第14話 七割の人たち
第二項目は、「一日一回、庭を散歩する」である。
ルチアは、翌朝、それを拡大解釈することにした。
ポケットには、昨日の委任状が入っている。まだ、名前は書き込んでいない。
「お嬢様。今日の散歩の範囲は、どこまででしょうか」
エマが、小さな手帳を開いて、真顔で訊いた。
「庭。廊下。階段。厨房の入り口まで。あと、洗濯場の前を通って、馬屋の横を抜けて」
「屋敷全部、でございますね」
「散歩よ」
「承知いたしました」
承知していない顔だった。ただ、手帳の一行目には、すでに今日の日付と「観察」の二文字が書いてある。
「エマ。これは、口を出すのではないわ」
「はい」
「見るだけ」
「はい」
「師匠から、そう教わりました」
「教わったのは、閣下のほうです」
エマは、手帳をぱたんと閉じた。
最初に通りかかったのは、玄関ホールだった。
オズワルドが、廊下の端に立っていた。両手を背に回し、使用人たちの動きを、一人ずつ目で追っている。
「おはようございます、奥様」
「おはよう、オズワルド。今日も、お屋敷は静かね」
「恐れ入ります」
ルチアは、ゆっくりと歩き出した。
使用人たちは、廊下をきびきびと往復している。誰も無駄に急がず、誰も遅れない。仕事は、正確だった。
(昨日の夕食から思っていたけれど)
見れば見るほど、感心する。
荷物を運ぶ従僕と、花を替える下女と、窓を拭く少年。それぞれの動線が、重ならない。重なりそうなところには、必ず誰かが先に立っていて、道を空ける。
(これは、誰かが全体を見ている)
オズワルドだった。彼は、廊下に立っているだけで、全員の動きを調整している。声も出さずに、目配せと、指の動きだけで。
(組織を回す力。……でも、これは「今ある人員」を「今ある順番」で回しているだけ)
ルチアは、廊下の隅の棚に目をやった。
棚の最下段に、細長く巻かれた紙が、一本、立てかけてあった。紐で縛ってあるが、埃は、かぶっていない。
(毎日、触っているのね)
エマが、小声で言った。
「あの巻物は」
「触らないで。見るだけ」
「承知いたしました」
次は、侍女の控え室の前を通った。
扉が半開きで、中から、タバサの声が聞こえた。
「違います」
「あ、はい」
「襟の折り返しは、人差し指の幅で、と何度」
「すみません」
「……いえ」
タバサは、ほんの少しだけ、声を落とした。
「私が、拭いておきます。次から気をつけなさい」
「ありがとうございます」
侍女見習いの少女は、頭を下げて去っていった。その後ろ姿を、タバサは、ほんの一瞬だけ、やさしい目で見送った。
それから、自分のハンカチを取り出して、少女が拭き残した窓枠の隅を、黙って拭いた。
ルチアは、扉の影で、そっと息を詰めた。
(教えたいのね。本当は)
厳しい人だと思っていた。それは、間違いではない。ただ、その厳しさの下に、「育てたい」という気持ちが、隠れている。
でも、自分で拭いてしまう。教えるより、早いから。教える時間を、与えられていないから。
エマが、手帳に書き込んだ。
「タバサ様。指導は一回のみ。再教育の機会、不明」
「見事な要約ね」
「お嬢様の分析を、短くしただけです」
厨房の前では、ガストンが、背を向けて立っていた。
肩が、少しだけ丸い。腕を組んだ後ろ姿が、昨日より、少し柔らかかった。
「おはよう、ガストン」
「……おはようございます」
「今日のスープも、楽しみにしています」
「……はい」
ガストンは、ぼそりと答えた。それから、ほんの少しだけ、口の端が動いた。
ルチアは、厨房の中をちらりと見た。作業台の端に、油の染みた小さなノートが置いてあった。表紙は擦り切れ、頁の端に、びっしりと鉛筆の字が書き込んである。
