第16話 初めて、任されました
「どうぞ。聞くわ」
オズワルドは、しばらく自分の膝を見つめていた。
「申し上げにくいのですが」
「ええ」
「お見せしたいものがございます。少々、お時間をいただけますか」
「いくらでも」
家令は、一礼して席を立った。扉を開け、廊下の誰かに低く告げる。ほどなく、従僕が細長い筒を抱えて走ってきた。
見覚えがあった。玄関ホールの棚の、いちばん下に立てかけてあった、あの巻物である。
「失礼いたします」
オズワルドは、円卓の上のカップを脇へ寄せた。巻物の紐を、ゆっくりとほどく。
広げると、円卓の端から端まで、びっしりと線と文字で埋まっていた。屋敷の見取り図。その上に、人の名前と、時間帯と、矢印。
「これは」
「当家の人員配置の、改善案でございます」
オズワルドは、静かに言った。
「八年前に、最初の案を書きました。それから毎年、見直しております」
「八年」
「はい。一度も、お見せしたことはございません」
ルチアは、紙の上に身を乗り出した。
エマも、手帳を閉じて、横から覗き込んだ。
朝の掃除の順番が、半刻ずつずらされている。食堂と厨房の行き来が、一本の線にまとめられている。見習いの侍女が、先輩の仕事を見て学べる位置に、名前が置かれている。
(これは)
ただの思いつきではなかった。誰が、いつ、どこで、何をするか。その全部を、屋敷という一つの機械の部品として、噛み合わせようとしている。
前世の仕事で、何度か見た。業務フローの設計図である。ここまで整った案を、現場の人間が自力で書いてくることは、めったにない。
「オズワルド」
「はい」
「三つだけ、聞いてもいい」
「何なりと」
「一つ目。この案で、いちばん変えたいのは、どこ」
「見習いの指導です」
即答だった。
「現在は、侍女長のタバサが、一人で全員を見ております。手が回りません。そこで、朝の半刻を、指導の時間として固定し、その間の掃除を、他の者が受け持つ形に」
「タバサの時間を、空けるのね」
「はい」
「二つ目。この案で、いちばん困る人は誰」
オズワルドは、少し考えた。
「私でございます」
「あなた」
「現在、屋敷の全員の動きを、私が目配せで調整しております。この案では、それを仕組みにして、私が立っていなくても回るようにいたします。……私の仕事は、減ります」
「それは、いいの」
「はい。そのほうが、屋敷のためになります」
ルチアは、静かに頷いた。
「三つ目。もし、うまくいかなかったら、何を失う」
「……失敗した分の、数日の手間です」
オズワルドは、はっきりと言った。
「それ以上のものは、失いません。そのように、設計いたしました」
ルチアは、巻物から顔を上げた。
オズワルドは、背筋を伸ばして座っていた。その手が、膝の上で、かすかに震えている。
「どうして、八年も、出さなかったの」
「旦那様は、いつもお忙しく」
家令の声は、平らだった。
「申し上げる機会がございませんでした。……いえ。それは、言い訳でございます」
「言い訳」
「私は、与えられた仕事を、完璧にこなすのが務めと、思っておりました。ご指示のないことに手を出すのは、出過ぎたことだと」
そこで、オズワルドは、一度、口をつぐんだ。
「ですが、毎年、案を書き直す手は、止まりませんでした」
円卓の上を、窓から入った光がゆっくり動いた。
ルチアは、巻物の端をそっと押さえた。
「オズワルド」
「はい」
「この案を、やってみて」
家令の目が、わずかに見開かれた。
「奥様、それは」
「わたくしに許されている範囲で、お任せします。まず、屋敷の人員配置と、勤務の割り振りは、あなたの判断で決めて」
「私の、判断で」
「ええ。わたくしに、いちいち確認しなくてもいいわ、それから、月に金貨十枚。屋敷の運営を良くするためなら、何に使ってもいい。使い道は、月の終わりに、簡単に教えてくれればいいわ」
「金貨、十枚」
「足りない?」
「いえ。そうではなく」
オズワルドは、言葉を探すように、唇を動かした。
「これまで、私の裁量で動かせる金額は、銅貨数枚の買い物までで」
「そう?では、今日から変わる」
「……よろしいのでしょうか」
「失敗してもいいわ」
ルチアは、さらりと言った。
「失う手間は、数日。あなたがそう設計したのでしょう」
オズワルドは、固まっていた。
やがて、ゆっくりと立ち上がった。そして、円卓の脇に歩み出て、深々と、ほとんど床に額がつきそうなほど、頭を下げた。
「……ありがとうございます」
声が、かすれていた。
「三十年、お仕えいたしました。ご指示のとおりに、動いてまいりました。……自分の案を、任された日は」
そこで、言葉が途切れた。
「初めてでございます」
ルチアは、何も言わなかった。
エマが、手帳に、小さく書いた。
『オズワルド様。三十年。初めて、任された』
その字は、いつもより、少しだけ丸かった。
翌朝。
ルチアは、いつものとおり九時に目を覚ました。
カーテンを引いたエマの顔が、いつもと違う。
「お嬢様。屋敷の様子が、別のものになっております」
「別のもの」
「ご覧になったほうが、早いかと」
廊下に出ると、壁に大きな板が掲げられていた。
白い板に、黒インクで書かれた見やすい表。朝の時間割。持ち場。交代の順番。昨日の巻物の、清書だった。
その前で、使用人たちが、首をひねりながら、自分の名前を探している。
「おい、俺の持ち場、洗濯場の次が厩になってるぞ」
「ここ、この時間は掃除じゃなくて、タバサ様の指導?」
「見習いは、全員、集合だって」
ざわついている。けれど、不思議と、誰の足も遅くない。
板の隣に、オズワルドが立っていた。両手を背に回し、使用人たちの質問に、短く答えている。
「あなたは、ここだ」
「はい」
「それは、午後に回しなさい。理由は、板の下の注記に」
「分かりました」
声が、昨日より、はっきりしていた。背筋も、さらに一本、通ったように見える。
いや、違う、肩の力が抜けている?
(……別人みたい)
ルチアは、廊下の端で、足を止めた。
侍女見習いの少女たちが、タバサの前に整列していた。全員、緊張した顔で。
「襟の折り返しは、人差し指の幅です」
タバサの声は、いつもと同じ、厳しい調子だった。
けれど、見習いのひとりが、小さく手を挙げた。
「あの、タバサ様。どうして、人差し指なのですか」
「どうして」
タバサは、一瞬、言葉に詰まった。
それから、ふっと息をついた。
「いい質問です。理由は、三つあります」
少女たちの目が、いっせいに輝いた。
エマが、ルチアの袖を引いた。
「お嬢様。見ましたか」
「ええ」
「あの方、三十分、一度も、自分で拭いておりません」
「ええ。見えているわ」
ルチアは、小さく笑った。
廊下の向こうで、オズワルドが、こちらに気づいた。
遠くから、深く、一礼した。
その顔が、ほんの少し、笑っているように見えた。




