第19話 散歩が、進みません
ルチアの一日一回の散歩は、庭の東屋まで行って、戻ってくるだけのものだった。往復で、およそ二十分。第二項目は、それで満たされる。
その朝は、玄関を出る前に、止められた。
「おはようございます、奥様」
掃き掃除をしていた少女が、ほうきを持ったまま、きっちり頭を下げた。
先日、採用された子だった。名前は、ニナ。小柄で、声が小さくて、面接でつっかえていた、あの子である。
「おはよう、ニナ」
「は、はい。あの、えっと」
ニナは、ほうきの柄を握り直した。
「侍女長が、朝は、会う方全員にご挨拶をするようにと。名前を呼んで」
「そう。いい習慣ね」
「奥様のお名前は、ルチア様、ですよね」
「ええ。でも、奥様でいいわ」
「はい。奥様。……奥様、おはようございます」
「さっき聞いたわ」
「あっ」
ニナは、真っ赤になった。
笑いをこらえて、ルチアは庭へ出た。
玄関の階段を降りたところで、洗濯係の二人に会った。
「奥様、おはようございます!」
「おはよう」
「昨日、教わった畳み方で、今朝は十五枚、いけました!」
「あら、すごいわ」
「ありがとうございます!」
二人は、シーツを抱えて走っていった。走っては、いけないはずなのに。
ルチアは、石畳を進んだ。
角を曲がると、馬車庫の前で、ガストンの弟子の庭師が、三人並んで挨拶をしてきた。
「おはようございます、奥様」
「おはよう」
「土に、触れました!」
「それは、よかったわね」
何が「よかった」のかは、聞かなかった。聞くと長くなる気がした。
池のほとりでは、料理番の少年が、野菜かごを抱えて立っていた。
「奥様、おはようございます」
「おはよう」
「今日の昼は、ガストンさんが、人参のスープを」
「楽しみにしているわ」
「はい!」
植え込みの陰から、帽子が、ぬっと現れた。ミロである。
「奥様。おはようございます」
「おはよう、ミロ」
「本日の苗は、昨日より、二ミリ伸びました」
「そう。二ミリ」
「数百年ぶりの、速さです」
「それは、すごいわね」
「はい」
ミロは、満足そうにうなずいて、また植え込みの陰へ消えた。挨拶なのか、報告なのか、わからなかった。
東屋に着くころには、ルチアの足は、思ったより疲れていた。
歩いた距離は、いつもと同じである。ただ、立ち止まった回数が、十一回あった。
「……散歩が、進まないわ」
東屋のベンチで、ルチアは息をついた。
後ろから、静かな足音がした。
「お嬢様。お水を」
エマだった。水の入った杯を、両手で差し出してくる。どこから現れたのか、わからない。
「ありがとう。……エマ、わたくしは、知らなかったのだけれど」
「はい」
「この邸の人たち、前から、こんなに元気だったかしら」
「いえ」
エマは、きっぱり言った。
「七割でございました」
「今は」
「八割半、というところです。侍女長は、九割の見込みだそうで」
「見込み」
「ご自分の育成計画に、書いてありました」
ルチアは、杯の水を飲んだ。冷たかった。紅茶と違って、冷たいのが正しい。
「みんなが挨拶をしてくれるのは、嬉しいけれど、わたくしは、庭を歩きたいだけなのよ」
「承知しております」
「このままだと、散歩が、巡回になるわ」
「お嬢様。実は」
エマは、声を落とした。
「すでに、使用人の間で、呼び名がございます」
「呼び名?」
「『奥様の朝の巡視』でございます」
「違うわ」
「毎朝、奥様の通られる順に、持ち場の者が一列に並ぶ段取りが、組まれつつあります」
「やめさせて」
「どなたに」
「……タバサに」
「承知いたしました」
承知していない顔だった。
エマは、一礼して下がった。何かの手帳に、書き込みながら。
一人になって、ルチアは、東屋の柱にもたれた。
庭の向こうに、邸の屋根が見える。窓がいくつも開いていた。カーテンが揺れて、白いシーツが干されている。
前の世界で、ルチアが最後に勤めた会社の窓は、ずっと閉まっていた。
この邸では、窓が開いている。
それが、何かの答えのような気がした。
けれど、答えが何なのかを考える前に、足音が近づいてきた。
「奥様」
ニナだった。
両手で何かを抱えている。
「あの、これを」
差し出されたのは、折りたたまれた白い布だった。
ルチアのハンカチである。先週、縁がほつれて、エマに預けたものだった。
広げてみると、縁は、きれいに繕われていた。針目が、ほとんど見えない。
「……あなたが?」
「はい。侍女長に、『奥様のものは、新人が最初に触れていい』と。昨日、教わって」
「上手ね」
「ありがとうございます」
ニナは、うつむいた。耳の先が、赤い。
「縫い目の乱れを、見つけるのは、昔から得意で」
「ええ。知っているわ」
ニナが、顔を上げた。
「侍女長から、聞いています。面接のとき、カップの、欠けを」
「あれはね。わたくしは、気づかなかったの」
「え」
「あなたは、気づいた。それが、この邸では、一番大事なことよ」
ルチアは、ハンカチを胸元にしまった。
ニナは、しばらく何も言わなかった。
それから、深く、ほうきを抱え直して、頭を下げた。
「……毎朝、お見送りします」
「それは、しなくていいわ」
「毎朝、お見送りします」
「しなくていいの」
「毎朝、お見送りします」
この子は、思ったより頑固だった。
ルチアは、あきらめた。
帰り道は、さらに長かった。
行きに会った人たちが、戻る頃には、持ち場に整列していた。十一人。全員、背筋が伸びている。
その先頭に、タバサが立っていた。
タバサは、ルチアを見ると、一礼した。
顔を上げたとき、口の端が、ほんの少しだけ上がっていた。
「おはようございます、奥様」
「……おはよう、タバサ」
「本日も、ご散策、お疲れさまでございます」
「これ、あなたが?」
「いえ。皆が、自発的に」
「止めて」
「皆の意欲を、そぐわけには参りません」
タバサは、真顔だった。口の端だけが、まだ上がっていた。
ルチアは、観念した。
玄関の階段を上がろうとして、足を止められた。
扉の脇に、ガストンが立っていた。
腕を組み、エプロンの裾に小麦粉をつけたまま、動かない。無愛想な顔は、いつも通りだった。
「奥様」
「おはよう、ガストン」
「少々、お話がございます。お時間よろしいでしょうか」
低い声だった。
周りの使用人が、いっせいに息を止めた。
「えぇ」
ルチアは、にっこり微笑んだ。
(……丁度よかった、散歩は、明日からにしましょう)




