第五話 死ねない理由
夜の森は、昼よりもずっと近く感じた。
異形の存在が村の外に立ったまま動かない。
まるで「逃げ道そのもの」を観察しているようだった。
村人たちは地下倉庫へと押し込まれ、泣き声と祈りが混ざり合っている。
その喧騒の外で、レインは一人立っていた。
鍬を握る手は汗で滑りそうだった。
(あれは“狩り”じゃない)
(捕獲だ)
言葉ではなく、理解としてそれが落ちてくる。
異形は一歩ずつ近づいてくる。
逃げてもいいはずだった。
いや、逃げるべきだった。
今の身体であれに勝てる可能性は限りなく低い。
それでも、足は動かない。
理由は単純だった。
――村の地下に、まだ子供がいる。
昼間、水をくれた少女。
あの目が、まだ頭から離れない。
「……最悪だな」
レインは小さく呟いた。
その瞬間だった。
背後から足音。
「やっぱり来たか」
老人だ。
昼間の、あの男。
「お前、戦えるな」
「違う」
レインは即答した。
「ただ死にたくないだけだ」
老人は一瞬だけ目を細める。
「それが一番厄介だ」
意味の分からない言葉。
だが、続きはすぐに来た。
「死ねない奴はな、“一番無茶をする”」
焚き火もない暗闇で、老人の目だけが光っていた。
「お前、今日あの魔獣を止めた時……本気で死ぬ気だっただろ」
レインは答えない。
答えられない。
事実だからだ。
止めた瞬間、勝つつもりではなかった。
ただ「誰かが死ぬのを嫌った」だけだ。
その時だった。
異形が一歩、踏み込んだ。
地面が沈む。
村の柵が音を立てて崩れる。
「来るぞ!!」
どこかで誰かが叫ぶ。
レインは鍬を構えた。
だが、身体が重い。
怖いのではない。
“間に合わない”という確信がある。
異形が腕を振り上げた。
その瞬間――
レインの頭に、何かが走った。
痛みでも記憶でもない。
“断片”。
――血の匂い。
――崩れる城壁。
――誰かの声。
「また死ぬ気か、レイン」
声が聞こえた。
知らないはずの声。
なのに、妙に懐かしい。
「……っ」
視界が揺れる。
次の瞬間、異形の攻撃が振り下ろされた。
風圧だけで地面が裂ける。
レインは反射で飛び退く。
ギリギリで回避。
だが、体勢が崩れる。
(遅い)
(今のは本来なら避けられない)
身体が追いついていない。
その時だった。
老人が叫んだ。
「お前、何回“死んだ”?」
レインは一瞬止まる。
「……何だと?」
「いいから答えろ!!」
異形が再び動く。
レインは答えながら跳ぶ。
「……七回だ!!」
その瞬間。
老人の顔がわずかに歪んだ。
「やっぱりな」
小さく呟く。
そして――
「ならもうすぐだ」
「何がだ」
レインが叫ぶ。
だが答えはない。
異形の爪が迫る。
回避。
紙一重。
鍬が折れかける。
肺が焼けるように痛い。
その時だった。
異形が“止まった”。
正確には止められた。
空から降りた影。
飛竜。
昼間の個体とは違う。
しかし同じ“気配”。
そして、その飛竜が異形に向かって――
頭を垂れた。
従属。
明確な階層。
レインの背中に冷たいものが流れる。
(この世界の構造じゃない)
(これは“自然”じゃない)
異形が言う。
「対象保護優先」
飛竜が応じるように翼を広げる。
そして――
レインを見た。
その瞬間、レインの中で“何か”が完全に壊れた。
(俺は……)
(何から逃げてる?)
だが答えは出ない。
ただ一つだけ確かなことがある。
――このままでは、また死ぬ。
その直感だけが、異常なほど鮮明だった。
レインは鍬を握り直す。
震える手で。
そして初めて、自分から一歩前に出た。
「……ふざけるな」
七度目の人生は、もう“農民の領域”を越えていた。




