第13話 師匠の理由は、長い話でした
午後の庭は、風が穏やかだった。
東屋の円卓には、ガストンが焼いたばかりの菓子と、二人分の紅茶が並んでいる。ルチアは、背もたれに体を預けて、空を見上げた。
「さて。長い話を、伺いましょうか」
向かいの席で、公爵は姿勢を正した。
「長い」
「そうおっしゃいました」
「……では、順を追って話す」
公爵は、カップに視線を落とした。
「三年前。私は、財務の仕事で、大きな失敗をしかけた」
「閣下が?」
「王宮の年度末の資金繰りだ。収入の見込みと支出の予定が、どうしても合わなかった。期限は三日。私は、徹夜で数字を並べ直していた」
ルチアは、紅茶を口に運んだ。
「そのとき、部下のベルナールが、一枚の紙を持ってきた」
「兄が」
「彼の妹からの手紙だった、と言う。家の帳簿の相談に、妹が書いてくれた返事を、たまたま鞄に入れていたらしい。『うちの妹は天才なので、参考になるかもしれません』と」
ルチアの手が、止まった。
(兄様。そういうことを、職場で)
「私は、半信半疑で、それを読んだ」
公爵は、ほんの少し、息を吐いた。
「そこには、支払いの順番を入れ替えるだけで、資金の山と谷を平らにする方法が書いてあった。魔法のようなことは何もない。ただ、誰も気づかなかった『順番』だった」
「それは」
「その手紙の通りに並べ直したら、三日が二日で済んだ」
「……運が良かっただけでは」
「何度か、同じことがあった」
公爵は、淡々と言った。
「その後も、ベルナールは、事あるごとに、妹の手紙を見せてきた。私は、毎回、悔しかった。私が一週間かけて悩んでいることを、見たこともない令嬢が、便箋一枚で解いてしまう」
「便箋一枚、ですか」
「一枚だ。しかも、最後に必ず、『ご自愛ください』と書いてある」
エマが、少し離れた木陰で、咳を我慢している。
「それで」
「それで、一度、会ってみたいと思った。だが、会うきっかけがなかった。ベルナールに頼めば、すぐに紹介してもらえただろうが、頭を下げるのは、どうにも」
「なぜ」
「財務卿の面子だ」
ルチアは、思わず、笑った。
公爵は、少し、むっとした顔をした。
「笑うな」
「失礼しました。ですが、面子と言われると、閣下がずいぶんと可愛らしく見えて」
「かわ」
公爵は、紅茶を、危うく取り落としそうになった。
「……話を進める」
「どうぞ」
「そんなときに、あの夜会だ」
ルチアの背筋が、すっと伸びた。
あの夜会。婚約破棄の夜。
「私は、たまたま、会場の隅にいた。そこで、ひとりの令嬢が、婚約者に、青い紐で束ねた書類を渡している場面を見た」
「……ご覧になっていたのですか」
「遠くからだが、手元の紙は見えた。期日ごとの支払い。取引先の連絡先。領地の収支の引き継ぎ。……あれは、完璧な引き継ぎ書だった」
公爵は、真っ直ぐにルチアを見た。
「しかも、婚約破棄を告げられる前に、渡していた。相手が何を言い出すか、見抜いていたかのように」
「それは、その」
「あの手紙の令嬢だと、直感した。ベルナールの妹は、確か、婚約者のいる令嬢だったな、と」
ルチアは、カップの縁を見つめた。
(あの夜に、そんなところまで)
「だから、声をかけた。……会いたかったからだ」
最後の一言は、少し小さな声だった。
ルチアは、聞こえなかったことにした。
「そういうことでしたか」
「そういうことだ」
「それで、師匠」
「そうだ」
公爵は、頷いた。
「教わったことは、何度もある。教わった相手に、敬意を払うのは、当然のことだ」
静かな言葉だった。ルチアは、胸の奥が、温かくなるのを感じた。
(……ずるいわね。そう言われると、断りにくい)
「では」
ルチアは、カップを置いた。
「わたくしからも、一つ、言わせてください」
