第三話 竜の影
空気が一瞬、止まった。
魔獣グラウドが一歩踏み出すたびに、地面が震える。
畑の土が小刻みに跳ね、村人の呼吸が浅くなる。
「逃げろ!!」
誰かの叫びで、村が崩れるように動き出した。
子供が泣き、大人が荷物を投げ捨てる。
だがレインは動かなかった。
鍬を握ったまま、魔獣を見ている。
(距離……約十六歩)
骨格、筋肉の付き方、体重のかけ方。
一周目で何度も繰り返した“戦闘の計算”が勝手に浮かぶ。
勝てない。
今の身体では、正面からは絶対に無理だ。
だが――
魔獣が唸り声を上げた瞬間、横から石が飛んだ。
老人だ。
「こっちだ化け物!!」
気を逸らそうとしている。
次の瞬間、魔獣の視線が老人に向く。
まずい。
レインの身体が、考える前に動いた。
「下がれ!!」
叫びと同時に走る。
足がもつれる。
息が詰まる。
遅い。遅すぎる。
だが、それでも間に入った。
鍬を横に構える。
魔獣の爪が振り下ろされる。
――重い。
衝撃で腕が悲鳴を上げる。
「っ……!」
吹き飛ばされ、地面を転がる。
土の味がした。
(やっぱり無理か)
冷静にそう判断する自分がいる。
だが同時に、もう一つの記憶も浮かんでいた。
一周目。
竜を討ったときの“最初の一手”。
――“力で勝てないなら、構造を壊せ”
レインは立ち上がる。
魔獣が再び迫る。
その瞬間――
空が、暗くなった。
誰かが息を呑む音が、村中に広がる。
「……なんだ?」
レインが上を見る。
雲の隙間。
巨大な影。
翼。
空を裂くような滑空。
そして――
咆哮。
「――――!!」
音というより、圧だった。
空気が押し潰される。
村人たちが一斉に地面に伏せる。
魔獣でさえ動きを止めた。
レインの背筋に冷たいものが走る。
(これは……)
“格が違う”。
影がゆっくりと旋回する。
黒い翼。
裂けた左翼。
赤く濁った瞳。
レインは息を止めた。
見覚えがある。
いや、忘れようがない。
一周目。
世界最後の戦いで、自分が殺した存在。
災厄級飛竜。
それが今――
空にいる。
ありえない。
確かに殺した。
首を落とし、心臓を貫いた。
なのに。
飛竜は、まるで懐かしむように村を見下ろしていた。
そして。
視線が、止まる。
レインに。
次の瞬間。
飛竜の口元が、わずかに歪んだ。
笑った。
「……っ」
レインの喉が鳴る。
魔獣が一歩下がった。
明らかに“本能で理解している”。
この空の存在は、自分たちより遥か上だと。
飛竜の視線が、ゆっくりと魔獣へ移る。
たったそれだけで、魔獣の動きが止まった。
次の瞬間。
翼が一度だけ動いた。
――風が、消えた。
いや、切り裂かれた。
魔獣の体が、音もなく崩れる。
村人の悲鳴が遅れて届く。
「……なにが……起きた?」
老人の声が震えていた。
レインはその場に立ち尽くしていた。
視線は飛竜から離れない。
(おかしい)
(これは“同じ個体”じゃない)
なのに“同じ記憶”を持っているような動き。
そして何より――
飛竜はもう一度、レインを見た。
今度ははっきりと。
まるで確認するように。
その瞬間、レインの胸の奥で何かが冷たく沈んだ。
(まさか……)
飛竜はゆっくりと翼を広げる。
そして去るでもなく、ただ空に留まり続けた。
まるで。
この村を見張るように。
レインの七度目の人生は、静かに歪み始めていた。




