革靴と上着
馬車の中で何度かパンとチーズ、お茶を渡されて、その時だけ目隠しを外して食べた。
体感では、二、三日ほど経ったときだった。不意に馬車が止まって、御者の手によってあっさりと、目隠しは外された。
「着きました。ここがオトゥール辺境伯領です、お嬢様」
「――これ、が」
オトゥール。
久しぶりの光は、眩むほどに目に沁みた。目を閉じそうになって、御者越しの景色に瞬く。
――青だ。
雨はもう降っていない。だからこそ雲ひとつない雨上がりの空の下、丘の上からの街並みがよく見えた。太陽の光を受けて赤や青、原色の屋根の建物が並んでいる。煙突から立ちのぼる細い煙が、まっすぐ空に吸い込まれていく。遠い遠い山は、目が覚めるような緑だ。
「もうすぐ、シュヴァルツ・オトゥール様の屋敷に着きます。私はそこまでです、お嬢様」
「そう。……ここまで連れてきてくれて、ありがとう。お父さまとお母さまにも、感謝していると伝えて頂戴」
必ず。御者はそう言って、ふかく頭を下げた。
窓越しに景色が見られるだけでも、道中の心はずっと楽になった。それでも行き先、辺境伯の屋敷のことを考えれば、まだ痛む手首を、つよく握りしめる。
どんな人なのだろう。私の、夫となる人は。
指先ほどの大きさだった建物は、ゆっくりと大きくなる。街で一番大きな、石造りの屋敷がオトゥール邸だった。
馬車が止まり、鉄の門が開かれる。
どんな人、はそこにいた。
「……シュヴァルツさま?」
見上げるほどに、大きな人だった。耳にかかるくらいの紺色の髪と、鋭い銀色の瞳をしていた。
白い肌に太い首は、鍛え抜かれた騎士のそれ。黒いジャケットは彼によく似合っていて、シャツのボタンを一番上まで留めている。
氷の狼。その二つ名はなるほど、鋭く精悍な彼にぴったりだった。
怜悧で端正。この人が、私の夫。
彼は座席から動けない私の顔を、三十秒ほど見つめていた。視線はゆっくりと、足元に落ちる。
そうして、口を開いた。
「君がアルエット公爵令嬢か。靴、を」
「くつ」
「ああ。履き替えた方がいいだろう。一昨日の雨で地面がぬかるんでいる。その靴では、屋敷に続くまでの道でも転んでしまうかもしれない」
「そう、なんですか」
確かに靴は一番お気に入りの、少しヒールの高いものを選んでいた。地面も湿っている気がする。
けれど最初に話すことが、それなのか。
驚く私とは裏腹に、彼は右手に持っていた袋から箱を取り出し、屈んで私の足元に置いた。
箱が開かれる。――濃い茶色の、革のブーツがあった。縫製もベルトのついたデザインも、一目で仕立てが良いとわかる。
彼はもう、何も言わず動かなかった。だからゆっくりと履き替える。一つ頷いてから、彼は袋からもう一つ、布の塊を出した。同じく厚手の、刺繍のかわいらしいガウンだった。
「これも着るといい。ようやくの春とはいえ、公爵領からきたのでは、ここの土地は寒いだろう」
「ありがとう、ございます」
うん、と頷いてから彼は手を差し出して、馬車を降りるのを手伝ってくれる。
……おかしな人だ。すごく。
でも、悪い人ではないのかもしれない。
∮
案内された応接室では熱いお茶が淹れられて、クッキーなどのお茶菓子も用意される。
向かいに座った彼はどちらにも手を付けず、じっとこちらを見ている。
5分ほどお互い話さずにいると、ゆっくりと彼は口を開いた。
「俺の名前は、シュヴァルツ・オトゥールという。ここの領地の、当主をしている」
「はい。………お初にお目にかかります。私はアーリエ。アルエット公爵家の、アーリエ・アルエットです」
「遠くから、よく来てくれたな」
「こちらこそ、お出迎え頂きありがとうございます」
「今日、君は俺と、結婚するわけだが」
「はい」
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………君を愛することはない」
ガチャ、とお茶を淹れてくれた侍女が、ワゴンの上の茶器を、つよくぶつける音がした。
彼がその言葉を吐くのに、たっぷり五分ほどの時間を要していた。だから驚いたり傷ついたりするよりも、やっと話した、という感動の方が勝ってしまった。
合わせた視線は、彷徨っているように見える。
「はぁ……」
「あとのことは、そこにいるミシュカが説明するだろう。部屋やいろいろ聞いてくれ。必要なものも多いだろうが、それも彼女に」
では、俺はこれで。甘いものが嫌いではないなら、この菓子は好きに食べてくれ。
それだけ述べて彼は部屋を出ようとする。扉の前で軽く頭を下げたら、あちらもぺこりとお辞儀をした。
一息つく。
………………………………なんというか、独特な人だった。
