自覚と言葉
使用人達には何も伝えていなかったのに、入浴を済ませたあと、三人ほどの侍女が私の部屋を訪れて、爪先まで磨いてくれた。
寝巻きは透けるネグリジェではないけれどファティカのモスリンを使ったものを着せられて、髪に丹念に香油を梳かされたあと、速やかに彼女達は去っていった。初日の夜を思い出して、少し居た堪れない。
彼の部屋をノックする時は流石に緊張したけれど、鍵は開いていて、すでにシュヴァルツ様はいなかった。
彼らしい、と思いつつも、部屋を借りるのだから挨拶くらいしたかった、ともちらりとよぎる。
……ずっと、ドキドキしている。
家族以外の男性の私室を訪れたのは、初めてだった。
塵ひとつなく整えられた部屋で、大きな机の上には紙束があった。部屋の隅には私のものより大きなベッドが鎮座している。飾りらしい飾りはなく、彼の性格がそのまま形になったような部屋だった。紙と木の匂いがする。
「………………えい」
ぼふり、と身を沈める。柔らかなベッドが身を包んだ。
しわ一つなく整えられたシーツは洗い立てで、枕や上掛けは石鹸の匂いすらしないから、新品なのかもしれない。
落ち着かない。そうしてこれは、知らない部屋で寝ているということだけでは、ない。
「はやく、寝ないと」
瞼を閉じる。慌ただしい心臓が、はやくいつも通りに戻って欲しいと願いながら、強く。
二日目も三日目も、なにも変わらなかった。彼は部屋を訪れるときにはいなくなっていたし、一度だけよく眠れたかは聞かれたけれど、深く言及されるわけでも無い。
昼間の彼は、何も変わらない。いつも通りに話し、いつも通りに私の名前を呼び、夜になれば当たり前のようにゲストルームへ下がっていく。
けれど一人で彼の部屋に眠るとき、心臓は変わらずうるさい。
そうして一週間経った、最後の夜だった。今日で最後か、と考えながら部屋のドアを開けた時、部屋にはまだ、シュヴァルツ様がいた。
机の上の燭台に灯りがともっていて、その傍らに、書き物をする背中があった。
驚いたのは、彼もであるようだった。
「……ああ。もう、そんな時間か。済まない、すぐに出る」
「いえ。えっと……。こんばんは」
夕食も一緒に摂ったのに、こぼれたのはそんな言葉だった。こんばんは、と律儀に返してくれる。
「お仕事をされていたんですか? こんな時間まで……」
「ああ。明日騎士達と森に討伐に行く。片付けられるものは、片付けておきたくてな。……うっかりこんな時間になってしまった訳だが」
苦笑して、彼は書類を纏めはじめる。笑った顔は珍しい。夜着を見るのも初めてだ。すぐに出る、と語る彼を引き留める。
「あ、の……。私がベッドをお借りしてしまって、シュヴァルツ様に不都合はありませんか? 例えば、ゲストルームのベッドはこのベッドほど広くないでしょう」
「気にしてくれるのか? だが、森で野宿するときなどは地面の上で寝るんだ。狭いなど、気にする必要はないよ」
気にする必要はない、ということは、確かに狭くはあるのだろう。
「でも……!明日は、森に行かれるんですよね?なら、少しでも身体を休めていただきたいんです。今日だけでも、元のベッドで眠られるべきではないでしょうか」
手触りの良さそうな生地の、袖に手を伸ばそうとして――。今、私はなにをしかけたのだろう。
それでも、ここで黙り込んだら、変に思われるに違いない。言葉を必死に選ぶ。
「私がまだこの部屋にいた方がいいなら、私はソファか床で、寝ますから」
「女性をソファで寝かせて、俺だけベッドにのうのうと寝るわけにはいかないだろう」
はっきりと言い切られる。呆れられているのだろうか。それでも彼に、ずっと申し訳なく思っているのも本当で。
――申し訳ないと、それだけ?
アーリエ、と名前を呼ばれる。
彼は、ひどく静かに私の目を見ていた。
「何を焦って……、いや。なら、俺もこの部屋で寝させてもらおう。ベッドを半分借りても良いか?」
「……………………は、い」
自分の声が、ひどく遠くで聞こえた。
そうか、と。彼は変わらない無表情のまま、頷いた。
∮
口にした言葉は戻らない。後悔はしていない。
けど、これは。
これは、あまりにも。
ベッドに潜り込む間、言葉はなかった。背を向けて横になったのに、シーツの向こうの重みも、静かな呼吸も、分かってしまう。そっと、寝返りを打った。
ひどく大きいベッドだから、二人が寝転んでいても、間に十分スペースがある。彼はこちらを向いていた。わずかな月の光だけが、シュヴァルツ様を照らしている。
綺麗な顔のひとだった。
艶のある紺の髪は今は夜闇に溶け込んで、肌の白さが際立っていた。いつものようにシャツのボタンを一番上まで留めていない。太い腕も、筋肉の浮いている首筋もよく見える。
目が、合った。逸らせなかった。
「…………アーリエ」
「は、い」
「思い上がりで、ないのならば。……君がオトゥールに来てくれてから、君と俺は親しくなれたと考えている」
ぽつりと、言葉が続く。
「俺は話すのは上手くない。それでも、君が不安であるならば、それを放置はしたくない。……君は俺に、言いたいことがあるのではないだろうか。だから今、こうやっているのではと、思うんだ」
「なんでも良いんだ。家族と引き離された寂しさでも、王太子への恐怖でも、俺への不満でも。君と、君が考えていることを知りたい」
冴えざえとした瞳だった。眠るつもりなど、最初からなかったのだ、この人は。
「………………シュヴァルツ様は、凄い方ですね」
「そんなことは、ないと、思うが……」
それ以上、言葉が続かなかった。
言いたいことならあるはずだった。兄のこと。王太子のこと。明日の討伐のこと。けれど喉のところで止まってしまうのは、そのどれでもない何かだ。
「…………本当に、ありがとうございます。なら、もしちゃんと伝えられると思ったら、また、時間を頂けませんか」
「もちろんだ。俺は、いつだって君の力になろう」
三分ほど黙って、やっとそれだけ言えた。おやすみなさいと続ければ、おやすみ、と返ってきた。
寝息ひとつ聞こえない。
夜よりずっと静かな彼が、眠っているのかは分からない。けれど明日、彼は森に行く。どうか無事に帰ってきて欲しい。
彼が起きていたとしても、この人は私に指一本触れることはないのだろう。正しく兄の親友として、私の心すら守ろうとしてくれている。
……なのに私は、シーツに投げ出されたこの手が、どんな温度をしているか知りたいと思っている。さっき、どうして彼を引き留めたのか分かった。
この人だ。
私は、この人が好きだ。
夜でよかった。昼だったらきっと、顔が赤いと気付かれてしまった。こんなに痛いほどに心臓がうるさくて、頬だって熱いのだから。
言葉にしてしまえば、もう戻れない。
それでも月が雲に隠れるまでの間、私はずっと、その手を見つめていた。




