ヴィンセント編 2話
「ヴィンセント様ー!ヴィンセント様ー?」
静かな庭園に、私の声が響き渡る。
しかし、探している人物どころか、誰からも返事は返ってこなかった。
「もう、どこへ行ったのよ、ヴィンセントは……」
──あの後、私は急いでヴィンセントの部屋へ向かったが、そこに彼の姿はなかった。
厨房、浴室、衣装室…宮殿の中を隅から隅まで探したけれど見つからず、
「はぁぁぁ」
迷路のような庭園を歩きながら、盛大なため息を吐いた。
『僕は君を迎えに来たんだ』
ふと今朝の夢が脳裏を過ぎる。
白いスズランに囲まれた、同じく陶器のような白い肌をしたヴィンセントの姿が。
「これじゃ、夢と逆じゃない……………って、あれ?」
(そういえば、どうして、ヴィンセントはオフィーリアを迎えに来たんだろう…?)
貴族でも、ヒロインのジェシカみたいな聖女でもない、ただの女の子を。
誰かに命令するのではなく、自分で……。
「……………もしかして、」
オフィーリアが記憶を失った理由と関係してる…?
そう呟こうとした瞬間──
(…っ、また…!)
スズランの香りがした。
あの夜のように、足が勝手に動き出す。
女神の彫刻が施された大きな噴水の横を、石造りの白いガゼホの横を、見向きもせずに通り過ぎる。
バラ園を進み、幾重にも続くローズアーチを潜り抜けると、
「ここは………」
小さな温室に辿り着いた。
白い格子窓で囲い、硝子屋根で蓋をしたそれは、まるで宝石箱のようだった。
扉に向かって伸ばされた手が、ドアノブに触れる。
途中で引っ掛かることなく、ぐっと下ろした。
(鍵が、空いてる……)
キィと音を立てながら、扉が開かれた。
その先にあったのは、
「わぁ……」
スズラン庭園だった。
硝子屋根を通り抜けた太陽の光を浴び、キラキラと輝く白い花々が、今朝の夢を彷彿とさせる。
「綺麗……」
両脇に並ぶ花壇を眺めながら、私の足は奥へ奥へと進んでいく。
見えてきたのは、噴水と、それを取り囲むスズランの花壇。
私は花壇の前で足を止め、しゃがみ込んだ。
スズランに顔を近づけ、目を閉じて息を吸い込む。
「いい香り……」
ほのかに甘い香りが、身体中に広がっていく。
目を開くと、あることに気がついた。
「あれ?よく見たら、こっちのスズランの方が小さい……」
これから大きくなるのかな…?
そう呟いた、その時──
「ならないよ」
今朝の夢と同じく、突然背後から声を掛けられた。
振り返る前に、声の主は私の隣にしゃがみ込む。
「そっちはうちの、こっちは隣国のアルシオンから取り寄せたスズランだから」
隣にいたのは、
(ヴィンセント……!)
穏やかな笑みを浮かべた亜麻色の髪の青年。
私が探していた人物だった。
「…え、えっと、詳しいんですね」
「あはは、そりゃあ、自分の温室で育ててる花のことくらい知ってるよ」
(自分の……ってことは、ここはヴィンセントの温室だったのね……)
「というか、ごめん。わざわざ迎えに来させて」
「あ、いえ……」
「七時までに戻ろうと思ってたんだけど、土を替えるのに時間がかかっちゃってさ」
「土を替える…?」
「うん。最近、水はけが悪かったから」
(王子が…というか、黒幕が、自分の手で……?)
捲られた袖。
頬についた土。
手袋をしていたのか、手は綺麗だったけど、ただ温室を鑑賞しに来た王子様には見えなかった。
愛おしそうに、ヴィンセントはスズランを見つめる。
その横顔から、私は視線を逸らせなかった。
「…お花、好きなんですね」
「花…というより、スズランが好きなんだ」
「スズランが?」
「ああ。だって、君に似てると思わない?」
「特にこの子」と、ヴィンセントは手を伸ばした。
そっと触れたのは、アルシオン産の中でもとびきり小さなスズラン。
「白くて、小さくて、可憐で、何より──」
ヴィンセントは花から私へ視線を移した。
菫色の瞳が弧を描く。
「毒を持っているところが」
(…………………………え、毒??)
