魔石の指輪
シュヴァルツ様は私について使用人たちに、明確に妻である、とは伝えなかったらしい。けれど貴族の社会において、女性が未婚の異性の家に滞在する、というのは同じ意味を持つ。
親愛なる領主であり屋敷の主人が急に奥様を迎えることになった、いったいいつの間に話を進めていたのか。けれどお相手がローディス様の妹ならばご友人との繋がりから話は進んだのだろう、と使用人たちは納得してくれたらしかった。
屋敷の案内の時もちらちらと視線は感じていたし、この屋敷を訪れて最初の夜などは、湯浴みの後に五十代くらいの侍女が訪れて、丁寧に香油で髪を梳かれた。
「あのおぼっちゃまが……。あの口下手で氷の狼だ猛獣だ生肉を素手で喰いそうだと恐れられ、貴族の女性には見向きもされなかったおぼっちゃまが、ついに奥方様を迎えられるなんて……。このローザ、感無量です! もし辺境伯家がおぼっちゃまの代で潰えることになったのなら、わたくし、どんな言葉で前当主ご夫妻のルドルフ様とルニエラ様、誰よりもダニエル様にお詫びすれば良いかと、毎日思っていましたのよ。ああ、今日はなんて素晴らしい日なのでしょう!」
そう感極まった声で言われて、夜着に薄手のネグリジェを渡された時はなにを言えば良いか分からなかったけれど、疲れもあったのだろう、広く温かなベッドに潜り込めば、すぐに瞼は重くなった。
ローザは長くこの家にいる侍女長で、侍女はこの屋敷に、あと十人ほどいるらしい。
みんなシュヴァルツ様のお母様の代から仕えていた人ばかりで、この屋敷で一番私と歳が近い女性はミシュカだった。彼女は私の一つ年下、十八歳であるという。
「ローザはもちろん、侍女たちはみんな貴女に興味津々ですよ。私が貴女の身の回りのことをすると伝えた時も、ずるいだの侍女は私達だの、非難囂々で……。昨晩ローザが来たんですよね? 失礼なことはしませんでしたか」
朝、支度を整えてくれたミシュカに問われて首を振る。
「とても良くしてもらったわ。でも……。ミシュカはこの家で、魔法士として働いているのよね? 普段はどんなことをしているの? 私がこの、あなたの部屋をもらってしまったことも、大丈夫かと思っていて」
「もちろんです。私は普段、領のどこかか隣の騎士舎にいることの方が多いですね。あくまでも本来の仕事は魔法を使っての魔獣対策が専門なので……。部屋も本当に、魔法に関するものを保管したり試すためだけの、保管庫でしたから。だからまぁ、私が侍女として振る舞うことにローザ達が不安がっているのも、仕方がないことではあります。アーリエ様も、私一人では手が届かないことがあれば、彼女たちを頼ってくださいね。彼女達も心待ちにしているはずですから」
ただ、あの透けるネグリジェだけはやめるように伝えておきます! そう言い切られて、苦笑しながら頷いた。
来た日の夜から、君さえ良ければ共に食事を取ろうと言われていて、それから朝と夜は、同じテーブルで食事を摂ることになった。
こちらの食事が口に合えば良いが、と言われながら提供された料理は、王都とはよく使われる食材や調理方法が違って、けれどどれも美味しい。
貴族の食卓は手の込んだ見栄えのする料理であることに重きを置くけれど、辺境伯領は純粋に味と、身体が温まるかを重視する。雪の多い領地だから保存のきく食材や調理方法が多いのだろうかとか、王都では見ることの少ない種の獣肉がこちらでは日常的に並ぶのは、とても興味深く、また面白かった。
シュヴァルツ様は大食漢とでも言うべきか、私が食べる三倍ほどの量を、毎食平らげているのも驚きだった。
兄も私よりはよく食べたけれど彼ほどではなく、シュヴァルツ様の食事の様子を見るのは、正直とても面白い。
量は三倍なのに、食べ終わるまでの時間は私とそう変わらない。手づかみで生肉を、なんてとんでもない。食事の所作は美しく、大きな手で音もたてずにカトラリーを操る。けれどナイフで切り分ける肉の塊は、私の一口よりずっと大きい。端正な顔は表情を変えず、飲み込むたびに喉仏が上下に動く。魔法のようにテーブルの上の料理はなくなっていく。
あまりにも見つめすぎたせいで、なにか付いているのかと首を傾げられて、慌てて誤魔化したのはつい昨日の話だった。
あとシュヴァルツ様について知ったのは、あまりにも忙しい人である、ということだ。
彼の両親は、彼が八歳の時に魔獣との戦いで命を落としたらしい。だからお祖父様に育てられ、お祖父様も彼が成人する二年前に、病によってこの世を去られた。
それから彼はずっと、辺境伯としての領地の運営と魔獣からの国境の守護、両方を行なっている。
朝から晩まで書類の処理など領のためのいろいろなことをして、少しでも時間があれば隣の棟で騎士達と鍛錬を行う。強い魔獣が出た時には、彼自身で討伐を行うこともあるという。
そんな忙しい彼の時間を貰って辺境伯領の案内をしてもらったのは、ここに来て五日後のことだった。
ミシュカが領外の森に行かなければいけない用事があって、どうしても私のそばを離れなければいけなくなった。
