王家の書状
王太子様の気分を害してしまった、と怯える私をよそに、あれからずっと兄は憤っていた。
あの夜会で兄は知り合いに話しかけられて、なかば無理やり私から引き離されたらしい。戻ろうにも人はどんどん増えて、片手で数えきれないほどになったところでこれはおかしい、と私を探したという。生まれて初めて羽交い締めにされた、最近喧嘩のやり方を習っていて助かった、と語るに、会場ではそれなりの騒動になったのかもしれない。
ハーゲンの野郎本性出しやがって絶対にあいつとアーリエは結婚させないとか、なにが王太子だあんな男が王位についたらこの国は終わりだとか、そんな言葉を両親に直談判して、あまりの剣幕に両親も思わず頷いていた。
怖い思いをさせてごめんな、と兄には言われたけれど、恐怖よりも不安の方が、ずっと大きかった。
最初の一週間は、王太子様の気分を害して自分と兄はどうなるのだろうと落ち込んでばかりだった。
次の二週間も、今回の件が悪い形で広まってしまったらどうしようとか、そうなる前に何かしたほうがいいのかとか、そんなことを考えた。
あの日から一月たって、やっとあの夜は王太子様の気の迷いで、彼はもう私も兄も気にしておらず、このままずっと関わらずにいられるのではないか、と考えるようになっていた。
そんな時だった。兄が王太子様の妹、コーデリア王女と姦通していたからと捕らえられたのは。
急に我が家を訪れた三人の男は、王家の近衛兵の制服を着ていて、王太子殿下の部下だと話した。そうして、私と兄を王城に連れて行く、と王家からの書状を見せ、何を言っているのかと呆然とする家族に吐き捨てる。
「お前のしでかしたことに、王太子様は大変お怒りだ。必ず兄と妹、両方を連れてこいと仰せつかっている」
「アーリエは関係ないだろう!」
「うるさい! ハーゲン様はコーデリア様を、妹を弄ばれたんだ。お前の妹がどう扱われようと、自業自得だろう!」
荒々しく、王太子様の使者は叫ぶ。そうして私の手首に、手袋をはめた男の手が触れた。
「い、痛……!」
パキリと、何かが割れるような音。
王太子様に引き摺られて歩くあの夜のことを思い出して、全身が震えた。けれど腕を振り払ってくれたのも、あの夜と同じ人だった。
「その手を離せ。……この書状、国王陛下の許可は得ていないな?」
初めて聞くような低い声。兄に気圧されたのか、男達の動きが止まる。
「国王両陛下は今、長期の外遊に出られている。今お前達がここにいるのは王太子の一存で、勝手に行っていることだな? なら、許されることではないとお前達でも分かるだろう。……俺がコーデリア王女に手を出すなど、あるものか。だから、これが公になって裁かれるのは、俺たちじゃない」
そうして王太子でもないだろうな。蜥蜴の尻尾切りで、お前達は全ての罪を被せられるだろう。それが分かってなお、お前達はここにいるのか?
その言葉に、男達は口をつぐんだ。そのうちの一人、私の手首を掴んだ男など、今にも倒れそうな青い顔をしていた。
「う、うるさい! 王女様に手を出すような奴が、舐めた口を!」
「だから出してないと言っているだろう。だが、お前達の言い分はそれなんだな? なら、俺のことは連れて行くといい。その代わり、アーリエは許さない。そう、お前達の主人にも伝えておくといい」
無表情で男達に言い切って、私達には大丈夫だ、と。そう微笑んで、兄は連れて行かれた。
∮
あれから王太子様からは、私を差し出せと何度も申し入れがあったらしい。父も母も何も言わないが、ずっと暗い顔をしている。
詳しいことは教えてもらえない。王家の醜聞にもなり得るからか、王女様と兄の一件はまだ公になっていない。だから身の回りは静かなものだったけれど、だからこそ何も分からない。兄がどう扱われているのか、いつまでこの事実は隠されるものなのか、公になれば兄が戻ってくるものなのかも。
両親から出歩かないようにと言われてからは、何も、本を読む気すら起きなくてぼうっとすることが増えた。
全部、私のせいだ。
夜会になんて行かなければ、王太子様の誘いをはっきり断っていれば。兄がこんな目に遭うことはなかった。今家族が酷い目にあっているかもしれない。そう考えると、叫び出したくなる。
夕暮れの琥珀色が色を変えるのを、自室の窓越しに眺めていた。あの日からずっと、自分の魂の一部が裂かれてしまったかのように、何もできずにいる。
兄がいなくなって、ひと月後のことだった。四人から三人になってしまった夕食、味のしないスープを飲み込んだあと、父は私を見た。
「アーリエ、お前を嫁に出す」
「そう、ですか。分かりました」
兄を、この人たちにとっての愛する家族を奪ってしまった。だから何を言われても、必ず従うつもりだった。
「ああ。――この国の辺境伯、シュヴァルツ・オトゥールに嫁ぐんだ」
「え?」
辺境伯に? ――私を差し出せと言い続けている王太子に、王家ではなく?