悪い人ではないとは、やっぱり思うけれど。どうしようかなと振り向くと、仕着せの侍女が私を見ていた。橙の髪に空色の瞳、私と同じくらいの歳の子だ。
「アーリエ様。今、よろしいでしょうか」
「あなたがミシュカさん?」
「はい。どうかミシュカとお呼びください。よろしくお願いします。……長旅でお疲れでしょう、必要なものがあればなんでも仰ってくださいね。お菓子ではなく軽食をお持ちしましょうか?」
「ありがとう、大丈夫よ。こちらこそ、どうぞよろしくね。でもその、シュヴァルツ様は、私のことを、どう…………」
おそらく、すごく嫌われてはいなかった。けれど、愛することはないと言われた。
見ず知らずの人間が伴侶となるのは、彼にとっても同じことだ。どうしたらと首を傾げると、腰に手を当ててミシュカは深くため息をついた。
「…………彼はその、とても、本当に、ほんっっとうに! 不器用なんです。ただ、貴女がこの屋敷に来られることを、シュヴァルツも私たちも心待ちにしていました。お食事を召し上がられないのであれば、もし良ければお屋敷の案内からさせて頂けますか?」
「ありがとう。お願いできる?」
喜んで、とにこやかに彼女は扉を開けてくれる。優しそうな子だなと安心するとともに、彼女がシュヴァルツ様のことを旦那様やシュヴァルツ様ではなく、シュヴァルツ、と呼び捨てで呼んだことがふと、気になった。
白壁の屋敷では、普段はシュヴァルツ様と五十人ほどの部下や使用人たちが暮らしているらしい。屋敷の隣には辺境伯の騎士たちの住む棟もあり、魔獣たちと戦っている。彼らは森から魔獣が湧けば、迅速に討伐の任務にあたる。そうしなければ、この街に魔獣が来るから。領地の人を襲うから。
綺麗に掃除の行き届いた屋敷だった。等間隔に花瓶が置かれた廊下を進んで、三階が私の部屋らしかった。
「当面の間にはなりますが、お部屋はこちらです」
ミシュカは扉を開ける。
そこは、物置き部屋だった。
「え」
布袋や埃のうっすら積もった糸車など、雑多にものが置かれた部屋の中は狭く、カーテンが閉まっているからか薄暗い。
人は暮らせはするだろう。けれど快適とは程遠い。
浮いていた気持ちが、一気に冷える。シュヴァルツ様とこの女の子に邪険にされなかったから、勘違いをしていたのだろうか。彼らはやはり、私を嫌っているのだろうか。
この家でもやっていけるかもしれないなんて、そんなこと――。
「そしてこちらが、隠し扉です」
「え?」
ミシュカは慣れた手つきで、壁にいくつも置かれた棚の一つを右にずらした。変色した木製の棚は細身の女性の腕でも滑らかに動いて、その向こうには、ま新しい木の扉があった。
「魔法がないと開かない、なんてことはないから安心してくださいね。あ、もちろん家具や小物は貴女の好みに変えてくれって、シュヴァルツも話していました」
もう一つの扉が開かれる。その先には、美しい花柄の家具が並べられた、整えられた広い部屋があった。
壁紙の花は淡い紫色で、白木の家具は角がすべて丸く削られている。天蓋付きの寝台には、ふくらんだ枕がいくつも並んでいた。
窓から差す光で部屋は明るく華やいでいて、埃のひとつも許さないという意志すら感じられる。
「ただ、こちらの部屋に入るのは少し待ってください。その前に少しだけ確認させてください。右手首はまだ痛むとか、変な感じはありますか? 魔法の痕跡は残っているようだけれど……」
「あの、この部屋と、あなたたち、は」
「あー……。ちょっとまってくださいね、いろいろと驚かせてごめんなさい。確かに私たちにとってはローディス様の妹さんだけれど、貴女にとっては私もシュヴァルツも赤の他人だものね。でもどこから説明すれば良いか……」
どうしてこの子は、私の右手首が痛むことを知っているのだろう。両親にしか伝えていないことなのに。
ふむ、と彼女は顎に手を置いて、少し考えてから言葉を続けた。
「ええっと……。シュヴァルツと貴女のお兄さん、ローディス様は親友なんです。それで今貴女には多分王太子によって魔法がかけられていて、行動とか声とかが、あの男に漏れているかもしれないと我々は考えていて。だから私が今侍女として、ここにいさせてもらっているんですけど。あ、私は野良の魔法士なんです。つまりこの婚姻はアーリエ様の家、アルエット公爵家とシュヴァルツが王太子から貴女を守るために結んだもの。偽装結婚です」
ここまでは大丈夫ですか? 聞かれて、ゆっくりと首を振る。
「ごめんなさい、わかりません」
「そうですよね。詳しくお伝えするので、座ってお話ししましょうか。……まずは、そう、貴女に掛けられている魔法から」




