少女の落書
「昨晩デュシエル家から返事があった。あちらもぜひ話したいと。今日からしばらく、俺はいなくなる」
シュヴァルツ様にそう言われたのは、この家に来て十日が経った頃だった。
「いつ戻るかは分からないが、行き来を考えれば一週間ほどだろう。家のことはモーリスに任せてある。アーリエ、俺が不在の間は彼か、ミシュカを頼ってくれ」
モーリスは、ルドルフ前辺境伯の頃からこの家に勤める家令の名前だ。シュヴァルツ様の後ろに控える彼も、胸に手を当てて頷いた。
「わかりました。……デュシエル家は兄についてなにか、手紙で言及していましたか?」
「何も。ただデュシエル家に対しての手紙だったが、返事の差出人はエルンストだった。俺の要件はわかっているのだろうな」
「そう、です、か。……あの、兄が元気か、デュシエル家に、確認していただけませんか」
「もちろんだ。…………そう心配しないでくれ。あいつのことは、俺がなんとかするから」
シュヴァルツ様は、無表情でそういった。
いつもと顔は変わらないけれど、声音は少し優しい。だからこの言葉はきっと、彼の優しさだった。
∮
一人になって、二階のある部屋のドアを叩く。いなくなることの多い彼女だけれど、シュヴァルツ様の不在の間はこの屋敷にいてくれることになっている。
「ミシュカ、少しいい?」
「もちろんです、アーリエ様。どうしました?」
「行きたいところがあって……。あなたに都合がつくなら、ついてきてほしいの」
「喜んで。買い物などですか?」
「いいえ。お兄様がこの領に用意してもらっていた家に行きたいの」
私の言葉にミシュカは一度瞬きをして、あそこですか、といった。
「合鍵は……お持ちですか。なら、馬車を用意しますね。シュヴァルツが貴女に?」
「ええ。お兄様がこの領でどんなことをしていたか知りたいの。どんなことを見て、なにを考えていたのか。ミシュカもお兄様について知っていることがあれば、なんでも教えてちょうだい」
彼女は頷いてくれた。
向かい合って座った馬車では、兄の話ばかりをした。
「この家のみんな、彼のことが好きでした。明るくて賑やかで、誰にでも分け隔てなく接するから、太陽みたいな人だって。ファティカ皇国との交易などでここ数十年で一気にオトゥールの領民の暮らしは発展しましたが、どうしても王都と比べると情報や流行の文化には遅れてしまうところがあって。だからこそ、顔が広い彼の知識は、とてもありがたいものでした。騎士団の編成や商人の動向まで、どうしてこんなことまで知っているんだろうと驚いたこともありましたが」
「そうなの。……あの人らしいわ」
「ええ。たとえば王都の騎士団が備品の交換で大量の防寒具を揃えるとき、品物がそちらに行って、この領の防寒の軍備が不足する可能性があります。逆にあらかじめ知っていれば、寒くなる前から領内で用意することができる。貴女のお兄様には、本当に助けられました」
兄はアルエット公爵家の後継だったけれど、父はまだまだ健在だ。伴侶もいないうちはアルエットは任せられない、と父にも言われていたから、知見を広めるためと公爵家の事業に関わったり、騎士団も商人も、貴族も平民も分け隔てなく交流を広めていた。
誰にでも自慢できる、本当に素敵なひとだった。
「これから向かう家は、おそらくそういった、彼が行っていた、辺境伯領とはあまり関わりのない事業などに関わるものが、まとめられているのだと思います。彼は我が家に長い期間滞在することもありましたが、この領に関わりのない、いろいろなことも行なっていたみたいで。本当に見られてまずいものはないと話していましたが、それでも使用人たち全員の目に留まりかねない場所に置いておくのは良くないと、この領に彼個人の家を借りるか購入しようと考えていました。それを知ったシュヴァルツが、彼にあの家を贈ったんです」
馬車がゆっくりと速度を落とす。
着きましたね、とミシュカは窓の外を見た。
二階建てのその家は、きれいに整えられていたけれど、机などには本当にうっすらと埃が積もっていた。キッチンに食材は一つもなく、絵画や花瓶など、室内を装飾するようなものは一つも置かれていない。
「本当に、寝るための家だったみたい。ミシュカはここに来たことはあるの?」
「一度も。シュヴァルツも無いと思います、いつでも好きに来て良いとは話していましたが……。あ、階段。ここから二階に行けますね」
