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第2話 鉄の檻

西への街道は長かった。


ノアは馬車を乗り継いだ。

二日。

三日。

四日。

景色がゆっくりと変わっていった。

石造りの建物が木造に。

白い石畳が土の道に。

帝都の喧騒が遠ざかった。


ノアは何も感じなかった。

はずだった。


だが、ノアの足は止まらなかった。


五日目。

ノアはある街に着いた。

西方州の中央都市、ヴェルテン。

商人と旅人で賑わう交易の街だった。


市場が開かれていた。

果物、布、武器、香辛料。

声、声、声。


その奥に一角があった。

他の市場と、空気が違った。

檻が並んでいた。


奴隷市場。


ノアは足を止めた。

止めた理由をノアは説明できなかった。


檻の中に人がいた。

大人。

子供。

うずくまった老人。

誰もが目を伏せていた。

声はなかった。


ノアは歩いた。

檻の前を通り過ぎていく。


そこで目が合った。


少女だった。

十五歳前後。

淡い金髪。

緑の瞳。

粗末な布をまとっていた。

頬は痩せていた。

だが、目だけは生きていた。


少女はノアを見ていた。

まっすぐに。

逃げずに。


そして、口の動きだけでこう言った。


──だいじょうぶ。


声はなかった。

唇だけが動いた。


──だいじょうぶ。

──私、泣かないんだよ。


ノアは立ち止まったままだった。

動けなかった。

動けない理由をノアは説明できなかった。


ノアの心臓が跳ねた。


「異常だ」

ノアは呟いた。


檻の中の少女は微かに笑った。

悲しい笑顔だった。

なぜ、悲しいと、分かったのか。

ノアには、分からなかった。


ノアは宿に戻った。

粗末な寝台に座った。

窓の外で月が出ていた。


ノアは呟いた。


「明日、また、市場へ、行く」


論理的な理由は思いつかなかった。



翌朝。

ノアは市場へ向かった。


檻は同じ場所にあった。

少女も、同じ檻の中にいた。

昨日と同じ目でノアを見た。


商人が近づいてきた。

太った中年の男だった。


「兄ちゃん、買うかい」

「この娘は、安いよ」

「身体が弱くてね、長くは持たない」

「だから、安い」


ノアは何も言わなかった。


ノアの中で何かが動いた。

言葉にならない、何か。

ノアはそれを説明できなかった。

だが、それは確かにあった。


ノアは檻に近づいた。

少女がノアを見上げた。

緑の瞳がノアを覗き込んだ。


「名前は」

ノアが訊いた。


少女は微かに笑った。


「シエル」

少女は答えた。

「シエル・ローレン」


「シエル」

ノアは繰り返した。

名前を口にした。

それだけのことが、ノアの中で何かを動かした。


ノアは檻の鉄格子に手を伸ばした。

指先がシエルの頬に触れた。


──その、瞬間。


光が視界を満たした。


白い光ではなかった。

黒い光だった。

歪んだ光だった。


悲鳴が上がった。

途中で途切れた。


ノアの中で何かがはじけた。

頭の奥で声がした。


──妹を返してほしい。


誰の声か。

ノアには分からなかった。


光が収まった。


市場が消えていた。


檻。

商人。

奴隷。

建物。

値札。

鎖。

人を商品として並べていた場所だけが世界から抜き取られていた。


ただ、平らな土の地面が広がっていた。

風が吹いていた。

風の音だけがあった。


ノアの目の前にシエルが立っていた。

粗末な布をまとったまま。

檻は消えていた。


シエルはノアを見ていた。

緑の瞳が潤んでいた。


だが、シエルは笑った。


「だいじょうぶ」

シエルが言った。

「私、泣かないんだよ」


ノアの記憶の、一部が薄れた。

昨日、宿の窓から見た、月の形。

旅の途中で隣に座った、商人の顔。

細かな、しかし確かにあった、何かが抜け落ちていた。

何かを失った、という感覚だけが残った。

ノアはそれを説明できなかった。


ノアの心臓が跳ねた。


「異常だ」

ノアは呟いた。


だが、その異常さを嫌だとは、思わなかった。

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