夜会の練習
朝、もう彼はベッドにいなかった。自分を抱きしめる。
これは叶わない恋なのだろうか。
この一件が終わって、シュヴァルツ様と離縁して。なにもなかったかのように、他の家に嫁入りするのだろうか。
一緒だ。独り身だとしても、他の誰と結婚したとしても。シュヴァルツ様でないなら一緒だ。
笑ってしまいそうだった。最初は急な婚姻を恐れていたくせに、今はシュヴァルツ様と本当の夫婦ではないことが、悲しいだなんて。
兄と話したかった。恋とはこんなに、頭がめちゃくちゃになりそうなものなのかと聞きたい。……兄もおなじ感情を、この領地の空色の瞳の女の子にむけているのか、知りたかった。
「………………よし」
今は。今は、兄のことを考えよう。
あの人を王太子様から解放する。家で暮らせるようにする。そんな私だったら、きっとシュヴァルツ様を裏切らずにいられる。何より私が、この恋を許してあげられる気がする。
唇に触れる。指は震えていて、冷たかった。
口の動きだけで、大好きですと呟く。
……叶って欲しいなんて願うべきではない。だって私は、シュヴァルツ様の妻ではないのだから。
∮
手首の魔法が解けるのはあっという間で、なにも変わったようには思えなかった。けれど時間がかかってしまって本当にごめんなさい、とミシュカが謝るから、慌てて押し留める。
「でもこれで、やっと魔法が解けました。……もう、貴女は自由です」
「ありがとう、ミシュカ」
本当に良かった、と彼女が本当に嬉しそうにするから、こちらまで嬉しくなる。
次の日、シュヴァルツ様は怪我一つなく戻ってきた。
出迎えの挨拶も早々に、執務室に来てくれと言われて頷く。報告を受けたんだが、と椅子を引きながら、私とミシュカ、二人に確認したいことがある、と前置きをされる。
「最近、屋敷の周りで妙な動きはなかったか。些細なことでも構わない」
「例えば、最近この屋敷の周りを彷徨いている、王家の人間だったり?」
ミシュカは平然と答える。シュヴァルツ様は気がついていたのか、と聞くことすらせず頷いた。
「メーガンに話しかけていたらしいわよ、銀貨をやるから領主と家に最近来た娘について教えろって。箒を振り上げたら逃げたって笑ってたけど。まだ領内にはいるでしょうし、捕まえる? 王太子について、楽しい話がたくさん聞けるかも」
ミシュカは椅子には座らず、窓枠に寄りかかったまま返した。物騒な提案を、お茶に誘うような口ぶりで並べる。
「なるほど、やはり聞くのはその事か。……捕えるのは、まだ理由が弱いだろう。拘束に足る理由がなければ、こちらの足元が掬われかねない。ただ、確認は必要だな。そいつに一人、部下を付ける」
何かあったら報告させるようにしよう。ミシュカ、必要があれば君の魔法を使わせてもらうかもしれない。
「追跡魔法ってこと? アーリエ様のに比べればまだマシだけれど、あまり期待しないでね。接触もせず魔法をかけるとか情報を全て抜くとかは絶対無理よ」
「もちろんだ。そもそも、なるべく君の手を煩わせないようにはする。他にやって欲しいことも多いからな」
「あの、その件なのですが。兄の家にあった書類に関して、少し気になるところがあったんです」
私も、立ったまま口を開いた。二人の視線が向いて緊張する。けれど、言葉を止めるわけにもいかない。
兄のことを考えよう、と決めて、昨日、もう一度この領の兄の家にある書類を読み返してみた。そうして気がついたことがあったのだ。
「兄にはこの領地のために色々なことを行うときに、協力者がいたんじゃないかって思うんです。待っていてください。いま、資料を持ってきますから」
自室の机に保管しておいた書類を持って来ようとすると、シュヴァルツ様も手伝ってくれた。机の上に広げた書類を、3人で覗き込む。