(……あれは、レシピ帳)
誰にも見せない、自分だけの。
ガストンは、ルチアの視線に気づいて、さっとノートを引き出しに隠した。それから、咳払いをした。
「失礼を」
「いいえ。わたくしこそ、立ち入って」
「いえ」
気まずい沈黙。エマが、ルチアの袖を引いて、そっと厨房から離れた。
「お嬢様。見るだけ、でございますよ」
「見ただけよ」
「ガストン様のお顔が、真っ赤でした」
「ええ。見えたわ」
最後は、庭だった。
ミロは、花壇の脇にしゃがみ込んで、小さな苗を植え替えていた。昨日と同じ、帽子を深くかぶった姿だ。
そのすぐ隣には、苗を入れた浅い木箱が、いくつも並んでいる。庭の花とは違う、見たことのない芽が、ちらほら顔を出していた。
「ミロ。それは」
「奥様」
ミロは、慌てて立ち上がった。それから、苗の箱の前に、さりげなく立ちふさがった。
「いえ、あの。ちょっとした、趣味でして」
「趣味」
「はい。庭の仕事とは関係ありません。……少しだけ、土の具合を見ているだけで」
ルチアは、箱の隅に、小さな札が立っているのを見つけた。「寒冷地向け」「痩せ地」「耐水」と、几帳面な字で書いてある。
(これ、庭の花じゃない。畑のための苗だわ)
領地の畑に、何が足りないのか。何を植えれば、収穫が増えるのか。ミロは、それを自分で調べて、こっそり、育てている。
誰にも頼まれないのに。
「ミロ」
「は、はい」
「お水は、足りているかしら」
「え。……はい」
「それなら、よかった」
ルチアは、それ以上、何も言わなかった。ただ、にこりと笑って、通り過ぎた。
ミロは、しばらく固まったまま、苗の箱を見つめていた。
昼過ぎ。
ルチアは、庭のベンチに腰を下ろした。エマが隣で、手帳を開いている。
風が、心地よかった。
「お嬢様。ご報告を」
「お願い」
「オズワルド様。全体の配置調整は、すでに完璧。ただし、棚に、使われていない配置図が一巻」
「ええ」
「タバサ様。指導は、一度のみ。見習いに、教える時間が与えられていない」
「ええ」
「ガストン様。レシピ帳を所持。誰にも見せていない」
「ええ」
「ミロ様。畑向けの苗を、無断で試験栽培中」
「ええ」
エマは、手帳を閉じた。
「皆様、お仕事は、完璧です。ただ」
「ただ?」
「皆様、引き出しの奥に、何かをしまっていらっしゃいます」
ルチアは、空を見上げた。
白い雲が、ゆっくりと流れている。
「七割ね」
「七割、でございますか」
「ええ。仕事は、きちんとこなしている。誰も、手を抜いてはいない。ただ、残りの三割は、引き出しの奥に」
ルチアは、ゆっくりと息を吐いた。
「あの方たち、使えるものを、使わせてもらっていないのよ。主が、いないから」
「主、でございますか」
「ええ。『ここまでやっていい』と言ってくれる人が」
エマは、少しだけ、目を細めた。
「お嬢様」
「なあに」
「お口を、出さないのでしたね」
「ええ」
「では、どうなさるのですか」
ルチアは、しばらく、黙っていた。
それから、小さく笑った。
「お茶会を、開くわ」
「お茶会、でございますか」
「一人ずつ、順番に。お話を、聞くだけ」
「口は」
「出さないわ。聞くだけ」
「承知いたしました」
エマは、手帳の新しい頁を開いた。そして、いちばん上に、小さな字で書いた。
『明日から、お茶会(四人)』
それから、その下に、もう一行、書き足した。
『第三項目、見送り』
ルチアは、それを覗き込んで、ふっと笑った。
「見送りなの?」
「はい。お嬢様が、守ろうとなさっている限り、完全に破られた、とは申しません」
「優しいのね」
「いえ」
エマは、手帳を閉じた。
「賭けておりませんので、勝ち負けが付けられないだけです」