焦茶の段差を登った先には、扉は二つしかなかった。一つが寝室で、大きなベッドの上の乱れた毛布や枕元の本などは、一階に比べてまだ生活感を感じさせる。
もう一つは書斎だったようで、壁には二つ本棚が並び、窓の隣には艶のある大きな執務机が置かれていた。
引き出しに鍵は掛かっていなかった。開けると雑多な書類が、角の揃ってないまま詰め込まれている。
「私は席を外しましょうか?」
「大丈夫。ここにいてくれると嬉しいわ」
とりあえず一番上の段の紙束を取り出して、ぱらぱらとめくる。
公爵家について、よく関わっている商会について。友人からのパーティの招待状や、お気に入りのワインの産地から届いている手紙。確かに二人が話していたように、見られてはいけないような重要な情報はないけれど、私の知る兄の姿が、そこにあった。
みんなから頼りにされるけれど、生真面目というわけでもなかった。だからメモは雑多で書類の並びがめちゃくちゃなところもあるし、空白の多い裏紙の隅には、変な生き物の落書きすらある。
器用だから絵は上手だった。そうして暇になるとすぐ、子供みたいに空白を埋めはじめる人だった。その癖はまだ治っていなかったらしい。
お腹を出した猫、この領では良く見かける、ふわふわの白い小鳥。街角の夕陽。
懐かしい、とぱらぱらと紙束を巡って、指が止まった。
「…………ミシュカ?」
「はい。どうされましたか?」
紙の上の姿に溢れた声は、目の前の彼女に拾われる。当然だ、名前を呼んだのだから。
けれどこの名前は、紙の上の女性に向けられたものだった。
ーー紙の四分の一くらいを使って、少女の横顔が描かれていた。視線は何処かに向けられていて、口元はうっすらと笑んでいる。首筋にかけて、柔らかな影が重ねられていた。
いつもの落書きはペンとインクで書かれているのに、この絵だけ鉛筆で、瞳などの細かなところが描き込まれていた。色あいが違うから、同じ黒でも大きく印象は異なる。
何より、その表情が。
少し垂れた眉、眉に掛かるくらいの長さの前髪。緩んだ口元、こちらを見ていないのに、優しげなひとみ。
動物や風景ばかりの中で、唯一の人物の絵がこれだった。これほど綺麗に描くなんて、こんな一瞬を切り取るなんて、これを描いたのが兄ならば、あの人は、きっと――。
「なにかありましたか? 魔法に関するものとか」
「な、なんでもないわ! 大丈夫!」
急いで紙を、他の紙束で隠す。そうですか、と彼女は不思議そうな顔をした。
ただの落書きだ。誰が見てもなにも困らない。
けれど兄はきっとこの家で、なんならこの世界で。彼女にだけは、この一枚だけは見られることを嫌がるのではないかと、そんな気がする。
見られたくないのにどうしても捨てられなくて、急に王家に連れ去られてしまったから、厳重に隠すこともできなかった、なんて、なんの根拠もないけれど。
…………すごく、いまも、心臓がどきどきしている。
「え、ええっと……。そう! あの、魔法の解析を今日はしてもらってなかったって、今思い出したの! お願いしても良いかしら」
「もちろんです。でも、今ですか?」
いつも夕方か、眠る前なのに。そう彼女は、首をかしげる。
「ええ! 今、してほしくなってしまって……。だめ?」
「大丈夫ですよ。では、右手首に触れても良いですか?」
お願い、と手首を差し出す。誤魔化せたわけではないけれど、彼女はまあ良いか、と考えてくれたようだった。
この領を訪れた次の日から、私は彼女と手首の魔法を消すために、毎日三十分ほど共に過ごしていた。
とはいえ、特別何をしているということはない。椅子かソファの隣りに座って、彼女が私の手首に、そっと触れるだけだ。
呪文を唱えたり、魔法の道具を持ち出したりもしない。時々少しだけ触れた部分が温かくなるような気はするけれど、それ以外は何もない。彼女は静かに真面目な顔をして、私の手首に触れている。
前にどんなことをしているのか聞いてみたけれど、聞き慣れない呪文や魔術の形式の話をされて、きっと彼女の語る三分の一も、私は理解できていなかった。
それでもかろうじてわかったのは、魔法は熱や光のようにそれ自体が力を持って作用する現象であるということ、けれど熱や光とは違って、魔法士以外にはそれを感じ取ったり操作ができないということ。
魔法を操作して仕組みとして道具に組み込むと、それは魔道具になるという。今も魔法士である彼女には魔力の流れが見えていて、だから魔法の解析もできるのだろう。
いつものように私の手を取ろうとしたミシュカは、ふいにその指先を止めた。
