第3話 揺れた肩
西へ。
さらに西へ。
ノアとシエルは旅を続けた。
ヴェルテンから西へ三日。
辺境街カルフェン。
西方州の最果ての街。
人口は三千ほど。
森と山に囲まれた、小さな街だった。
ノアはここに家を借りた。
使われなくなった木造の小屋。
二間しかなかった。
だが、二人には、十分だった。
「ノアって、変だね」
シエルが言った。
夕方。
小屋の台所。
シエルがかまどに火を入れていた。
淡い金髪が火の光で揺れていた。
「私を、買ったんでしょ」
「でも、何もしない」
「鎖もないし、命令もしない」
「変だよ」
ノアは答えなかった。
答える言葉が見つからなかった。
「変なのは、嫌い?」
シエルが訊いた。
「いや」
ノアは答えた。
「嫌いでは、ない」
シエルが笑った。
頬に皺ができた。
目尻が下がった。
「ふふ」
「ふふ?」
ノアは繰り返した。
「それは、何だ」
「笑い方だよ」
シエルが答えた。
「嬉しい時の」
ノアは頷いた。
理解した、ふりをした。
実際には、理解できていなかった。
「嬉しい」という言葉の意味がノアには、分からなかった。
夕食はシエルが作った。
じゃがいもと、肉と、塩。
それだけのスープだった。
ノアは食べた。
味は分からなかった。
ただ、温かかった。
「美味しい?」
シエルが訊いた。
ノアは皿を見た。
空になっていた。
「俺は、なぜ、皿を、空にした」
ノアが呟いた。
シエルが噴き出した。
「ノアって、優しいね」
シエルが言った。
「優しい?」
ノアが訊いた。
「俺は、何も、していない」
「ううん」
シエルが首を振った。
「優しいの」
夜。
ノアは外に出た。
月が出ていた。
冷たい風が頬を撫でた。
シエルが後ろから来た。
ノアの隣に座った。
「あのね」
シエルが言った。
「私、泣かないんだよ」
「お母さんと、約束したから」
ノアはシエルを見た。
月明かりがシエルの頬を照らしていた。
シエルの目は笑っていた。
だが、ノアの中で何かがざわついた。
ノアはそれを説明できなかった。
その夜。
シエルは眠りながら、小さく震えていた。
寝台の上で身体を丸めていた。
淡い金髪が頬に張り付いていた。
「泣いたら」
シエルがかすれた声で呟いた。
「また、誰かが、死ぬ」
ノアは隣の部屋でその声を聞いた。
意味は分からなかった。
ただ、胸の奥で何かが冷たくなった。
ノアはしばらく、扉の前に立っていた。
開けるべきかどうか、分からなかった。
分からないまま、朝まで、眠れなかった。
夜、声が聞こえた。
ノアは目を覚ました。
小屋の隣の部屋から、声が漏れていた。
声というより、押し殺した息。
誰かが泣いていた。
声を立てずに。
ノアは起き上がった。
扉を開けた。
シエルが寝台の上で丸くなっていた。
淡い金髪が頬に張り付いていた。
肩が震えていた。
目を固く閉じていた。
悪夢だった。
ノアは傍に座った。
手を伸ばした。
シエルの肩に置いた。
「シエル」
ノアが呟いた。
シエルが目を開けた。
緑の瞳がノアを見た。
涙が頬を伝っていた。
シエルは慌てて、頬を拭った。
「ごめん」
シエルが囁いた。
「泣いて、ない、から」
ノアは首を横に振った。
「俺は、ここに、いる」
ノアが言った。
ノアは自分の口から出た言葉に驚いた。
なぜ、その言葉を口にしたのか。
ノアには、分からなかった。
だが、シエルはノアを見た。
長く、見た。
そして、頷いた。
「うん」
シエルが言った。
しばらく、沈黙があった。
風が窓を揺らした。
シエルが息を整えた。
「私、ローレン村出身なの」
シエルが言った。
「南方州の、小さな村」
ノアは聞いていた。
「五年前、村に、伝染病が、来たの」
シエルが続けた。
「みんな、死んだ」
「お父さんは、もっと前に、死んでた」
「だから、お母さんと、弟と、私だけだった」
「弟の名前は、リオ」
シエルが言った。
「五歳だった」
「最初に、リオが、病気になった」
シエルはしばらく、黙った。
窓の外で風が鳴った。
「リオが、最後に、言ったの」
シエルが言った。
「『お姉ちゃん、笑って。お姉ちゃんが泣くと、僕も、苦しい』」
「そう、言った」
「次に、お母さんも、病気になった」
シエルが言った。
「お母さんが、最後に、言ったの」
「『シエル、泣かないで、生きて』」
「そう、言った」
「だから、私、泣かないんだよ」
シエルが言った。
「お母さんと、リオと、約束したから」
シエルは笑った。
無理に笑った。
「私が、泣くと、みんな、死ぬから」
ノアはシエルを見ていた。
言葉が見つからなかった。
ノアの中で何かがざわついた。
大きく、ざわついた。
その「何か」をノアは知らなかった。
翌日。
ノアは街を歩いた。
雑貨屋の前を通った。
老人が店先に座っていた。
白髪。
深い皺。
穏やかな目をしていた。
七十は超えているように見えた。
老人がノアを見た。
しばらく、見つめていた。
それから、口を開いた。
「あんた」
老人が言った。
「誰かに、似ている」
ノアは立ち止まった。
「誰に」
ノアが訊いた。
「妹に」
老人が答えた。
「ずっと前に、死んだ妹に」
「俺の名は、ヤコブ」
老人が言った。
「あんたの名は」
「ノア」
ノアが答えた。
ヤコブは頷いた。
何も、続けなかった。
ただ、ノアを見つめていた。
ノアの中で何かが揺れた。
遠い、遠い、何か。
ノアはそれを思い出せなかった。
頭の奥で声がした、気がした。
──お兄ちゃん。
誰の声か。
ノアには、分からなかった。
雑貨屋を出る時、ノアは通りの向こうに白い長衣を見た気がした。
人混みの隙間。
建物の影。
帝都の魔導官が身につけるような、白い布。
ノアが振り返ると、そこには誰もいなかった。
ただ、風だけが店先の古い看板を揺らしていた。
「異常だ」
ノアは呟いた。
だが、その異常さを誰かに伝える言葉をまだ持っていなかった。




