第12話 私を弟子にしてください、師匠!
ルチアが目を覚ましたのは、十時だった。
昨夜の予感が外れていてくれることを、枕に顔を埋めたまま、少しだけ祈った。
「お嬢様」
カーテンを引きながら、エマが言った。
「閣下が、応接間にいらっしゃいます」
「何時から」
「六時からです」
「六時」
「オズワルド様が、『奥様はお休み中です』と三度申し上げたのですが、『待つ』とおっしゃって」
ルチアは、掛け布団を頭までかぶった。
「……私、まだ寝ていることにならない?」
「なりません」
エマは、きっぱりと言った。
「閣下は、昨夜、一睡もされていないそうです。商会登録簿の写しが、未明に王都から届きました。ウォルト商会は、登録がございませんでした」
「そう」
「元会計官の署名の控えも照合が済み、本日中に、捕縛の手配が出るそうです」
「早いわね」
「お嬢様のおかげです」
「お茶をご一緒しただけよ」
「その台詞を、閣下の前で言わないでください」
エマが、ルチアの肩を、容赦なく揺すった。
応接間の扉を開けると、公爵が、窓際に立っていた。
昨夜と同じ服。眠っていない目。ただ、不思議なほど、背筋は伸びている。
ルチアを見ると、ぱっと、姿勢を正した。
「おはよう」
「おはようございます、閣下。お待たせして」
「いや。待ってなどいない」
「六時からいらっしゃったと」
「たまたま、早く着いただけだ」
エマが、部屋の隅で、そっと茶器を並べた。咳払いを、一度だけした。
「それで、大事なお話というのは」
ルチアは、ソファに腰を下ろした。心の中で、予防線を、三重に張った。
公爵は、向かいの席には座らなかった。
その場で、ルチアの前に歩み寄り、静かに背筋を伸ばした。
そして。
深く。九十度。
頭を、下げた。
「クラレンス嬢」
「は、はい」
「私を、弟子にしてください、師匠」
沈黙。
ルチアは、ゆっくりと、エマのほうを向いた。
エマは、茶器を持ったまま、固まっていた。
「…………エマ。今、何か、聞こえた?」
「はい。たしかに」
「何と、聞こえた?」
「『弟子』と、『師匠』が」
「私にも、そう聞こえたの」
ルチアは、公爵に向き直った。
「閣下。恐れ入りますが、お顔を、お上げください」
「いえ。この姿勢で」
「お上げください」
「……分かりました」
公爵は、頭を上げた。
その目が、驚くほど真剣だった。
「昨夜の、あなたの手腕を見て確信しました。私は、これまで、王国屈指の財務家と呼ばれてきましたが、それは思い上がりでした」
「それは違いますでしょう」
「いえ。あなたは、私が一晩かけても見つけられなかったものを、茶を飲む間に見つけた。その目を、私は持っていない」
「たまたま、目についただけです」
「たまたまで、三百枚の金貨は、見つかりません」
公爵は、真っ直ぐに言った。
「どうか、その技術を、私に教えてください」
ルチアは、深呼吸をした。
「閣下。ご存じのとおり、わたくしは、ここでスローライフを送る予定でして」
「承知しています」
「弟子を取る予定は、ございません」
「では、これを機会に、予定を」
「嫌です」
即答だった。
エマが、窓の外へ視線を逸らした。肩が、微かに震えている。
公爵は、数秒間、沈黙した。
それから。
「…………では」
「はい」
「弟子には、なれないということですか」
「なれません。お断りします」
「分かりました」
公爵は、素直に頷いた。
ルチアは、ほっとした。
「では、せめて、師匠と呼ばせてください」
「…………」
「……はい?」
「弟子にならなくて構いません。ただ、お呼びする際の名称を『師匠』にしたい」
「それは、弟子ではありませんか」
「違います。尊称です」
「師匠を、弟子以外の人が使うのですか」
「使います。たとえば、街道沿いの宿屋の主人を」
「それは、料理の師匠でしょう」
「私が、財務の師匠と呼ぶのも、同じです」
「ですが、閣下は、わたくしより年上で」
「年は関係ありません」
「公爵様で、財務卿で」
「身分も関係ありません」
「わたくしは、二十歳の小娘で」
「帳簿には、年齢は書いてありません」
ルチアは、言い返す言葉を、一つ失った。
エマが、窓の外を向いたまま、肩を震わせている。
ルチアは、額に手を当てた。
ひとつ、思い出した。
あの夜、契約の条件を詰めていたとき。公爵が、一度だけ「師……」と言いかけて、慌てて咳払いをしたことがあった。あれは、てっきり、言い間違いか何かだと思っていた。
(あの時から、ずっと考えていたのね)
ルチアは、ため息をついた。
「条件があります」
「何でも」
「一、授業は、いたしません。わたくしは、教えるのではなく、気づいたことを、ぽろっと言うだけです」
「承知しました」
「二、わたくしの昼寝の時間は、邪魔をしないでください」
「承知しました」
「三、呼び方は、人前では控えてください。使用人の前では、『奥様』で結構です」
「それは」
公爵は、初めて、言葉に詰まった。
「では、私の前では、『師匠』で」
「ほかの人がいない場所だけです」
「……お約束します」
「四つ目です」
「まだあるのですか」
「その、敬語をやめてください」
「え」
「閣下は、わたくしの夫です。契約上は」
ルチアは、きっぱりと言った。
「夫が、妻を師匠と呼びながら、敬語で話すのは、傍から見て、おかしいでしょう」
公爵は、しばらく、考えていた。
それから、小さく、頷いた。
「……分かった。努力する」
「それです」
「ありがとう、師匠」
「その呼び方は、まだ、二人きりのときだけです」
「分かっている」
二人は、同時に、黙った。
しばらくの沈黙のあと、ルチアが、ふと、笑った。
「閣下。わたくしの『師匠』という呼び名、本気ですか」
「本気だ」
「悪い意味での冗談では」
「これほど真剣に冗談を言える人間は、いないと思うが」
「それは、そうですね。……そもそも、どうして、師匠なのです」
「それは」
公爵は、ほんの少し、視線を逸らした。
「少し、長い話になる。また、改めて」
「長い話」
「ああ。聞いてくれるか」
「……お茶が冷めない程度でしたら」
エマが、そっと、茶を差し出した。
「お茶を、お持ちしました」
「ありがとう、エマ」
「いえ」
エマは、公爵とルチアに向かって、完璧な笑顔で一礼した。
「どうぞ、末永く、お続けください」
その言葉が、誰に向けられたものなのか、ルチアには、判断がつかなかった。
廊下では、トレイを持ったオズワルドが、扉の外で足を止めていた。
「…………」
聞こえてしまった。
「師匠」という呼び名が、はっきりと、聞こえてしまった。
家令は、しばらく静止していた。それから、静かにトレイを持ち直した。何事もなかったかのように、歩き出した。
ただ、廊下の角を曲がったところで、立ち止まった。
「…………閣下が、師匠、と」
それだけを、小さく呟いた。
その噂は、昼までに、屋敷を一周した。