「まずは……。私がここに、来る前のことから。ご存知の通り兄はとても顔の広い人で、いつもいろいろな人とやりとりをしていました。彼はよく、どんな人と関わって何をしたかなどを教えてくれました。だから兄の友人の大半を、私は知っていると思います。ですが、シュヴァルツ様が親友であることは、ここに来て初めて知りました」
最初の違和感はそれだった。何かあった時オトゥール辺境伯を頼れと言うほどに兄とシュヴァルツ様は親しかったのに、兄の口から辺境伯の名前が出ることは、あまりにも少なかった。
「続けてくれ」
「はい。シュヴァルツ様は以前、国に魔法を用いての辺境伯の支援を要請したけれど、受け入れられなかったと話されていましたが、……兄もまた、同じことをしていたと考えています。そうしてそれには、協力者がいたとも」
彼の表情は変わらない。けれど瞳だけ、わずかに色を変える。
「ローディスがこの領のために、王家を動かそうと考えていたと?」
「はい。……ここや、ここを見てください」
見せたい箇所には、栞代わりに小さな紙を挟んでおいた。三十枚以上あるそれは全て別々のイニシャルで、ひとつひとつに指をさす。彼は背をかがめて、覗き込んだ。
「これは……。辺境伯領への魔法士の派遣にあたり、Cという人物と話した、とあるな。こちらはEは魔法以外を用いる魔獣対策についても乗り気だが、やはり本命は魔法だと書いてある。ここにもAが王家の事情に詳しいから、魔道具の借用を行うための懸念について教えてくれたとあるが」
長い指が、白い紙の文字をなぞる。
「あいつが魔獣対策を王家に掛け合おうとしていたのは分かった。けれどそれは、協力者とどう繋がるんだ?あいつは顔が広い。色々な友人がいるのは、自然なことだと思うが」
「はい。でも、この、兄が関わっていたAやC、Eなどの30以上のイニシャルは、すべて同じ、一人の人物だと思うんです」
言葉に、シュヴァルツ様は少し驚いた顔をした。
「どうしてそう思う?」
「はい。そもそも兄は文章で誰かの名前を呼ぶとき、愛称を使うことがほとんどです。なのに、この文章の中には辺境について話した相手として、イニシャルが何度も出てきます。逆に辺境伯領が関わらない内容でイニシャルが出ることは、一度もないんです」
言葉を続けながら、拳を握りしめた。完全に勘違いで、見当違いなことを話していたらどうしよう。
けれど彼は、真面目な顔で私を見る。
「なるほど。……だから君は、あいつにはこの領地について、身分を明かしてはいけないような誰かが関わっていたと考えているのか。だが、別々のイニシャルが同一人物であると思った理由は?」
「はい。これは、確信があると言うわけではないんです。でも、そちらの方がしっくり来ると言うだけで。……兄は王家からの辺境伯の支援について、シュヴァルツ様にお伝えしていなかったんですよね?私もオトゥール辺境伯について知らなかったように、兄はこの人物について、意図的に隠していたと思うんです。そうしてこのイニシャルは、今ここにある分だけでも、30以上あります。……流石にそれだけの人と交友があるのに、私たちに気づかれないようにするのは難しいと思うんです」
息を吸う。拳を握った。
「兄とコーデリア様の結婚について、そもそもどうして兄が捕えられたのかなど、今回の件で分からない点は、多くあります。このイニシャルが誰なのかが分かれば、事情を知っているかもしれないと思うんです。それどころかこのイニシャルの方が王家に近しい方なら、理由にも関わっている可能性すらあると、考えています」
「なるほど。……ありがとう、確かにそれは気になるな。君が良ければ、あとであいつの持っている書類を読ませてくれないだろうか。あいつとした会話と、照らし合わせたい」
そうして、俺からも、もう一ついいか? クロード第二王子との謁見について。