「急な話にはなるが、この家を明後日には出てもらう。詳しい説明は、辺境伯の彼らから受けなさい」
分かったな、の言葉に頷くのに精一杯だった。
どうしてという疑問と、全く予想していない名前が出た違和感。全部驚くべきことで、なのに心のどこか、一枚膜が張られたような気分はずっと続いている。右手首を握りしめる。
――あの日からずっと、手首が痛い。
たった二日だ。だからその日が来るのは、あっという間だった。
もとから陽が昇るのも沈むのも実感が湧かなかったから、なおのこと。
ともに家を出る侍女はおらず、辺境伯への嫁入りを伝えられた日の夜、母からは両手で抱えられるくらいの大きさの、鞄一つを渡された。
「オトゥールに持っていっていい荷物は、この鞄一つに入るだけよ。よく選んで、決めなさい」
母は何かを押し殺すように、そう言った。
誕生日に家族からもらったネックレス、友人と色違いで買った扇。どうしても、というものを選んだら、それだけで鞄はいっぱいになってしまった。まだ服も靴も、一つも入れられていないのに。
服は着て行く一着だけになりそうと思いつつ、辺境伯に行くのに相応しい服はなんなのか考える。何も決められなかった。
氷の都、オトゥール辺境伯領。一年の半分は雪が降るというかの場所は、ひどく冷えるらしい。
瘴気だまりのある森に近く、魔獣も多く出る恐ろしい領地で、若くして当主となっている人が私の夫だ。年は確か、兄と変わらない二十三歳。
氷の狼という二つ名を持つらしい、一度も会ったことのない、その人。
どんな人なのかも、自分がどうなるのかも。なにも分からなかった。
出立の日、家を出る馬車の前で父に目隠しを渡された。
「つけなさい」
「………え?」
「辺境伯領に着くまでの間、目隠しをしていてもらう。御者に言われたら、外しても構わない。分かったね」
普段は穏やかな父は、瞳を伏せて、淡々と言った。
「ど、うしてですか、そんなの」
「どうしてもだ。……気になるなら、馬車の中で眠っても構わないから」
決して外してはいけないよ。言い含めるように、言葉を繰り返される。
馬がいななきをあげる。両親も、屋敷の前からこちらを見ている使用人たちも、一様に悲しそうな、心配そうな表情をしていた。不安でたまらないという、私に似た顔だ。その瞳にあるのは、私への怒りではない。
……なら、言うべきことは。
「あ、の、お父さま、お母さま! 今まで、ありがとうございました」
馬車に乗り込む寸前、振り返ってそう叫んだ。父と母の瞳が、見開かれた。
「……こんな形になってしまって、すまない。けれど私達は、お前とローディスの幸せを一番に願っている」
だから、どうか。
最後に父は、そう言った。
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ずっと一人馬車の中で揺られて、当然一睡もできなかった。
……少し前まで、当然のように兄がいた。彼は領主になるための勉強と、いつもいろいろなことをしていて、面白おかしく領地の外のことを私に教えてくれた。
なんでも出来て、何にでも手を出す人だった。公爵家の事業はもちろん友人達と共に外国との交易を行ったり、芸術家達のパトロンも大々的に行っていた。国内外の話を聞くのは楽しくて、ふらりとどこかに行きがちな兄が戻って来るのを、いつもとても楽しみにしていた。
それが、今は。
兄はおらず、私は知らない人との婚姻を命じられて、馬車の中で一人きり。目隠しをしているから、今どこにいるのかすら分からない。1度雨が降って止んだのを、視界にも入れず、聴いて知った。
「…………処刑前の囚人みたい」
ぽつりとこぼした言葉は、誰にも届かずに消えた。
――どうして、こんなことになってしまったのだろう。




