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婚約破棄された転生令嬢は、今世こそスローライフを送りたい ~ちょっと指摘しただけなのに領地が勝手に発展して、冷徹公爵様に「師匠」と呼ばれています~  作者: 滝内亜依
第2章 公爵領でスローライフ(のつもり)

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第13話 師匠の理由は、長い話でした

 午後の庭は、風が穏やかだった。

 東屋の円卓には、ガストンが焼いたばかりの菓子と、二人分の紅茶が並んでいる。ルチアは、背もたれに体を預けて、空を見上げた。

「さて。長い話を、伺いましょうか」

 向かいの席で、公爵は姿勢を正した。

「長い」

「そうおっしゃいました」

「……では、順を追って話す」

 公爵は、カップに視線を落とした。

「三年前。私は、財務の仕事で、大きな失敗をしかけた」

「閣下が?」

「王宮の年度末の資金繰りだ。収入の見込みと支出の予定が、どうしても合わなかった。期限は三日。私は、徹夜で数字を並べ直していた」

 ルチアは、紅茶を口に運んだ。

「そのとき、部下のベルナールが、一枚の紙を持ってきた」

「兄が」

「彼の妹からの手紙だった、と言う。家の帳簿の相談に、妹が書いてくれた返事を、たまたま鞄に入れていたらしい。『うちの妹は天才なので、参考になるかもしれません』と」

 ルチアの手が、止まった。

(兄様。そういうことを、職場で)

「私は、半信半疑で、それを読んだ」

 公爵は、ほんの少し、息を吐いた。

「そこには、支払いの順番を入れ替えるだけで、資金の山と谷を平らにする方法が書いてあった。魔法のようなことは何もない。ただ、誰も気づかなかった『順番』だった」

「それは」

「その手紙の通りに並べ直したら、三日が二日で済んだ」

「……運が良かっただけでは」

「何度か、同じことがあった」

 公爵は、淡々と言った。

「その後も、ベルナールは、事あるごとに、妹の手紙を見せてきた。私は、毎回、悔しかった。私が一週間かけて悩んでいることを、見たこともない令嬢が、便箋一枚で解いてしまう」

「便箋一枚、ですか」

「一枚だ。しかも、最後に必ず、『ご自愛ください』と書いてある」

 エマが、少し離れた木陰で、咳を我慢している。

「それで」

「それで、一度、会ってみたいと思った。だが、会うきっかけがなかった。ベルナールに頼めば、すぐに紹介してもらえただろうが、頭を下げるのは、どうにも」

「なぜ」

「財務卿の面子だ」

 ルチアは、思わず、笑った。

 公爵は、少し、むっとした顔をした。

「笑うな」

「失礼しました。ですが、面子と言われると、閣下がずいぶんと可愛らしく見えて」

「かわ」

 公爵は、紅茶を、危うく取り落としそうになった。

「……話を進める」

「どうぞ」

「そんなときに、あの夜会だ」

 ルチアの背筋が、すっと伸びた。

 あの夜会。婚約破棄の夜。

「私は、たまたま、会場の隅にいた。そこで、ひとりの令嬢が、婚約者に、青い紐で束ねた書類を渡している場面を見た」

「……ご覧になっていたのですか」

「遠くからだが、手元の紙は見えた。期日ごとの支払い。取引先の連絡先。領地の収支の引き継ぎ。……あれは、完璧な引き継ぎ書だった」

 公爵は、真っ直ぐにルチアを見た。

「しかも、婚約破棄を告げられる前に、渡していた。相手が何を言い出すか、見抜いていたかのように」

「それは、その」

「あの手紙の令嬢だと、直感した。ベルナールの妹は、確か、婚約者のいる令嬢だったな、と」

 ルチアは、カップの縁を見つめた。

(あの夜に、そんなところまで)

「だから、声をかけた。……会いたかったからだ」

 最後の一言は、少し小さな声だった。

 ルチアは、聞こえなかったことにした。

「そういうことでしたか」

「そういうことだ」

「それで、師匠」

「そうだ」

 公爵は、頷いた。

「教わったことは、何度もある。教わった相手に、敬意を払うのは、当然のことだ」

 静かな言葉だった。ルチアは、胸の奥が、温かくなるのを感じた。

(……ずるいわね。そう言われると、断りにくい)

