箱庭の出口
目を開く。視界が眩しい。
そこは、屋敷であるようだった。
大広間だろうか。煌びやかな会場は荘厳な音楽と、夜の花の香水で満ちている。ホールを見回してすぐ、あることに気がつく。
――見覚えがある。数ヶ月前、私は兄と共に、この場所を訪れた。
そうして王太子様に、声をかけられたのだ。
ここは、王太子様の側近、シュナイザー家の屋敷だ。
人はいない。けれど誰も踊らない広間で、音楽だけが朗々と続いていた。
「シュヴァルツ、さま……」
呼んでも、返る声はない。
必死に手を伸ばしてくれた、これから教会に夫婦となることを宣言するはずだったひと。彼は今、どこにいるのだろうか。――無事だろうか。
大広間には誰もいない。窓の外は夜より暗く、月明かりも、星一つすら見えない、染まるような黒だった。
ガラスに額を寄せても、闇の底には何も浮かんでこない。
ここはどこなのだろうか。教会に入ったと思えば王城に飛ばされて、今は王城と思えば、こんな場所にいる。
シュナイザー家の屋敷に飛ばされてしまった? けれど王城にいたとき、空は変わらず陽が高く昇っていた。なら、ここだけ別の場所――。例えば、魔法で作られた空間に飛ばされてしまった、ということだろうか。
そんなことが出来るのかは分からない。けれどハーゲン様は、ポケットに手を入れていた。入っていたのは魔石か、それ以外の、例えば魔道具だったのか。
手が震えていた。考えなければいけない。
――知らない場所で、一人きりで。考え続けないと、恐怖に思考を絡め取られてしまう。そうしたらもう、どこにもいけなくなる。シュヴァルツ様に、ミシュカに会えなくなる。
二人は何処にいるのだろうか。私なんかよりずっと強いけれど、転移魔法はとても高度な魔法だとミシュカは以前話してくれた。そんなこともできる王太子様によって、もしも、危険な場所に飛ばされてしまったとしたら。
魔法の痕跡、勝手に動く楽器だけが、音を響かせている。近づいて、触れてみた。つるりとした手触り。本物の楽器のように滑らかで、温度はない。
床も装飾の壺も、天井の模様さえ、偽物には思えないのに。現実味はなくて、ただ帰りたいとだけ思う。
何処にいけばいいのだろうか。
ガタン、と音がした。
振り返る。人がいた。まったく、予想していなかった人が。
「コーデリア、様……?」
一瞬ハーゲン様と間違えそうになった。金の髪と、緑の瞳。けれどその人は目が覚めるように赤いドレスを着ていて、長い髪を垂らしている。
そうして。その手には、斧があった。
「ひっ………………!」
彼女は何も言わない。俯いて、こちらを見ることすらない。けれど凶器がその手には握られていて――楽器がそうであるように、斧が本物であることも、分かってしまう。
「どう、して」
ここに居るのか。手に持っているものは。そもそもあれは、本物のコーデリア様なのか。
ここは魔法がかかわる空間で、現実なのかも定かではなくて。
けれど凶器を持った人が、一歩、こちらに足を動かす。
頬が痛む。奥歯がカタカタと鳴っていて、頬の肉を噛んだからだった。けれどそれでやっと、足が動く。
逃げないと。出来るだけ遠くへ。
一番近くの扉に飛びつく。彼女は俯いたまま変わらずこちらを向いていて、ゆっくりと足を進めている。扉の向こうに、駆け出した。
∮
走る。走る。
階段を駆け降りて、長い廊下も抜ける。知らない場所は何処までも続いていく。
誰もいない。がむしゃらに走り回って躓いて、靴が脱げた。それでやっと、足が止まった。
肩で息をしながら、靴を拾い上げる。夜会のようなパニエを重ねたドレスや、高いヒールの靴でなくて良かったと、今更考えた。
