第10話 閣下は、何も見ていない
窓の外では、まだ、誰も動いていなかった。
夕焼けの庭に、じょうろを持った青年と、フードをかぶった女性が、十歩ほど離れて立っている。風が、花壇の端の花をそっと揺らした。
「……お嬢様」
エマが、ごく小さな声で言った。
「あれは」
「見守りましょう」
「見守る、のですね」
「ええ。見守るだけよ」
ルチアは、窓枠に手を置いた。隣では、公爵が、ぴくりとも動かずに立っている。
最初に口を開いたのは、ミロだった。
「シルヴェリア」
庭の隅から、窓のこちらまで、かすかに声が届く。
「……何年ぶりだろう。君が、俺の名前を、そんなふうに」
「三年と四か月です」
シルヴェリアは、フードを下ろした。白金の髪が、夕風にほどける。
「ミロ。あなたが、この国に渡ったと聞いて、わたくしは、いてもたってもいられなくなりました。あなたを置いていけなくて、勝手に、船に乗りました」
「知ってる。……いや、知っていた。船着場で、君の姿を見つけたとき、俺は」
ミロは、じょうろを持ったまま、言葉に詰まった。
「俺は、てっきり、君は俺のことが嫌いなのだと思っていた」
「え」
「だって君は、いつも冷たかった」
「冷たくなど」
「俺が花の話をすると、すぐに話を変える」
「それは、あなたの花の話が長いからです」
「俺の話を聞く気がないのだと」
「聞きたかったのです」
シルヴェリアの声が、少し震えた。
「聞きたかったから、そばに、いたのです。一番近い席で、あなたが話し終えるまで、ずっと」
ミロは、しばらく、目を瞬いていた。
「…………」
「わたくしが、あなたを、好きだったからです」
ぽとり、と。
じょうろから、水が、一滴だけ落ちた。
窓の内側で、エマの手が、ルチアの袖をぎゅっと掴んだ。
「お嬢様、お嬢様、今、今」
「落ち着いて、エマ」
「今、聞こえました」
「ええ。聞こえたわ」
ルチアも、実は、袖を握り返していた。
庭の二人は、まだ動かない。
やがて、ミロが、ゆっくりと、じょうろを足元に置いた。
「……俺も」
「え」
「俺も、ずっと」
ミロは、帽子の落ちた頭を、自分で撫でた。長い耳の先が、赤く染まっている。
「君が、ここまで来てくれたのは、俺のことが心配だったからだと。幼馴染だから、放っておけないだけだと。そう思って、何も言わなかった」
「……では」
「では」
二人は、同時に、口を開いた。
「「ずっと、お互いに」」
そして、同時に、黙った。
十歩の距離が、一歩になり、半歩になった。
窓の内側で、エマが、両手で口を押さえている。
「お嬢様。お嬢様、あの、距離が」
「エマ」
「近いです」
「ええ」
「あれは、もう、抱き合うのでは」
「ええ」
「ああっ」
エマは、窓枠に額を押しつけた。
庭の二人は、確かに、抱き合っていた。シルヴェリアは、ミロの胸に顔を埋めている。ミロは、その白金の髪に、おそるおそる、手を置いた。
「三年と四か月も、無駄にした」
「無駄では、ありません」
「いや、無駄だ。毎日、君に花を見せられたのに」
「これからも、見せてください」
「毎日?」
「毎日」
ミロは、笑った。笑って、ちょっと泣いた。
ルチアは、窓の内側で、そっと目頭を押さえた。
(……いい話だわ。こんな展開、ゲームにはなかった)
前世で、何度も観た、少し遅れた恋の物語を思い出した。六十二歳相当の胸には、こういうのが、とても染みる。
その時だった。
「…………」
隣の気配が、あまりにも静かなことに、ルチアは気づいた。
公爵だった。
窓の外を見たまま、腕を組んだ姿勢で、立っている。表情は涼しい。目は開いている。口元も、動いていない。
動いていないが、さきほどから、一度も瞬きをしていない。
「閣下」
「…………」
「閣下?」
「……何だ」
「大丈夫ですか」
「何がだ」
「お顔が」
「顔は、いつも通りだ」
「お辛いのでは」
「私は」
公爵は、庭から視線を外さないまま、言った。
「何も、見ていない」
「見ていらっしゃいました」
エマが、小声で突っ込んだ。
「エマ」
「失礼いたしました」
沈黙。
庭では、ミロとシルヴェリアが、額をくっつけて何かを囁き合っている。ミロが、シルヴェリアの髪に挿した花を直している。シルヴェリアは、人間に向ける顔とは全く違う、やわらかい笑い方をしていた。
公爵は、まだ、瞬きをしない。
「あの方は」
やがて、低い声が、ぽつりと落ちた。
「私の前で、あんなふうに笑ったことは、一度もなかった」
ルチアは、何も言わなかった。
何を言っても、軽くなる気がした。
代わりに、エマに目配せをした。エマは、無言で頷き、茶を一杯、すっと差し出した。
公爵は、受け取った。ひと口、飲んだ。
「…………」
「お茶は、ガストンが淹れ方を変えました」
「……旨い」
「はい」
「旨い、が」
公爵は、カップの縁を見つめた。
「三年、私は、何を見ていたのだろうな」
「閣下」
ルチアは、静かに言った。
「閣下は、あの方を、お好きだったのでしょう」
「ああ」
「望まれない相手を、お傍に置いたことは、よくありませんでした」
「分かっている」
「でも、好きだった気持ちは、嘘ではありません」
公爵は、ゆっくりと、ルチアのほうを見た。
「あなたは、私を慰めているのか」
「慰めてはいません」
ルチアは、首を振った。
「事実を、申し上げただけです」
公爵の口元が、ほんの一瞬、動いた。笑ったのか、苦笑いしたのか、判別できないくらい、小さな動きだった。
それから彼は、カップを置いて、背筋を伸ばした。
「クラレンス嬢」
「はい」
「今夜は、書斎で仕事をする」
「え」
「いまの私には、数字しかない」
「閣下、それは」
「領地の帳簿を、全部出させてくれ」
エマが、ルチアの袖を引いた。
「お嬢様、これは」
「ええ」
「逃げ込む気です」
「ええ。分かるわ」
ルチアは、ため息をついた。
人は、失恋すると、仕事に逃げ込む。前世で、何人もの若い経営者が、同じことをした。そのたびに、止めなかった。止めても、無駄だからだ。
「オズワルドに、そう伝えます」
「感謝する」
公爵は、背を向けて、歩き出した。いつもと変わらない、まっすぐな歩き方だった。
扉の前で、ふと、足を止めた。
「……クラレンス嬢」
「はい」
「あなたの、先ほどの言葉は」
「はい」
「悪くなかった」
それだけを言って、出ていった。
ルチアは、扉の閉まる音を聞きながら、窓の外に目を戻した。
庭では、最後の夕日が、二人の肩を金色に染めていた。ミロが、じょうろを拾って、シルヴェリアの手に持たせている。
「お花に、お水をあげましょう」
「わたくしが」
「一緒に」
水が、花壇に落ちる音が、ここまで、かすかに届いた。
エマが、ぼそりと言った。
「お嬢様」
「なあに」
「明日、閣下の書斎の帳簿を、見ることになりますね」
「…………」
「第三項目」
「…………わたくしは、お茶をご一緒しただけよ」
「そのお茶が、書斎まで届く気がいたします」
ルチアは、否定できなかった。




