第11話 その商会、一字だけ違います
翌日の夜。
書斎の扉の前で、ルチアは立ち止まっていた。
手には、茶盆。盆の上には、湯気の立つカップが二つと、小さな焼き菓子の皿。
「お嬢様」
後ろで、エマが静かに言った。
「お茶を出すだけ、でございますね」
「ええ。出すだけよ」
「ご自分で、運ばれる必要は」
「昨夜から、閣下は何も召し上がっていないそうよ。オズワルドが、困っていたの」
「承知いたしました」
承知していない顔だった。
扉を叩く。返事は、なかった。もう一度叩く。やはり、返事はない。
そっと開けた。
書斎は、紙の匂いがした。机の上にも、床の上にも、帳簿が積み上がっている。燭台の灯りの下で、公爵が、片手にペンを持ったまま、動かずに座っていた。
頬が、ほんの少し、こけていた。
「閣下。お茶を」
「……ああ」
公爵は、顔を上げた。ルチアを見て、少し驚いた顔をした。
「あなたか」
「オズワルドに頼まれました。お食事を」
「いらない」
「お茶だけでも」
ルチアは、盆を机の端に置いた。それから、積み上がった帳簿に、ちらりと目をやった。
どれも、公爵領の収支帳簿だった。三年分。背表紙に年号が書いてある。
「領地の帳簿ですね」
「ああ」
「何を、お調べに」
「私は」
公爵は、ペンを置いた。
「二か月前に、担当者を解雇した。この領地の会計を預かっていた男だ」
「解雇、ですか」
「横領の疑いがあった。確証はなかったが、あまりにも不自然な数字が続いていて、私が耐えられなかった」
ルチアは、頷いた。
「ですが、証拠が出ない」
「そうだ。何度見直しても、帳簿の数字は、きれいに合っている。合いすぎている、と言うべきか」
公爵は、苦く笑った。
「三年分。昨夜から、見ている。私は財務が専門だ。それなのに、見つけられない」
(そう。見つけられないのね)
ルチアは、何気なく、一番手前の帳簿に手を伸ばした。
「拝見しても、よろしいですか」
「……構わないが、面白いものではない」
「眠くなりますか」
「なる」
「では、ちょうどいいです」
ルチアは、ページをめくった。
最初に目に入ったのは、麦の購入の欄だった。月ごとに、きれいに並んでいる。
(日付と、品目と、数量と、単価と、仕入れ先。形式は、問題なし)
二ページ目。三ページ目。
「あら」
「どうした」
「この商会、先月までは『ウォルド商会』だったのに、今月から『ウォルト商会』になっていますね」
ルチアは、指でそっと示した。
「字を、間違えたのでしょうか」
公爵の手が、止まった。
「…………何?」
「ほら、ここ。濁点の有無です。二行下の欄では、まだ『ウォルド』のままです」
「見せてくれ」
公爵は、帳簿を引き寄せた。目を凝らす。しばらく、無言で見つめた。
「……確かに」
「単なる書き間違いだとは思うのですが」
「いや。待ってくれ」
公爵は、立ち上がった。別の帳簿を、乱暴に引き出す。ページをめくる。指が、速く動く。
「ウォルド商会は、実在する。王都の穀物商だ。私も取引をしたことがある」
「はい」
「では、ウォルト商会は」
公爵は、言葉を切った。
「聞いたことがない」
ルチアは、ほんの少し首をかしげた。
「そうですか。では、今月から取引先を増やされたのでしょう」
「それは、ない」
公爵の声が、低くなった。
「新規の取引先を登録するときは、私の署名が要る。ウォルト商会の署名を、私は、した覚えがない」
書斎の空気が、変わった。
ルチアは、湯気の立つカップを、公爵のほうへ押しやった。
「お茶を」
「……あなたは」
「はい」
「この数字の、他の欄も、見ているのか」
「いえ。見える範囲で、気になっただけです」
ルチアは、帳簿の別の欄を指した。
「あと、これは余談ですが。金額が、全部、切りのいい数字ですね。麦の価格は、天候や運賃で毎月、端数が出るものです。ここだけ、まるで定額のようです」
「…………」
「ウォルト商会の欄だけ、です。ほかの商会は、きちんと端数が出ています」
「切りのいい数字、か」
公爵は、ペンを取り直した。紙の端に、ものすごい速さで計算を始める。ルチアは、その手元を、静かに見ていた。
(領収書の控えと、突き合わせれば、すぐに分かるはず)
前世で、何百社と見てきた。帳簿というものは、嘘をつくとき、必ず、どこかを「きれい」にしすぎる。
公爵のペンが、止まった。
「……合っている」
「何が、でしょう」
「あなたの言った箇所だ。ウォルト商会への三か月分の支払いが、ちょうど金貨三百枚。私が、解雇した男の横領額として見積もっていた数字と、ぴたりと一致する」
公爵は、ゆっくりと顔を上げた。
その目が、大きく見開かれていた。
「……あなたは、一度見ただけで」
「ええ。たまたま、目についたもので」
「たまたま」
「はい」
公爵は、しばらく、ルチアの顔を見つめていた。それから、帳簿に視線を落とし、また、ルチアを見た。
そして、天井を仰いで、深く息を吐いた。
「ベルナール」
「兄、ですか?」
「お前の妹は」
誰もいない天井に向かって、公爵が言った。
「本当に、天才だった」
エマが、扉の影で、小さく咳をした。ルチアは、見なかったことにした。
「閣下。わたくしは、本当に、たまたま」
「たまたまで、一晩かけても見つけられなかったものが見つかるか」
公爵は、勢いよく立ち上がった。
「すぐに、王都の商会登録簿を取り寄せる。ウォルト商会が存在しなければ、帳簿の偽造と、横領の証拠になる。解雇した男の筆跡と、署名の控えも調べさせる」
「お役に立てて、よかったです」
「役に立つ、どころでは」
公爵は、言葉に詰まった。
それから、もう一度、ルチアの顔をしっかりと見た。
先ほどまで、こけていた頬に、色が戻っている。
涼しい目の奥に、これまで見たことのない光が、灯っていた。
「クラレンス嬢」
「はい」
「明日の朝、時間をもらえるだろうか」
「……朝は、遅く起きる予定でして」
「何時でもいい。あなたが起きるまで、待つ」
「あの、何のお話で」
「大事な話だ」
公爵は、それだけを言った。そして、これまでで一番まっすぐな目で、ルチアを見た。
ルチアの背中を、冷たいものが走った。
(……なんだか、嫌な予感がするわ)
扉の影で、エマが、小声で言った。
「お嬢様。第三項目、完全に」
「言わないで」




