第1話 目を覚ますと、少女が泣いていた
目を覚ますと、知らない少女が俺の前で泣いていた。
淡い金髪が朝の光を受けていた。
緑の瞳が涙で濡れていた。
その涙を見た瞬間、世界の輪郭がわずかに歪んだ。
「なんでかな」
少女が言った。
「あなたを見ると、泣きたくなるの」
俺は答えられなかった。
答えるための言葉を持っていなかった。
「私、シエル」
少女が涙を拭わないまま笑った。
「シエル・ローレン」
「私を、覚えてくれる?」
「ああ」
俺は答えた。
「今度こそ、忘れない」
なぜ「今度こそ」と言ったのか、俺自身分からなかった。
俺はこの少女を知らない。
それは確かだった。
それなのに、口が勝手に動いた。
少女の目からまた涙が落ちた。
透明な涙だった。
布の上に落ちたその一粒が淡く光った気がした。
これは俺の話だ。
正確に言えば、半年間の話だ。
俺の名前はノア・ヴェルニス。
十八歳。
魔術師の卵だった。
正確には、魔力ゼロで追放された卵だった。
俺の魔術が世界を書き換えた、らしい。
よく分からない。
ただ、目の前の少女が泣いていた。
俺を見て、泣いていた。
話を半年前に遡らせよう。
半年前。卒業試験の朝。
「魔力出力、ゼロ」
測定官の声が静かに響いた。
学院の塔の、白い試験室。
誰も驚かなかった。
俺の出力は五年間、ずっとゼロだった。
クラウス・カルディアン。
俺の特別教官。
二十四歳。
銀髪を後ろに撫でつけ、青い瞳が冷たく光っていた。
頭一つ高い長身が俺の前に立った。
「ノア」
クラウスが言った。
「お前は、ここに、要らない」
俺は頷いた。
何の波紋もなく。
俺の中には感情がなかった。
ないはずだった。
これは半年間の話だ。
俺が感情を持たなかった頃から、誰かに恋するまでの。
──では、その話を始めよう。
ノアは学院の門をくぐった。
振り返らなかった。
振り返る理由がなかった。
五年間。
ノアはそこにいた。
理論研究の主席として。
魔術評議会から推薦された、特別な学生として。
だが、魔力出力はゼロだった。
だから、追放された。
表向きはそれだけの理由だった。
「ノア」
背後から声がした。
クラウスが追ってきていた。
ノアは振り返った。
クラウスの青い瞳がノアを見ていた。
そこに何か、があった。
ノアはそれを説明できなかった。
「お前の論文は、評議会が、保管する」
クラウスが言った。
「『魔力なしで魔術を発動させる理論』」
「五年の成果だ」
「無駄には、しない」
「分かった」
ノアは答えた。
クラウスは何か言いかけて、やめた。
代わりにこう言った。
「最後に、一つだけ」
「お前は、もし、いつか、感情を、思い出したら」
「俺のところに、戻ってきてくれ」
ノアは頷かなかった。
頷く意味が分からなかった。
「感情を思い出す」という言葉の意味も、分からなかった。
だが、ノアは答えた。
「ああ」
それだけだった。
帝都エルディオン。
魔術の都。
朝の光が白い石畳を照らしていた。
人々が行き交っていた。
誰もノアに目を留めなかった。
ノアの背丈は平均、痩せ型。
黒髪は短く切られていた。
灰色の瞳が虚ろに前を見ていた。
整った顔立ちだったが表情はなかった。
ノアの足は街を抜け、街道に出た。
馬車が並んでいた。
御者がノアに声をかけた。
「兄ちゃん、どこまで行く」
ノアは口を開いた。
「行く先は、どこでも、良い」
──そう答えた、はずだった。
しかし、ノアの足は迷わず、西を向いていた。
理由をノアは説明できなかった。
ただ、その方向に何か、がある気がした。
「異常だ」
ノアは呟いた。
だが、その異常さを嫌だとは、思わなかった。