シュヴァルツ様の言葉には、ミシュカが反応した。
「それ、私も聞きたかったのよ。クロード殿下に謁見を申し込む、どうにか話せる機会を作るって言っていたけれど、貴方そろそろあれがあるでしょう」
「あれ、とは?」
「……半月後の夜会のことだ。ここの周囲の貴族達が集まる年に一度の催しで、辺境伯として、出席しないわけにはいかない。夜会自体が行われるのはオトゥールではないが、この領と周囲を管轄する立場として、準備などもあるから遠出は難しいんだ」
だから、半月後の夜会が終わるまで、クロード王子に会うため王都に行くことは難しくなる。先に伝えていなくてすまない。そう謝られる。
「そんな……!シュヴァルツ様が謝られることなんて、何一つありません。辺境伯としての務めなんですから、当然です」
そう言っても、彼の表情は晴れない。本当にシュヴァルツ様がそんな顔をすることは、全くないのに。
ミシュカに視線を向けると、彼女は何度か首を振った。
「アーリエ様、気にしないでください。これは単純に、シュヴァルツが夜会に乗り気でないだけです」
ぐ、とシュヴァルツ様は固まった。
「………………夜会はダンスなども行う、砕けたものなんだ。だから、親しい人間同士肩肘張らずに会話できるような場所で……。あまりそう言った場所は、得意じゃないんだ、俺は」
「オトゥールの氷の狼だものねぇ、貴方。髪飾りを落としたから拾っただけなのに、話しかけた令嬢を半泣きにさせたこともあったわよね」
「あ、れは……。誤解が解けたあとは普通に会話できたぞ、そのあとすぐ立ち去られたが…………」
「それ、普通に会話できたって言わなくない?」
シュヴァルツ様は遠い目をして、口を閉ざしてしまった。怒っているというよりも、傷ついているような気がする。
……私も、どんな反応をすれば良いのか分からない。でも、拾ってもらったその女性が羨ましいなんて、きっと伝わってはいけないのだろう。口を開く。
「なら、同行者がいれば良いのではないでしょうか。ダンスを行うような夜会なら、エスコートする女性がいますよね? 例えばミシュカが付いていくとか」
ミシュカはにこりと笑って答えた。綺麗な笑みだった。
「ふふ、アーリエ様。嫌です」
「え、でも、参加されるのは近い領地の方でしょう? 面識があるのでは」
「ええ、個人として仲のいい方は多くいます。でも、夜会は嫌いです。とても嫌いです。夜会の参加者と同じ人数の大魔猪を相手に戦う方がよほどマシです」
ダンスは嫌いです。きついドレスも嫌だし、何よりもマナーが嫌いです、と断言される。曇りのない眼だった。
「すまないアーリエ、ミシュカは本当に夜会……というよりも、煌びやかな場所全般が駄目なんだ。まあ、俺だってダンスのやり方も、もう忘れて久しいが」
「なら、お伝えしましょうか?」
言ってしまってから、少しだけ緊張する。切れ長の瞳がこちらを向いた。
「良いのか? 君はダンスは……。なんて、失礼な質問だな。アルエット家の令嬢なら、そういったことは既に身につけているか」
「はい。どんなものでも、男性パートの踊り方でも、一通りはお伝えできると思います」
ダンスは嫌いではないし、家庭教師にも身のこなしが綺麗です、この国の歳の近い令嬢ならお嬢様が一番お上手ですわ、とすら言われたこともある。兄の振る舞いもよく見てきたから、男性パートでも夜会で求められるような振る舞いであれば、伝えることが出来るだろう。
「アーリエ様が一緒にいけばいいんじゃない?」
「それは……。俺としてはありがたいが、あまり良くないだろう。ここの領地の人間だけではなく、周囲の貴族も来る場所だ。俺とともに顔を出せば、噂の種になるかもしれない」