私がこの領にきたことは、王太子もすでに知っていることだろう。相手の動きが分かるまではミシュカかシュヴァルツ様のどちらかは私の近くにいよう、ということになっていたから、その日は一日、シュヴァルツ様の隣で過ごすことになった。
大人しくしていようと思っていたけれど、彼は執務室にずっといても退屈だろう、と朝食のときに、領の案内を提案してくれた。
「色々見せたい場所もあるしな。移動は馬で良いか? 君は、馬に乗れるだろうか」
馬は好きだけれど、乗るのは苦手だった。だから用意しようか、と言われて首を振る。なら俺の後ろに乗るといいと、あっさりと言われた。
「もちろんミシュカに街を案内してもらうのも良いと思うが、彼女と君で出かける場合は馬車がいいだろうな。二人乗りは、その……」
「変に口篭らないでよ、ちゃんと言いなさい。かろうじて乗れるだけで馬の扱いはド下手だって。一緒に乗るのもぜっったいにやめた方がいいわ。アーリエ様まで落っこちたらどうするの」
侍女の仕着せではなく騎士服に似たジャケットを羽織ったミシュカは、軽い口調で言う。
「だろうな。とりあえず領都の大通りを回るから、君も気になった場所があれば、俺に声をかけてくれ」
「ありがとうございます。……でも、ミシュカは大丈夫なんですか? 魔獣の出る森に行くなんて、危ないのでは」
「心配してくださるんですか? ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。こんなのでも魔法士ですから。そこらの騎士よりも、私は強いです」
胸に手を置いて、彼女は返事をする。シュヴァルツ様も頷くところを見るに、事実なのだろう。
私と背丈の変わらないような年下の女の子なのに。すごいと声を漏らせば、ありがとうございますと彼女は照れたように笑った。
シュヴァルツ様の馬の後ろに乗せてもらって巡る先では、人々が賑やかしく日々を過ごしていた。
商店の前で積まれた小麦の大袋を背に値段をやりとりしている男性二人もいれば、トマトのスープの屋台の前では、行列が出来ている。
色々な人が、シュヴァルツ様を見つけると手を振った。彼は頷きで返して、他より大きい深緑の屋根の建物に着くと、馬を止める。
「ここだ。……王都に比べれば小さいだろうが、ここがオトゥールで一番大きな服屋になる。良いと思ったものは、なんでも買ってくれ」
君、衣類はこちらに殆ど持ってこなかっただろうと言いながら、彼は振り向いた。
魔法が使われる時は、魔法士が直接対象に魔法を掛けるより、魔法を付与した魔道具が使用されることが多い。遠くから魔道具を発動させる術もあるという。
君に魔法が掛けられているように、荷物に魔法が付与されることもあるかもと、公爵夫妻はほとんどの荷物を置いて行かせた。それは正しいことだと思うが……。
自分が決めたものがない生活は、息が詰まるだろう。
気に入ってくれるものがあれば嬉しい。その言葉とともに扉は開かれて、着飾った女性が私たちを出迎えた。
「いらっしゃいませ。そうして初めまして、アーリエさま! シュヴァルツさまの奥様がこんなにお美しい方なんて、お会いできて本当に光栄です。この店にお越しいただけて、本当に嬉しいわ。どうぞ、お好きなものを選んでくださいね」
薔薇色の口紅が引き立つ彼女は、そう私に微笑み掛ける。
「公爵家から君の服を送ってもらい、ミシュカが魔法の有無を確認することも可能だが、あちらとここでは気温が違うからな。冬は過ぎたとはいえ、あちらの服だけでは体調を崩しかねない。品数はともかく暖かい衣類なら、こちらの方が多い。選んだものは、邸に送るよう手配してある」
「あら領主さま、それは聞き捨てなりませんわ。わたしのお店は質も品揃えも、国王陛下がご覧になったって満足いただけると自負していましてよ?」
「そうか。……だそうだ。君の気にいるものが、あるといいな」
「全くもう。こちらにどうぞ、アーリエさま」
案内された店内は、なるほど国王陛下すら満足させる、の言葉に嘘がないほどに多くの服が並んでいた。シュヴァルツ様は王都より小さい店と話していたけれど、品揃えの豊富さは、大きな商会の店に引けを取らないだろう。
何よりも、その美しさ。店の品は寒い地域らしくガウンやコートなどの防寒着は豊富だけれど、襟の刺繍、ボタンひとつに至るまで、商品の全てが、思わず手に取りたくなるほど洗練された物だった。
「仕入れた服により似合うボタンがあれば、こちらで付け替えることもあるんです。簡単なものなら刺繍を追加したりもします。だって、そっちの方が素敵になるでしょう?」
「そうなんですか。……あら」
どこを見ても心が浮き立つような店内で、一着のドレスの前で足を止める。
トルソーに掛けられていたドレスはやや厚手のものだけれど、薄紫の生地に銀色の刺繍が施された袖とスカートには、透ける紫の薄布が重ねられている。光の角度によってわずかに色味を変える生地には、覚えがあった。指先で触れると、店主の女性は目を輝かせる。