眉間に皺が寄る。
(毒、とは……?)
褒めているのか貶しているのかすら分からず、言葉が出てこない。
困惑していると、
「…ふっ」
ヴィンセントが小さく笑った。
再び菫色の瞳と視線が交わる。彼は微笑み、
「さぁ、そろそろ部屋に戻ろうか」
立ち上がった。
「任務の報告も聞きたいし、それにクラバットを結ばないと落ち着かない」
トントンと自分の首元を指で叩き、ヴィンセントは歩き出した。
──だったら、自分でやればいいのに。
その言葉を飲み込んで、私は彼の背中を追い掛けた。
×××××
「掃除屋と親交を深めるために任務が欲しい?」
頭上から不機嫌そうな声が降ってきた。
クラバットを結ぶ手が、思わず止まる。
恐る恐る顔を上げてみたけれど、そこにはいつもの笑みを浮かべたヴィンセントしかいなかった。
気のせいかと、私はほっと胸を撫で下ろした。
「どうして?彼らは犯罪者だよ?」
「それは……」
(あんたから逃げるため、とは言えないしな……)
「今後の任務の成功率を上げるためです」
「昨日の任務も失敗していないだろう?」
「次は失敗するかもしれません。最悪負傷者や死者が出る可能性もっ…」
「それは仲が悪いせいじゃない。彼らが弱いせいだ」
「ですが、ちゃんと信頼関係を築き、連携が取れれば防げる犠牲もありますっ」
「…ふーん」
それきり、ヴィンセントは口を閉ざした。
探るような視線に見下ろされ、じんわりと汗が滲む。
「………まぁ、任務は元々渡すつもりだったし、その理由なら仲良くなるのも構わないけど…」
「!じゃっ…」
「でも」
ヴィンセントの腕が腰に回り、ぐいっと引き寄せられた。
次の瞬間──
「あ……………」
彼の整った唇が触れた。
………シャツの下に隠れているスピネルのネックレスに。
(…………………………は?)
予想外の出来事に、髪や肌だけでなく、頭の中まで真っ白になる。
先程までスズラン庭園にいたはずなのに、彼から微かに薔薇の香りがした。その香りに、止まっていた脳が動き出すと同時に、顔が熱を帯びていく。
「ちょっ…」
慌てて胸を押し返そうとしたけれど、
「浮気しちゃ駄目だよ?」
出来なかった。
今朝の夢みたいに、菫色の瞳が妖しげに輝いていたから。
「君の身体も心も、全て僕のものだ。こうやって誰かに触れるのも、」
彼の右手が腰を撫で、
「誰かを好きになるのも、許さない」
左手が首元の膨らみに触れる。
「……もちろん、昨日みたいに殺されるのもね」
最後の言葉を聞いた瞬間、アランに包丁を振り下ろされた時の光景が脳裏に浮かんだ。
ぞっと背筋が冷え、鳥肌が立つ。
「返事は?」
「は、はいっ」
上擦った声で返事をすると、ヴィンセントはまたしても小さく笑った。
「…よろしい」
氷のように冷たい手が離れていく。けれど、私の手は微かに震えていた。
震えがバレませんようにと祈りながら、なんとかクラバットを結び終わると、彼は歩き出した。机の引き出しから一通の手紙を取り出し、こちらへ差し出す。
「はい」
「これは…」
「ケイレブに任せたい任務だ。仲良くなりたいなら、個人任務に同行した方がいい」
「…っ、ありがとうございます、ヴィンセント様」
思わず笑みがこぼれる。
ほんの一瞬、菫色の瞳が見開いた。
「……………」
「?ヴィンセント様?」
「………いや、何でもない」
ヴィンセントは机に寄り掛かり、首を回した。
その視線の先には、真っ白なスズランの花が静かに揺れていた。




