二冊、三冊と、続けて机に置かれた。

「ご覧いただきたいものが、ございます」

「見ていいの?」

「はい」

 ルチアは、一冊目を開いた。

 最初の頁に、日付と、短い文章があった。二十年前の日付だった。

――鶏肉を塩漬け。三日目で臭い。失敗。

 次の頁。

――塩を増やした。五日目で硬くなった。失敗。

 次の頁。

――干してみた。十日目に黴。失敗。

 ずっと、失敗が続いていた。

 ルチアは、頁をめくった。

 失敗。失敗。失敗。

 日付が進むにつれて、文字が小さくなり、書き込みが増えていく。気温、湿度、塩の量、日数。数字が、ぎっしりと並んでいた。

「これは」

「失敗帳です」

 ガストンは、ぼそりと言った。

「見習いの頃から、つけている」

「全部、失敗なの?」

「いえ。成功も、少しは」

「どこ?」

「ほとんど、ありません」

 ルチアは、顔を上げた。

 無愛想な顔の、その奥に、少し恥ずかしそうな色があった。

「師匠に叱られました。『料理に理屈を持ち込むな』と」

「そう」

「勘と舌で、やるものだと」

「そうなの」

「けれど、どうしても、気になるのです。なぜ三日目で臭うのか。なぜ五日目で硬くなるのか」

 ガストンの拳が、膝の上で握られた。

「厨房の勘では、わからないことが、ある。それを知りたいのです。……調べたい。時間と、場所と、少しの金が、要ります」

 言い終えると、彼は、深く息を吐いた。

 その場にいた全員が、息を吐いた気がした。エマも、扉の影のタバサも。タバサは、まだいた。

 ルチアは、帳面を、もう少しめくった。

 ある頁で、手を止めた。

 同じ鶏肉、同じ塩の量で、冬と夏で、日数が違っている。その横に、ガストンの字で、小さく書いてあった。

――気温か? それとも、湿度か?

「ガストン」

「はい」

「これ、条件を、一つずつ変えて、記録しているわね」

「はい。……そのつもり、です」

「一回の試しで、変えるのは、一つだけ。他は、全部同じ」

「はい」

「それが、できているわ」

 ガストンの目が、少し開いた。

「前の世界で……いえ。昔、わたくしの知っている人が、同じことをやっていたの。数字に違和感があると、他の条件を全部そろえて、一つだけ動かす。そうすると、原因が、ひとつだけ残るのですって」

「……」

「あなたは、二十年前から、それをやっていたのね」

「たまたまです」

「たまたまで、二十年は続かないわ」

 ガストンは、帳面を見た。そして、ぼそりと言った。

「誰にも、お見せしたことが、ございませんでした」

「そうでしょうね」

「見せれば、笑われると、思っておりました」

「笑わないわ。笑う人がいたら、わたくしが叱ります」

 ルチアは、帳面を閉じた。

「調べて、いいわ」

「……本当に」

「ええ。場所は、地下の貯蔵庫の一角を使って。予算は」

 ルチアは、言いかけて、やめた。

 扉の外で、咳払いが聞こえた。オズワルドである。いつからいたのか、わからない。

「奥様。ご予算の件でしたら、月の裁量枠の内側で、調整が可能でございます」

「オズワルド」

「はい」

「いたのね」

「いつでも」

 どこまで聞こえているのだろう。ルチアは、少しだけ、頭が痛くなった。

「ガストンの研究費を、枠の内側から、出してもらえるかしら」

「かしこまりました。使い道の報告は」

「月末に、ガストンが自分でして。長くなければ」

「承知いたしました」

 承知していない顔、ではなかった。承知しきった顔だった。

 ルチアは、ガストンに向き直った。

「ひとつだけ、条件があります」

「何なりと」

「失敗したら、帳面に、ちゃんと書くこと。それと」

「それと」

「失敗した試作品は、捨てずに、わたくしたちにも食べさせて」

「……食べる、のですか」

「ええ。皆で」

「失敗作を」

「失敗作でも、味は、わかるでしょう?」

 ガストンは、しばらく、固まっていた。

 それから、こらえきれなくなったように、口の端を押さえた。肩が、小さく震えている。

「……奥様」

「はい」

「変わっておられます」

「よく言われるの」

 そのとき、廊下の奥から、ごとん、と何かが倒れる音がした。

 扉が少し開いて、見習いの料理番の少年が、顔を出した。

「あの、料理長、昼のスープが」

「すぐ戻る」

 ガストンは、立ち上がった。帳面を抱え、一礼する。

 去り際に、扉の前で、立ち止まった。

「奥様」

「なあに」

「期待は、なさらないでください。たぶん、また、失敗します」

「ええ。しなさい」

「はい」

 扉が閉まった。

 廊下の足音は、いつもより、少しだけ軽かった。

 一週間後。

 ルチアが、朝食の席につこうとしたときである。

 食堂の扉を開けた瞬間に、強烈な匂いが襲ってきた。

 酢と、香草と、焦がしたバターと、それから、説明のつかない甘い何か。

「…………エマ」

「はい、お嬢様」

「この匂いは」

「ガストン様の、最初の試作品でございます」

「邸中に、漂っているわね」

「はい。地下の貯蔵庫から、換気口を通りまして」

「換気口」

「侍女長が、窓をすべて開けるよう、指示を出しております」

 エマは、何事もないような顔で、続けた。

「お嬢様。念のため、お伝えいたします。旦那様は、本日の夕刻、お見えになるそうです」

「閣下が」

「はい。お夕食を、ご一緒にと」

「……この匂いのまま」

「はい」

 ルチアは、鼻をつまんだ。

 それでも、どこか、悪くない匂いだと思ってしまった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。