あんなものを着ていたら、とても走れなかった。今着ているドレスは、オトゥールに来てすぐに買った、ファティカのモスリンを重ねたものだ。
あの日、隣で頷いてくれた人の顔が浮かぶ。どこに行けば良いかは分からない。けれどどうしたいかは、痛いほどに。
――帰りたい。どうしても、あの人たちのところに。
拳を握る。その時、誰かの話し声がした。
「ここがアルエット家か……。書状は持っているな?」
「ああ。王太子の名のもと、息子と娘を王城まで連れてくる。俺たちの任務は、それだけだ」
そんな言葉だった。声に聞き覚えがある気がする。
声は近づいてくる。咄嗟に、開いている扉に飛び込んだ。
そこはゲストルームの一室であるようだった。鍵はなぜかなく、かけられない。棚の陰に隠れる。中に入れば、と思ったけれど、音を立てるのが怖い。悩んでいるうちに、足音が聞こえるほどに、それは近づいてくる。
「まったく人使いが荒い。この石っころを売り捌いたほうが、楽に大金が手に入るんじゃないか?」
「やめておけ。その石だって本来は魔法士の物を、ハーゲンが奪ってきたものだ。王族以外が好き勝手使えば、魔法士たちに目をつけられる」
「特権階級さまさまってか。まったく、嫌になるねぇ」
「いや、あれは許されていると言うよりは……。まあいい。魔法の行使役はお前だ。しくじるなよ」
「間違えようがねぇよ。この手袋で対象の腕とか何処かを掴んで、頭の中で呪文を唱えるだけだろ?」
手袋。掴まれた手首の感触が、生々しく蘇る。
息を殺した。彼らは何を話しているのかーー。あの夜の記憶?
「まあな。……うん?」
声が一番大きくなったタイミングで、男のうちの一人が立ち止まった。
気づかれたのか。口を抑える。
「どうした?」
「……いや、何でもない。早く、アルエット公爵邸に行くぞ」
残り二人の了承とともに、足音は遠ざかっていく。
背中が、汗でじっとりと冷えていた。
………………今のは、何だったのか。
現実? それはあり得ない。だってあれは、過去だ。
兄と私を捕らえに来た歓迎しない客人たちの、家に着く前の会話だ。
なら、どうしてこの場所であの会話が、足音が聞こえるのか。
おそるおそる、部屋を出る。誰もいなかった。
廊下はどこまでも続いている。階段を降りるか登るか迷って、そういえば、ずっと駆け降りていたことに気がついた。けれど道は、どこまでも続いている。
出口はない。暑くないのに、額を汗が伝う。
気がつけば、飾りの花瓶の花は全て、白と赤の混じった薔薇に変わっていた。
……王家の象徴とされる花は、黄色の薔薇だ。この国唯一の女王の髪が金色だったことから、彼女の名前を冠した薔薇が国花に選ばれている。
温室や魔法、ありとあらゆる手段を用いて、セイレア・ローズは常にこの国にあるよう努められているし、王家の人間を呼ぶような夜会の場でも、黄色の薔薇は必ず、花を飾るべき全ての場所に飾られている。
だから、この廊下に並ぶ花瓶に飾られているべきは、黄色の薔薇だ。
かつての、王太子様に腕を掴まれて兄に助けられた夜もそうだった。あり得ないのだ。白と赤の混じった花弁の薔薇だけが、ここに飾られているなんて。
「…………もしかして」
何も分からないこの空間で、けれどこの赤と白の薔薇には、心当たりがあった。
……ずっと、ずっと昔の話だ。私の年が、十にも満たなかったころ。友人の家で、迷子になったことがある。
その家は薔薇をこよなく愛していて、中庭に薔薇の迷路を作っていた。
あるとき外国から取り寄せた珍しい薔薇で迷路を作ったと、家族全員が呼ばれたのだ。見覚えのない白と赤の薔薇はとても綺麗で、だから両親が目を離した隙にふらりと迷路に入って、あっさりと迷子になってしまった。