そんなの困りません、きっとお役に立ちますから連れていってください、と、昨日までの私であれば、きっと言えた。けれど今は、その言葉が自分のための言葉になってしまわないか、怖かった。
……彼と恋仲や妻であると噂になることを、今の私は嬉しいと、きっと思ってしまう。
だから何も言えないまま、気付かれないように拳を握る。
その沈黙をどう受け取ったのか、ミシュカが小さく息を吐く。
「………………そう。まあ、それについては保留にしておきましょうか。とりあえずすることは、七日後までシュヴァルツはダンスをアーリエ様から習って、私は王都から来ているお客様のご対応ね?」
「ああ。アーリエ、君もそれでいいか?」
「はい。……よろしく、お願いします」
ダンスは問題なく教えられる。アルエットの人間として、マナーは叩き込まれた。
だから今も、ちゃんと笑えているはずだ。
∮
翌日から、昼下がりの広間が練習の場になった。人払いをした部屋に、二人分の足音だけが響く。
彼にダンスの方法を伝えるようになって分かったのは、シュヴァルツ様は相手をよく見ている人だ、ということだった。
踊るための身のこなしや、どう動けば良いのかは既に頭に入っている。けれど手を取っている間ずっとこちらを見つめて、女性が少しでも固まったりしたら、彼も動きを止めてしまう。
怯えられていないかを気にしている。だから、笑って手を取ってくるりと回る。
暖かい手だ。あの時ベッドで触れられなかった指先に、いま手を重ねている。
「とってもお上手だと思います」
「そうか。……そうなのか? 人にそう言われるのは、初めてだが。相手に怯えられているのが一番の理由なのだろうが、踊っている途中に、お互い立ち止まってしまうことも多いんだ」
「なら。目をつぶってみてはいただけませんか?」
「………………今か?」
「ええ。今、踊りながら目を閉じて頂きたいんです」
それは駄目だろう、君の足を踏んでしまう、と言う彼に、避けてみせますと返す。
少し悩んだあと、彼は恐る恐る目を閉じた。足が止まっているから、こちらから踏み出す。ゆっくりと、彼も動き始めた。
…………やっぱり。この人は、動き自体は完璧だ。一番正しい角度で足を動かしている。それでもぎこちなさが残るのは、やはり緊張によるものだろう。
彼の手を引く。くるりと、見えていないところで回ってみせる。彼の手はぎこちなく、けれど離さずいてくれる。
三拍、四拍。二人分の足音がひとつの流れになった頃合いで、口を開いた。
「私のことをよく考えてくださっている踊り方だと思います。けれどたぶん、踊る時はそこまで考えなくても大丈夫なのだと思います。シュヴァルツ様が相手に合わせようと考えて下さるように、相手もシュヴァルツ様に、合わせてくれるはずですから。相手のことはさほど気にせず、好きに動いても良いのだと思います」
「…………好きに動く、の感覚が分からない」
薄く目を開けた彼は、本当に困り切った顔をしていた。
「ふふ。ならまず、私から動いてみて良いですか?」
もう一度回る。彼の腕を引いてみる。だんだんと足取りはしっかりとした、けれど軽やかなものになっていく。
瞳を閉じたままだけれど、彼の表情も柔らかなものになっていることに気がつく。
どれだけ踊っていただろうか。気がついたら時計の長針は一周していて、空の色も橙に近づいている。
隣で時計を見ていた彼も、思わずといったように、口を開いた。
「踊ることを楽しいと思ったのは初めてだ。凄いな、君は」
「……ええ、とっても楽しいです」
くるくると回る。不器用に見えて人をよく見ている、とても鋭い人だ。
だから、気づかれてはいけない。握った手の熱さに、私の手が震えそうなことなど。掌が背中に回されて引き寄せられるたびに、心臓が破裂しそうになることなど。
いまなら顔が赤いのも、夕日が誤魔化してくれるはずだから。




