第17話 廊下を走る人がいない
オズワルドの時間割が掲示板に貼り出されて、三日が過ぎた。
ルチアはその間、毎日一回、庭を散歩した。第二項目は守られている。朝も遅く起きた。第一項目も守られている。
ただ、起きるたびに、邸が静かになっていた。
「お嬢様。お気づきですか」
三日目の朝、エマが髪を梳きながら言った。
「何に?」
「廊下で、誰も走っておりません」
言われてみれば、そうだった。これまでの朝は、ばたばたという足音と「どこ?」「知らない!」という声で始まっていた。今朝は、ワゴンの車輪の音しかしない。
「歩く必要がなくなったのです。誰が、いつ、どこにいるか、決まっておりますから。探し回る時間が、消えました」
「掲示板のおかげね」
「お嬢様のおかげでございます」
「わたくしは、判子を押しただけよ」
「第三項目が、泣いております」
「泣かせておきなさい」
鏡の中のエマは澄ました顔をしていた。ただ、櫛の動きだけが、前より軽かった。
朝食の紅茶は、熱かった。
ルチアは、カップを持ったまましばらく動かなかった。ここに来てから、紅茶はたいていぬるかった。運ぶ人手が足りず、途中で冷めていたのだ。それが、熱い。
脇に立つ見習いの侍女が、期待する顔でこちらを見ていた。
「……おいしいわ」
見習いの顔が、ぱっと明るくなった。深々と頭を下げて、足早に下がっていく。走らずに。
(皆、七割で働いていた。それが八割になっただけ。それだけのはずなのに)
窓の外では、ガストンが庭の隅に立っていた。見習いの庭師が三人、その前に横一列に並んでいる。
「土は見るな。触れ」
「はい!」
「わからなければ、もう一度触れ」
「はい!」
声が、よく通る。ルチアは、そっと窓を閉めた。
(わたくし、口を出さないほうが、よさそうね)
第三項目が、その場で息を吹き返した。
午後、馬車の音がした。
ルチアは居間で本を読んでいた。読んでいるふりではなく、本当に読んでいた。五ページ目だった。
玄関でオズワルドの声がした。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ただいま」
約束の三日目。ちょうどだ。
足音が近づいてきて、廊下の途中で止まった。そのまま、何も聞こえなくなった。
ルチアが扉を開けると、レオンハルトが廊下に立っていた。外套を肩にかけたまま、動いていない。窓からの光で、金色の髪が少し眩しい。碧い目が、廊下の端から端までを、ゆっくりと追っていた。
壁の掲示板。その下の、新しい棚。ラベルのついた箱。会釈をしてすれ違う二人の侍女。急いでいない、ワゴンの男。
「……閣下?」
「……ルチア」
彼はぎこちなく首を回した。
「この邸、こんなに広かったか」
「広さは、変わっておりません」
「人が、少ない」
「増えてもおりません」
「では、なぜこんなに静かなんだ」
なぜと言われても、わたくしは何もしていない。
「皆さん、お仕事に集中していらっしゃるからでは」
レオンハルトは黙った。ポケットから小さな帳面を出し、一箇所で指を止める。
「この邸の食材の廃棄量だ。三日分を、今朝確認した」
「はい」
「三分の一になっている」
「そうですか」
「洗濯物の乾燥日数も短くなった。リネンの交換が遅れていない。来客用の部屋の掃除が、予定の三日前に終わっている」
「それは、よかったですね」
「ルチア」
碧い目が、まっすぐだった。数字が動いたとき、動いた理由を骨の髄まで確かめようとする、財務の天才の目だ。
(三日前に、同じ目で、わたくしを弟子にしたのよね、この人)
急に背筋が伸びた。
「……座って、お話ししませんか」
居間に入ると、エマがすでに椅子を引いていた。いつの間にいたのだろう。
「エマ、お茶を」
「かしこまりました。ただいま」
「いや、自分で運ぶ」
エマの眉が、一ミリだけ動いた。
数分後、レオンハルトは盆を持って戻ってきた。ティーポットとカップが二つ。慎重な手つきで、ルチアの前にカップを置く。琥珀色の液体が、わずかに揺れた。
「温度は、適切なはずだ。茶葉の量は見習いに聞いた。蒸らし時間は、時計で測った」
「測られたのですか」
「師匠に出すものだ。失敗は許されない」
一口飲む。熱くて、渋みが少し強くて、でも飲めないことはない。
「……おいしいです」
「本当か」
「ええ」
レオンハルトの肩から力が抜けた。口の端が、ほんの少しだけ上がる。
その表情が、ルチアの心臓に軽く触れた。
(金髪で、碧い目で、顔のいい人が、わたくしにお茶を運んできた。……いけないわ、これは)
ルチアは、カップで口元を隠した。
レオンハルトは向かいに座り、両手を膝の上に揃えた。姿勢が、すっかり弟子のそれだった。
「何をしたんですか、師匠」
敬語だった。
「……閣下。言葉遣いが戻っております」
「ここは私邸です。公の場ではない」
「ですから、ざっくばらんに、と」
「師匠だからです」
真顔だった。
「弟子ですので。善処はする」
ルチアは、少し頭が痛くなった。紅茶をもう一口飲んで、話を戻す。
「わたくしは、何もしておりません。家令のオズワルドに、人員配置と勤務割りの判断を任せました。それだけです」
「予算も、つけた」
「月に金貨十枚です。使い道は、オズワルドが決めます」
「報告は」
「月末に聞きます」
「それ以外は」
「見ません」
レオンハルトは、ゆっくり息を吐いた。その吐き方が、少し震えていた。
「私は、今まで全部確認していた。家令の報告は毎週見ていたし、人員の配置も、私が承認していた」
「お忙しいのに」
「忙しかった。確認が多すぎて、肝心の判断が遅れることもあった」
責める声ではなかった。事実を自分の前に並べているだけの声だった。
「私は、自分を有能だと思っていた。有能だから、人に任せる必要がないと、思い込んでいた」
ルチアは、何も言えなかった。それは、前の世界で二十年間、見てきた景色だった。
有能な上司ほど、全部を一人で抱える。部下は手を動かす前に、上司の顔色を見る。そうして組織は、上司の能力以上には育たなくなる。
(あの人も、そうだったわ)
かつての上司の顔が、目の前の金髪に重なって、消えた。
「閣下は、お一人で領地をまとめてこられました。並大抵の方にはできません」
「……」
「でも、一人で持てる量には限りがあります。能力の問題ではありません。人間の、形の問題です」
レオンハルトが、顔を上げた。
「わたくしは、持つ人を一人、増やしただけです。オズワルドは八年前から、持ちたがっていました。気づいただけです」
窓の外で、ガストンの声がした。
「触れ!」
「はい!」
レオンハルトの口元が、ゆるんだ。
「……師匠」
「はい」
「他の使用人にも、同じことを――」
「いけません」
ルチアは、先に言った。
「わたくしの本業は、庭の散歩です。第三項目もございます」
「それは、何ですか」
「『領地にはできるだけ口を出さない』です」
レオンハルトは、真剣に聞いて、深くうなずいた。
「できるだけ、ですね」
「え」
「できる範囲で、構いません。私は、師匠の生活を乱すつもりはない」
「乱しておいでです」
「できるだけ、乱さないようにします」
ルチアは、天井を見た。そこに答えは書いていなかった。
扉の向こうで、誰かが小さく咳払いをした。エマだ、と思った。
「……承知いたしました」
承知していない顔だった。