「あら。……それは、魔石ですか?」
「指輪のこと? この間シュヴァルツ様に連れて行って頂いたお店で、買って頂いたものなのだけれど」
つるりとした、深紫の石。何もない日でも思わず見惚れてしまうほど綺麗なそれを、お出かけだからとつけてみたのだった。
「その色は……、雪魔兎でしょうか。とても素敵な指輪だと思います。ただ、魔石は魔獣から採れるものなので、ほんのわずかに魔力を持っているんです。魔法の解析をする今だけは、外していただくことは可能ですか?」
「そうだったの、教えてくれてありがとう」
もちろん、と指輪を外して机の上に置く。ふいに気になって、ミシュカに尋ねた。
「ねえ、ミシュカ。この指輪の石には魔力があるの? なら、これを持っていれば、私も魔法が使えたりするようになるのかしら」
「残念ながら、そうではないんです。この魔石の魔力は雪魔兎のものだから、雪魔兎しか使えません。人の魔力ではないんです。鍵と錠が違う、といえば分かりやすいですかね? とはいえ、普通の人は魔力を持ちませんし――――――あ」
彼女の声が、不意に途切れた。空色の瞳は、見開かれている。
「もしかして。いや、でもまさか」
「どうしたの?」
「ええっと……。思いついたことがあって。でもこれは、まだ思いつきなので。少し確認するまで、お伝えするのは待っていてもらえませんか」
「分かったわ。……その、私に出来ることはある?」
なら良ければ、その指輪に少し触れても良いですか? 言葉に頷いて、紫の石の指輪を渡す。
まじまじと彼女はそれを見つめて、光に翳して確認してからまた、しばらく考え事をしていた。
「ありがとう、ございます。……またお伝えさせてください」
指輪はあっさりと返されて、彼女は深く頭を下げる。
∮
兄の所持していた書類の量は膨大で、ここで全て読むことは出来なかったから、一部の書類を持って帰ることにした。帰りの馬車では集めた資料についてとか、兄と公爵家の話になった。自然と会話は、シュヴァルツ様と兄の話になる。
「二人は本当に仲が良かったですね。シュヴァルツはご存知の通りの不器用ですから、次々話しかけてくるローディス様が、新鮮だったみたいで」
「そうなの? 正直、シュヴァルツ様が他の人に恐れられていたっていうのも、どうしてって思っているの。確かにその……。少し口下手なところはあるけれど、とても優しい人だわ。領民にも慕われているし、恐れられるような人ではないのに」
「あー……。それはおそらく、アーリエ様がローディス様の妹だからですね。こちらが勝手に、ではありますが、シュヴァルツも親しみを感じているんです。それに、魔法のことがあったとはいえ、強引に婚姻してしまったようなものなので。私にも毎日、アーリエ様は元気かとか不自由していないかとか、挨拶みたいに聞いてきますよ」
「そうなの」
ええ、と彼女は笑う。あと周囲の、特に貴族に恐れられているのは彼のお祖父様のことがあったからだと思います。そう、言葉が続けられる。
「シュヴァルツの両親……。前辺境伯ご夫妻は、彼が八歳の時に、魔獣によって命を落としています。だから彼は、お祖父様であるダニエル様に育てられました。ダニエル様はとても素敵な人でしたよ。隣国を知り、交易によって領を富ませようとする革新的な方でもありました。けれど厳格といいますか、大魔熊を素手で三頭仕留めた伝説があると言いますか、お顔もとてもいかめしい方で……。周囲の貴族にダニエル様は、恐れられていたんです。あの方に育てられたシュヴァルツもダニエル様に振る舞いが似て育って、同じように思われていた、というのが大きいと思います。三年前にローディス様と出会って、歳の近い友人ができて、シュヴァルツが今みたいな人間になったのは、それからですね」
「そうなの。……シュヴァルツ様のこと、良く知っているのね」
兄の描いた一枚の絵が、脳裏に浮かぶ。私と兄のことは様付けで呼ぶのに、彼女はシュヴァルツ様のことだけは呼び捨てにする。それを兄は、どう思っていたのだろうか。
「幼馴染なので。……そうして、望んでいることは同じなので。同じ望みを持つうちは、そのためになんでもすると言い切れるうちは。私と彼は対等だと、昔言われたんです」
彼女の返事はそれだけだった。
続く言葉を待つけれど、ミシュカは何も言わず窓の外を眺めている。
綺麗な顔だった。
その表情は兄の描いた絵と、同じものだった。




