大人の嗜みと執事
メアリのフルネームは「立花メアリ」です。両親とも日本人、生粋の日本人です。
今日は帰りが遅くなってしまった…メアリには連絡してあるけど、彼女はどうしてるだろ…?
執事とはいうものの、まだ「他人が家にいる」と言う感覚は離れられない…今日は届いた荷物を整理すると言ってた…箒木や雑巾の場所はわかるだろうか?考えるとキリがない…ボクは何気なく電車の窓を見た、田舎を走る電車は真っ暗、何一つ光はない…窓はスクリーンのように僕の姿を移しだす、メアリは言うだろう「何も心配はいりません」「全てやっておきました」ちゃぶ台の前で正座をし紅茶を飲む彼女の姿がスクリーンに映し出される…きれいな人だ、少し怖いけど…こんな人がもし…いや、やめよう、ボクとは到底釣り合いが取れない…
そう言えば今日のご飯はラタトームとか言ってた。
「今日の晩ごはんはラタトームですわ…」
帰るとご飯を作ってくれている…いったい何年ぶりだろうか…ラタトーム…何…?
こうしてボクはいつもの駅をおり、乏しい自転車の明かりをつけ帰っていく、周りは何もなく、謎の虫がグェッ…グェッ…と鳴いていたりダダダダ…と鳴いていたりする。目指すのは灯りのついた古民家…その古民家は夜空で迷子になった星が地上に降りたったような、温かくて安心させるかのような光だった…自転車を漕ぐたびにその光は近づき大きくなる…もうこの古民家は物ノ怪の巣ではない、人の住処だ…少し立て続けの悪い扉を開ける「ただいま…」
彼女は玄関までやってきて静かに迎えてくれる。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
「このラタトーム、おいしいね!」
「ラタトゥイユですわ。」
メアリはちゃぶ台の傍らで正座をし、いつでもお茶を淹れられるように待機をしている。
「そうそう、今日は荷物の整理をすると言ってたけど、できたかい?箒木や雑巾の場所とかわかった?」
メアリは残り少なくなったカップにお茶を注ぎこみ
「ええ、何も心配はいりません、全てやっておきました。」
なんだろな…この人、何一つ手を抜こうとしない。気持ちは持つのだろうか…
「それとご主人様、部屋の机が散らかっておりましたので整理をしました」
その言葉を聞いて、ボクは思わず固まった…あの机には…あんなものやこんなものが置いてあったはずだ…もしかして…ボクは、ヨロヨロと立ち上がり部屋の襖を開ける…部屋の中の雑然とした騒霊達がいない…そこにあるのは無機質の無…それとラベンダーのいい匂いが余計に不安にさせる…机の上は整理され、紙の資料は全てファイル5冊程度にまとめられている。一緒にアロマオイルが置かれていて、ラベンダーの香りはこれかもしれない。本棚は文芸、宗教、地質学、天文学、とジャンルに分けられ背表紙も均等にならべられる。あんなものやこんなものの形跡は見当たらない…メアリはおもむろに口を開く。
「必要な書類は全てファイルにジャンルごとにまとめてございます、後ほど確認して頂けたらと。それと明らかゴミと思うものは捨ててあります。それから…こちらですが…」
メアリは部屋の隅に置いてあるダンボール箱を開ける。
「必要かどうかわからないものです、ご主人様に確認をとってから捨てようと思っていたのですが…」
そのダンボール箱には、まさにそれ、あんなものやこんなもの…いわゆる健全な男なら誰しも興味があるであろうその、大人が好んで見るDVD!
