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婚約破棄された転生令嬢は、今世こそスローライフを送りたい ~ちょっと指摘しただけなのに領地が勝手に発展して、冷徹公爵様に「師匠」と呼ばれています~  作者: 滝内亜依
第3章 使用人たちが覚醒しました

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第19話 散歩が、進みません

 ルチアの一日一回の散歩は、庭の東屋まで行って、戻ってくるだけのものだった。往復で、およそ二十分。第二項目は、それで満たされる。

 その朝は、玄関を出る前に、止められた。

「おはようございます、奥様」

 掃き掃除をしていた少女が、ほうきを持ったまま、きっちり頭を下げた。

 先日、採用された子だった。名前は、ニナ。小柄で、声が小さくて、面接でつっかえていた、あの子である。

「おはよう、ニナ」

「は、はい。あの、えっと」

 ニナは、ほうきの柄を握り直した。

「侍女長が、朝は、会う方全員にご挨拶をするようにと。名前を呼んで」

「そう。いい習慣ね」

「奥様のお名前は、ルチア様、ですよね」

「ええ。でも、奥様でいいわ」

「はい。奥様。……奥様、おはようございます」

「さっき聞いたわ」

「あっ」

 ニナは、真っ赤になった。

 笑いをこらえて、ルチアは庭へ出た。

 玄関の階段を降りたところで、洗濯係の二人に会った。

「奥様、おはようございます!」

「おはよう」

「昨日、教わった畳み方で、今朝は十五枚、いけました!」

「あら、すごいわ」

「ありがとうございます!」

 二人は、シーツを抱えて走っていった。走っては、いけないはずなのに。

 ルチアは、石畳を進んだ。

 角を曲がると、馬車庫の前で、ガストンの弟子の庭師が、三人並んで挨拶をしてきた。

「おはようございます、奥様」

「おはよう」

「土に、触れました!」

「それは、よかったわね」

 何が「よかった」のかは、聞かなかった。聞くと長くなる気がした。

 池のほとりでは、料理番の少年が、野菜かごを抱えて立っていた。

「奥様、おはようございます」

「おはよう」

「今日の昼は、ガストンさんが、人参のスープを」

「楽しみにしているわ」

「はい!」

 植え込みの陰から、帽子が、ぬっと現れた。ミロである。

「奥様。おはようございます」

「おはよう、ミロ」

「本日の苗は、昨日より、二ミリ伸びました」

「そう。二ミリ」

「数百年ぶりの、速さです」

「それは、すごいわね」

「はい」

 ミロは、満足そうにうなずいて、また植え込みの陰へ消えた。挨拶なのか、報告なのか、わからなかった。

 東屋に着くころには、ルチアの足は、思ったより疲れていた。

 歩いた距離は、いつもと同じである。ただ、立ち止まった回数が、十一回あった。

「……散歩が、進まないわ」

 東屋のベンチで、ルチアは息をついた。

 後ろから、静かな足音がした。

「お嬢様。お水を」

 エマだった。水の入った杯を、両手で差し出してくる。どこから現れたのか、わからない。

「ありがとう。……エマ、わたくしは、知らなかったのだけれど」

「はい」

「この邸の人たち、前から、こんなに元気だったかしら」

「いえ」

 エマは、きっぱり言った。

「七割でございました」

「今は」

「八割半、というところです。侍女長は、九割の見込みだそうで」

「見込み」

「ご自分の育成計画に、書いてありました」

 ルチアは、杯の水を飲んだ。冷たかった。紅茶と違って、冷たいのが正しい。

「みんなが挨拶をしてくれるのは、嬉しいけれど、わたくしは、庭を歩きたいだけなのよ」

「承知しております」

「このままだと、散歩が、巡回になるわ」

「お嬢様。実は」

 エマは、声を落とした。

「すでに、使用人の間で、呼び名がございます」

「呼び名?」

「『奥様の朝の巡視』でございます」

「違うわ」

「毎朝、奥様の通られる順に、持ち場の者が一列に並ぶ段取りが、組まれつつあります」

「やめさせて」

「どなたに」

「……タバサに」

「承知いたしました」

 承知していない顔だった。

 エマは、一礼して下がった。何かの手帳に、書き込みながら。

 一人になって、ルチアは、東屋の柱にもたれた。

 庭の向こうに、邸の屋根が見える。窓がいくつも開いていた。カーテンが揺れて、白いシーツが干されている。

 前の世界で、ルチアが最後に勤めた会社の窓は、ずっと閉まっていた。

 この邸では、窓が開いている。

 それが、何かの答えのような気がした。

 けれど、答えが何なのかを考える前に、足音が近づいてきた。

「奥様」

 ニナだった。

 両手で何かを抱えている。

「あの、これを」

 差し出されたのは、折りたたまれた白い布だった。

 ルチアのハンカチである。先週、縁がほつれて、エマに預けたものだった。

 広げてみると、縁は、きれいに繕われていた。針目が、ほとんど見えない。

「……あなたが?」

「はい。侍女長に、『奥様のものは、新人が最初に触れていい』と。昨日、教わって」

「上手ね」

「ありがとうございます」

 ニナは、うつむいた。耳の先が、赤い。

「縫い目の乱れを、見つけるのは、昔から得意で」

「ええ。知っているわ」

 ニナが、顔を上げた。

「侍女長から、聞いています。面接のとき、カップの、欠けを」

「あれはね。わたくしは、気づかなかったの」

「え」

「あなたは、気づいた。それが、この邸では、一番大事なことよ」

 ルチアは、ハンカチを胸元にしまった。

 ニナは、しばらく何も言わなかった。

 それから、深く、ほうきを抱え直して、頭を下げた。

「……毎朝、お見送りします」

「それは、しなくていいわ」

「毎朝、お見送りします」

「しなくていいの」

「毎朝、お見送りします」

 この子は、思ったより頑固だった。

 ルチアは、あきらめた。

 帰り道は、さらに長かった。

 行きに会った人たちが、戻る頃には、持ち場に整列していた。十一人。全員、背筋が伸びている。

 その先頭に、タバサが立っていた。

 タバサは、ルチアを見ると、一礼した。

 顔を上げたとき、口の端が、ほんの少しだけ上がっていた。

「おはようございます、奥様」

「……おはよう、タバサ」

「本日も、ご散策、お疲れさまでございます」

「これ、あなたが?」

「いえ。皆が、自発的に」

「止めて」

「皆の意欲を、そぐわけには参りません」

 タバサは、真顔だった。口の端だけが、まだ上がっていた。

 ルチアは、観念した。

 玄関の階段を上がろうとして、足を止められた。

 扉の脇に、ガストンが立っていた。

 腕を組み、エプロンの裾に小麦粉をつけたまま、動かない。無愛想な顔は、いつも通りだった。

「奥様」

「おはよう、ガストン」

「少々、お話がございます。お時間よろしいでしょうか」

 低い声だった。

 周りの使用人が、いっせいに息を止めた。

「えぇ」

 ルチアは、にっこり微笑んだ。

(……丁度よかった、散歩は、明日からにしましょう)

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