「これは、ファティカ皇国のモスリンですか? こちらに入ってくることは、ほとんどないと思っていたのに」
「一目で分かるなんてさすがですわ、奥様! ええ、ええ、その通り! これはファティカの、それもジュビア地方で仕入れた生地なんです! 美しいでしょう?」
「綺麗……。でも、どうやって手に入ったんですか? ファティカのモスリンなんて、王都でも手に入らないのに。やはり、近い場所だからですか?」
ファティカ皇国はこの国の東、オトゥール辺境伯領に面した場所にある。大昔は小競り合いをしていたらしいけれど、いまの状況は落ち着いている。けれどファティカとこの国の間には深い森があり、魔獣が大量に湧く。行き来に危険が伴うのもあって、そこまで関わり自体がないはずだ。
けれどファティカの特産品はこの国でも人気が高く、絨毯や、モスリンなどの織物は特によく知られている。
王都でだって、外国とやりとりがある家の令嬢が、他の国を経由してようやく手に入れたの、とドレスを自慢していたくらいだったのに。おそらく彼女のドレスより質のいい生地をふんだんに使ったドレスを、誰でも買えるように並べているなんて。
店主は、深く頷いた。
「その通りです、奥様。ファティカのモスリンは国としての交易は行っていませんが、個人での取引であれば、手に入れることは可能なんです。討伐直後で魔獣の少ない時期を狙ったり、仲介役を通したり……。と、案外どうにかなるのですよ。ご覧くださいこの美しい、触れているかもわからないほどの薄絹を! この美しさをこの国は知らないなんて、どれほどの損失でしょう!」
例えばこの紫の指輪もそうです。この魔石は雪魔兎の額から取れるものですが、この領のごく一部でしか身につけられることはありません。こんなに美しくゆらめく石は、他にないのに。知りさえすればこの石に夢中になってくれる誰かは、きっといるのに。それはとても惜しいことだと、わたしは思うのです。
「素敵な出会いによって、人はより素敵になれるのだと、わたしは信じています。だから、シュヴァルツさまとそのお祖父様には、心から感謝しているのです。あの方々は、長年関わりのなかったファティカとの繋がりを持とうと苦心されている。彼の国を知ったことにより、この領は大きく変わることになりました」
そして奥様、きっとこのドレスは、シュヴァルツさまの奥様である貴女にお似合いになりますわ。彼女はそう、言葉を続ける。
「貴女を一目見た瞬間から思っていたんです。貴女にはこのドレスが一番似合うし、このドレスは貴女が一番似合うと。奥様の銀の髪と紫の瞳を、このドレスは間違いなく引き立てるでしょう。同じ色の魔石の指輪もお似合いです。ですからさぁ、ぜひ、お召しくださいまし!」
「そ、それは……。確かにとても素敵だと思いますが、今日はドレスではなく、普段着るようなものを購入に来たので、これは、その……!」
このドレスは、お茶会などの昼の催しの時に着るようなものだ。本当に素敵な一着だけれど、普段の生活で着ることはない。断ろうと首を振ると、声が掛けられた。
「良いんじゃないか?」
布の積み上げられた向こうから顔を出したのは、シュヴァルツ様だった。
「気に入ったならとりあえず、着てみたら良いんじゃないか。それに、機会がないとも思わない。今すぐは無理だとしても、君のご両親も君のことを心配している。元気な顔を見るため、こちらに来てもらうこともあるだろう。そういった時に着ると良い」
「そうでしょうそうでしょう! さぁ、試着はこちらです!」
にんまりと店主の女性は笑う。結局ドレスと合わせた小物、そうして普段着る服まで、大量の衣類を屋敷に送ってもらうことになってしまった。
ありがとうございました、またお越しくださいませ、と笑顔で手を振る店主を背に、二人でまた、馬に乗る。
「ありがとうございます。ここまでしていただいて……」
「気にしないでくれ。預かっている身として、君に不自由がないようにするのは当然のことだ」
あまりに平然と言われるけれど、だからと言ってならそれで良いか、とはならない。
「あの、私に出来ることはありませんか? 例えば兄はこの領で、どのようなことをしていたのでしょうか」
少し間があった。背中越しだから、顔は見えない。それでも彼が無表情のまま何かを考えているのでは、と何となく予想する。
ふむ、とさらに数十秒待って、不意に一つの家の前で、彼は馬を止めた。
「……そうだな。ローディスにはこの領に、好きに使ってくれと家を用意していた。それがここだ。あいつはここに、公爵家の事業やこの領に関わる事など、色々な資料を持ち込んでいたらしい。俺たちにも別に見られて構わないものばかりだと話していた。流石に手をつけることはなかったが……。妹である君なら構わないだろう、合鍵もここにある」
君が持っていてくれないか、と。渡されて、手の中の銀色を、そっと握りしめた。




