ヴィンセント編 1話
(……ん、この匂いは………)
洗い立てのシャツに一輪の花を添えたような匂い。
──スズランの香りだ。
ぼんやりとしていた意識が、霞んでいた視界が、だんだんと鮮明になっていく。
見えてきたのは、
(…………………………え、)
月明かりに照らされ、青白く輝くスズラン畑。
その先には、真っ暗な森が広がっていた。
(ここ、どこ……?)
風が吹き、視界の隅で真っ白な髪の毛が舞う。
リンリンと白い鈴が鳴ることはなく、黒い巨人がざわざわと大きな音を立ててぶつかり合っていた。
(まさか、今度こそ本当に誘拐されたんじゃっ……)
辺りを見回そうとした。
その時──
「やぁ、こんにちは」
背後から声を掛けられた。
振り返ると、
「いや、この時間だとこんばんは…かな」
そこには亜麻色の髪をした少年が立っていた。
柔らかい声。
穏やかな笑顔。
(ヴィンセント……?)
いつもより声が高い。
背が低い。
クラバットも結ばれていない。
でも──
「こんなところで何をしているの?」
こちらを真っ直ぐに見つめる菫色の瞳は、彼以外ありえなかった。
「………記憶を、探してるの」
(……………え?)
彼が魔法使いなのか、それとも言葉が呪文だったのか、口が勝手に動き出した。
手で塞ごうとしたけれど、どうやら身体も魔法にかかってしまったようで言うことをきかなかった。止めることも塞ぐこともできない小さな口から、か細い言葉がこぼれていく。
「名前以外、全部忘れちゃったから…」
「へぇ、何か思い出せた?」
ふるふると、首が横に動く。
そんな私を見ても心配するフリすらせず、ヴィンセントは「そっか」とこちらへ近づいてきた。
「…あなたこそ、ここに何をしに来たの?」
「僕は君を迎えに来たんだ」
「私を?私のこと、知ってるの?」
「ああ、知ってるよ」
「じゃあ、どうして私は…」
「でも、別に思い出さなくていい」
言葉を遮り、彼は私の目の前で足を止めた。
月光が差し込んで、菫色の瞳が妖しげに輝く。緩やかに上がっていた口角が、さらに持ち上がった。
──ああ、彼は魔法使いなんかじゃない。
彼は、
「どうせ僕が新しい記憶で上書きするから」
悪魔だ。
天使のような声で、微笑みで私を拐かし、死神へ引き渡す堕天使。
先程よりひんやりとした風が頬を撫で、彼の亜麻色の髪を揺らす。
形のいい唇が、ゆっくりと開いた。
「君、名前は?」
「………オフィーリア」
「オフィーリア、か…。ぴったりな名前だね」
(ぴったり……?)
「……あなたは?」
「僕はヴィンセント・ベン・ヴェスタニア。今日から君のご主人様だ」
「ご主人様……」
「そう。よろしくね、オフィーリア」
差し出されたのは、オフィーリアと同じくらい真っ白な手。
しばらくすると、二つの手が重なった。
やはり、氷のように冷たい。
そう思った瞬間──
プツリと意識が途切れた。
×××××
「……………ん」
眠りの底から意識が浮かび上がる。
重たい瞼を開けると、元の世界の自分の部屋。…ではなく、もう見慣れてしまったオフィーリアの部屋の天井が広がっていた。
(オフィーリアの部屋……)
ギシリと音を立て、身体を起こす。
(…の、ベッドの上………)
薄いシーツを掴んでいた手で、硬いベッドに触れた。その感触に、昨夜の記憶が徐々に蘇っていく。ジャックに城まで送ってもらってから、ここで横になるまでの記憶が。
相当疲れていたのか、横になってからの記憶は全く思い出せないのだけれど……。
「ってことは、夢……?」
勝手に動くことも、決して動かないこともなく、自分の意志で開いた口から言葉がこぼれた。
先程見た光景が脳裏に浮かぶ。
月明かりに照らされ、青白く輝くスズラン畑。
その中心に立つ幼いヴィンセントと、
『君、名前は?』
『………オフィーリア』
同じく、幼いオフィーリア。
「………いや、違う」
手を広げ、じっと見つめる。
夢で見た時より大きく、相変わらず真っ白な手。そこには、あの冷たい手の感触が残っていた。
(ただの夢なら、感触がするわけない……………)
ふとある可能性が頭を過ぎる。
もしかして──
「オフィーリアの記憶……?」
見つめていた手で、そっと額に触れる。
(………ありえなくない。だって、この身体はオフィーリアのものなんだから……)
その時、カーテンの隙間から朝日が差し込んだ。
眩しくて、思わず目を細め、手をかざした。
不意に、窓際の壁に掛かった時計が目に入った。
その時計の針は、午前七時…ヴィンセントの支度を手伝いに行く時間を示していた。白い顔が、サーッと青に染まる。
「げっ、やっば!怒られる!」
私はベットから降り、急いで準備を始めた。
………今朝の夢を、頭の片隅に思い浮かべたまま。