「では」

 ルチアは、カップを置いた。

「わたくしからも、一つ、言わせてください」

「何だ」

「わたくしは、この国の制度に、詳しくありません」

「そう、なのか」

「領地を持つ貴族が、王宮に何を届けなければならないのか。どういう場合に、役人が調査に来るのか。そういう『決まり』は、ほとんど知りません。実家のことは分かりますが、公爵家となると」

 公爵は、目を丸くした。

「あなたが、知らないことがあるのか」

「たくさんあります」

 ルチアは、真顔で言った。

「ですから、閣下は、わたくしの師匠でもあります」

 沈黙。

 公爵が、ゆっくりと、瞬きをした。

「……私が」

「はい」

「あなたの」

「師匠です」

「…………」

 公爵は、しばらく、動かなかった。

 それから。

 ほんの少しだけ、口の端が、持ち上がった。

 笑った、と気づくまでに、ルチアは、二秒かかった。

 涼しい顔の公爵が、初めて、小さく笑った。目元が緩み、普段の冷たさが消えて、驚くほど柔らかい表情になった。

(……あ)

 ルチアは、慌てて紅茶を飲んだ。熱かった。

「それなら、互いに師匠だな」

「そう、なりますね」

「では、早速、一つ、授業を」

 公爵は、懐から、折り畳んだ紙を取り出した。

「これは、領地の運営に関する委任状だ。私の署名はしてある。あなたの名前を書き込めば、公爵家の領地の帳簿、予算、人事に関する閲覧と提案の権限を、あなたに渡せる」

「待ってください」

「見るだけでいい」

「見るだけ」

「見て、気づいたことを、ぽろっと言うだけでいい。あなたの言った条件だ」

 ルチアは、数秒間、固まった。

(一、授業はしない。わたくしは、気づいたことをぽろっと言うだけ。……それを、逆手に取られている)

「……ずるいです」

「師匠の教えだ」

 公爵は、涼しい顔で言った。

 その顔が、わずかに、笑っていた。

 ルチアは、渋々、紙を受け取った。

 夕方。

 公爵の馬車が、車寄せに着いた。使用人たちが、玄関に整列している。

「王都の仕事に、戻らねばならない。三日で、また来る」

「三日、ですか」

「二日にするか」

「三日で結構です」

「分かった。また来る」

「邪魔をしに」

「師匠のお顔を見に」

 ルチアは、ため息をついた。

 公爵は、馬車に乗り込んだ。扉が閉まる直前、ルチアのほうを見て、少しだけ頷いた。

 馬車が、ゆっくりと門を出ていった。

 オズワルドが、その背に深く一礼した。タバサは、整列した使用人たちに「持ち場へ」と目で合図を出した。ガストンは、厨房に走って戻った。夕食の仕込みが、まだ残っている。

 その背中が、少しだけ、早足だった。

「お嬢様」

 エマが、横に並んだ。

「ご報告が、ございます」

「なあに」

「ラディ様のお屋敷の件です」

 ルチアは、エマのほうを見た。

「王都の知人から、聞いてまいりました。ウィンスロー家で、支払いの遅れが続いているそうです。仕入れ先が、三軒、督促状を出したとか」

「まあ」

「ラディ様が、『こんな書類は知らない』と、使用人たちに怒鳴っていらっしゃるとのことです」

「青い紐の資料は?」

「開いた形跡は、あるそうです。ただ、内容が頭に入っていらっしゃらないご様子で」

 ルチアは、遠くの空を見上げた。

 夕焼けの色が、庭の木々を橙に染めている。

「……そう」

「お嬢様、あまり、驚かれませんね」

「だって、書いてあるもの。『ご不明な点は、まず、こちらから』と」

「はい」

「それを、読まなかっただけよ」

 ルチアは、特に感情を込めずに、そう言った。

 隣で、エマが、満足そうに頷いた。

「お嬢様。第三項目」

「何も、していないわ」

「承知いたしました」

 承知していない顔だった。

 ルチアは、ポケットに入れた委任状の、紙の端に、そっと触れた。

(……見るだけ。見るだけよ)

 そう自分に言い聞かせたが、紙の端は、思ったよりも、手に馴染んだ。

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