見上げても空しか見えない空間で、どこから来たのか、何処にいけば良いのかも分からなくて。
見惚れて迷い込んだはずなのに、咲き乱れる薔薇は、美しいよりずっと恐ろしかった。うずくまって泣きじゃくっていたら、切羽詰まった顔の兄が見つけてくれた。それだけの話だ。
この薔薇にはなんの罪もないけれど。とびきり美しいこの薔薇が、それから少し、苦手だった。
この花が苦手であることは、誰にも話したことはない。私だけの記憶だ。それがここにあるのは。
「私が、恐れているから……?」
この場所は、私の恐怖を写し取っているのではないだろうか。
だって私は、この屋敷のことが恐ろしい。
兄を連れて行った人のことが恐ろしい。コーデリア様のことも、きっと。
こんな場所に閉じ込めるなんて、ぞっとするような悪意だった。ハーゲン様自身がいないのは、何か理由があるのだろうか。
そうして何よりも、出口は何処にあるのか。
震える指で、胸元を握る。硬い感触がして、視線を落とした。石だ。前にミシュカから貰った、橙色の魔石。
触れてみるとほんの少し暖かい。魔法に関して必要なのは、力そのものよりも技術や、どう使うかだと話していた、ミシュカの言葉を思い出した。目を閉じて、帰りたいと強く念じる。そのために、どこに行けばいいのか知りたいと。
……目を開く。
3つ先の扉、隙間からわずかに光が漏れている。
さっきまでなかったのに。橙色の光は魔石と同じ色で、暖かくて頼れるものだと、なぜか思った。
扉を開く。正面にはまた扉があって、そこからも光が漏れている。開く。左右に扉のある物置があって、けれど光を放っているのは扉ではなく横に倒れたクローゼットだった。少し悩んで、クローゼットを開く。その向こうには、なぜかまた部屋があった。
あべこべで、おかしくて。けれどこれが正解なのだと、直感がある。
何処にいけば良いか、分かるだけでずっと怖くない。
さらに扉を潜ると壁四面全てに扉がある部屋に出たり、抜けたはずの大広間に戻されたりした。それでも、光の方へ、暖かい方へ。
角を曲がった先、酷く寒い廊下にいた。
そうして、それはいた。
猪だ。
赤い目と、漆黒の毛並み。私の首に届くほどの、大きな体躯。
歯がカタカタと鳴る。けれどここが、魔法で作られた想像の世界であるのなら。
あれは私の記憶から作られた、私の恐怖でしかない。
なら、あれを倒す方法も、私は知っている。私は、ミシュカのことを信じている。
地響き。突進が来る。目を、逸らさなかった。
腕を、つよく右に振る。
猪は進路を逸らした。そうして壁に大きくぶつかる。
巨体は動かなくなり、瞬く間に姿が掻き消える。
息を吐いて、また走り出す。掌の魔石が、熱いくらいに疼いていた。
あと少しだ。その先に、外へ出る扉がある。
ぐらりと、地面が大きく揺れた。
ガン、と轟音にたたらを踏む。屋敷全体がなにか固い物に、打ち付けられているような。
ガン、ガン、と。音は止まない。
この世界の外側から、誰かが叩いている。そんな音だった。
それでも、最後の最後、走り出す。扉の先、玄関の大扉が見えた。
「――お願い、開いて……!」
そうして、光に包まれる。
足元が崩れる感触がした。
∮
木屑が飛び散っていた。
崩れ落ちた私の目の前に、割れた木の塊の残骸がある。彼女は、瞳を見開いていた。
その手には、斧が握られている。
結い上げていたはずの金の髪は乱れていた。
息を切らせたその人は、斧を取り落として、こちらに膝をつく。赤いドレスの、裾が揺れた。
「………………………………怪我はない?」
随分と久しぶりに聞く、コーデリア様の声だった。