「何だ」
「わたくしは、この国の制度に、詳しくありません」
「そう、なのか」
「領地を持つ貴族が、王宮に何を届けなければならないのか。どういう場合に、役人が調査に来るのか。そういう『決まり』は、ほとんど知りません。実家のことは分かりますが、公爵家となると」
公爵は、目を丸くした。
「あなたが、知らないことがあるのか」
「たくさんあります」
ルチアは、真顔で言った。
「ですから、閣下は、わたくしの師匠でもあります」
沈黙。
公爵が、ゆっくりと、瞬きをした。
「……私が」
「はい」
「あなたの」
「師匠です」
「…………」
公爵は、しばらく、動かなかった。
それから。
ほんの少しだけ、口の端が、持ち上がった。
笑った、と気づくまでに、ルチアは、二秒かかった。
涼しい顔の公爵が、初めて、小さく笑った。目元が緩み、普段の冷たさが消えて、驚くほど柔らかい表情になった。
(……あ)
ルチアは、慌てて紅茶を飲んだ。熱かった。
「それなら、互いに師匠だな」
「そう、なりますね」
「では、早速、一つ、授業を」
公爵は、懐から、折り畳んだ紙を取り出した。
「これは、領地の運営に関する委任状だ。私の署名はしてある。あなたの名前を書き込めば、公爵家の領地の帳簿、予算、人事に関する閲覧と提案の権限を、あなたに渡せる」
「待ってください」
「見るだけでいい」
「見るだけ」
「見て、気づいたことを、ぽろっと言うだけでいい。あなたの言った条件だ」
ルチアは、数秒間、固まった。
(一、授業はしない。わたくしは、気づいたことをぽろっと言うだけ。……それを、逆手に取られている)
「……ずるいです」
「師匠の教えだ」
公爵は、涼しい顔で言った。
その顔が、わずかに、笑っていた。
ルチアは、渋々、紙を受け取った。
夕方。
公爵の馬車が、車寄せに着いた。使用人たちが、玄関に整列している。
「王都の仕事に、戻らねばならない。三日で、また来る」
「三日、ですか」
「二日にするか」
「三日で結構です」
「分かった。また来る」
「邪魔をしに」
「師匠のお顔を見に」
ルチアは、ため息をついた。
公爵は、馬車に乗り込んだ。扉が閉まる直前、ルチアのほうを見て、少しだけ頷いた。
馬車が、ゆっくりと門を出ていった。
オズワルドが、その背に深く一礼した。タバサは、整列した使用人たちに「持ち場へ」と目で合図を出した。ガストンは、厨房に走って戻った。夕食の仕込みが、まだ残っている。
その背中が、少しだけ、早足だった。
「お嬢様」
エマが、横に並んだ。
「ご報告が、ございます」
「なあに」
「ラディ様のお屋敷の件です」
ルチアは、エマのほうを見た。
「王都の知人から、聞いてまいりました。ウィンスロー家で、支払いの遅れが続いているそうです。仕入れ先が、三軒、督促状を出したとか」
「まあ」
「ラディ様が、『こんな書類は知らない』と、使用人たちに怒鳴っていらっしゃるとのことです」
「青い紐の資料は?」
「開いた形跡は、あるそうです。ただ、内容が頭に入っていらっしゃらないご様子で」
ルチアは、遠くの空を見上げた。
夕焼けの色が、庭の木々を橙に染めている。
「……そう」
「お嬢様、あまり、驚かれませんね」
「だって、書いてあるもの。『ご不明な点は、まず、こちらから』と」
「はい」
「それを、読まなかっただけよ」
ルチアは、特に感情を込めずに、そう言った。
隣で、エマが、満足そうに頷いた。
「お嬢様。第三項目」
「何も、していないわ」
「承知いたしました」
承知していない顔だった。
ルチアは、ポケットに入れた委任状の、紙の端に、そっと触れた。
(……見るだけ。見るだけよ)
そう自分に言い聞かせたが、紙の端は、思ったよりも、手に馴染んだ。