ボクは愕然とした…メアリに全てをみられてしまった…思わずその場でしゃがみ込み手をつく…どうしよう…
恐る恐るメアリを見る、メアリは相変わらず笑顔でいる、果たしてこの笑顔は何を意味するのか…軽蔑、侮蔑、呆れ、変態、何を思っているのかさっぱり伺いしれない…
何か…言わないと…
「あの…その…メアリさん…」
「はい、ご主人様、メアリとお呼びください」
「どうかメアリ様、後生でございます。何卒ここは見なかったことに!」
ボクはどういうわけか手塚治虫の漫画でしか見たことがない謝りかたで両手を付き頭を下げる。
メアリは、身体に溜まった毒気を全て鼻から吐き出すかのように深いため息をついた。
別に謝らなくてもいいのに…
主人は続ける…
「これは…その…男としての大人の嗜みでございます、決して悪用などはいたしません、どうか…お許しを…」
メアリも、膝を付き視線を合わせる。
「ご主人様、わたくしも殿方の性分をある程度、承知しております。どうか…頭をお上げになってください。」
そう…それは仕方ないことよ…
「おお、メアリ様、ありがとうございます、このご恩は決して忘れません」
わたくしは忘れたいですわ…
メアリは主人の腕を持ち立ち上がるのを手伝う…主人をヨロヨロとちゃぶ台の前に座らせた。
ちゃぶ台の前に正座をする主人はまるで罠にかかった小鳥のようにビクビクと震え、時折聞こえないように独り言を言う。
「ご主人様、どうかお気になさらないでくださいまし、なんとも思っていませんから」
主人はおずおずと頭を上げ、消え入りそうな声で質問する。
「バカだと思ってない?」
「バカだとも思ってません」
主人は僅かに目を逸らす…
「変態だと思ってない?」
「変態だなんて…そんなことは思ってません」
「◯◯だと思っていない?」
「思ってません!!」
危うく◯◯と言わされそうになった…この人は悪意があるのか、天然なのか、天然なのだろうけど、言葉に罠を仕掛ける…
「さあ、お気を取り直してくださいまし、本当に何も思ってませんから」
主人は否定するように頭を振る。
「違うのです、メアリ、ボクは今、あんなものやこんなものを見ているという事実を客観視してしまい、それを恥ずかしく思っているのです、それに…メアリは優しくしてくれた…それも恥ずかしい…いっそのこと変態とか◯◯とか言って罵倒されるぐらいが気が楽だったかもしれない…」
この自責はしばらく続くのだろうか…
ご主人様がこんなに落ち込んでしまわれるとは…
見ないフリをしてそっと置いとけばよかったのかしら…
わたくしとしたら…まさかこんなにご主人様を追い込んでしまうとは…執事失格ですわ…
メアリは黙って静かに立ち上がり、土間に向かっていった。再び戻ってきた時には、トレーに紅茶のセット、茶葉の入った小瓶がのせられている…
「さあ…お茶を飲んで気持ちを落ち着かせください。」
メアリは手際よく、カップと小瓶を主人の前に並べる…
「今日のお茶はダージリンティーのセカンドフラッシュでございます。ヒマラヤ山脈の標高の高いダージリン地方で採れた茶葉でございます。霧深い山々に抱かれた天空の雫と申しましょうか、その香りは『シャンパン』とも言われ、このとくにセカンドフラッシュはマスカットのような風味が特徴ですわ。」
主人は目の前に置かれカップを手にとり、静かに香りを近づける、温かい、それでいてフルーティなマスカットの匂い、落ち着く匂いだ…
そうだ…メアリも良かれと思ってやってくれたのだ…こんなに落ち込んでいたら申しわけない…
そう考えると、メアリのさっきの紅茶の説明に気になることが出てきた…
「セカンドフラッシュ…?セカンドがあるなら、ファーストフラッシュやサードフラッシュはあるのかい?」
主人は顔を上げ、素直な疑問を投げかける…やはりこの人は疑問を解決するために追求を始める、この顔が一番素敵だ…
「はい、ファーストフラッシュはございます、しかしサードフラッシュはありません、三番目はただ単に『秋摘み』と言われます。」
「ファーストフラッシュ、セカンドフラッシュ、秋摘み、これらは味が違うの?それとサードはなぜ秋摘み?」
主人の頭の中で次々と質問は作成され的確に紡ぎ出される。メアリはやはりこれを好ましく思う。
「はい、ファーストフラッシュは春に収穫され、新しい若葉のさわやかさが特徴、セカンドフラッシュは夏に収穫されマスカットの風味が一番強くでますの。最後の秋摘み、これは秋に収穫されたもので、熟成された深いコクとまろやかさが特徴です。」
うんうん…主人は頷きながら紅茶に口を付ける、たしかにこれはシャンパンだ…温かい…マスカットの存在感が身体に染み渡る。
「秋摘みは、ダージリンにとって最後の仕上げとも言える完成した姿、だから、サードではなく秋摘みと言われますの。」
「驚いたな…ダージリンは三種類のお茶があるのと同じだね。このファースト、セカンド、秋摘みとあるのはこのダージリンだけなの?」
主人は感心しカップの中の琥珀色の紅茶に見入った。
「はい、この季節ごとに様相を変える茶葉はこのダージリンくらいですわ、季節ごとに姿を変え気持ちを鎮めるのはカードでいう『9隠者』のようです」
ボクはお茶を飲み干し一呼吸ついた。
「メアリありがとう、紅茶も整理も…」
「そんな…わたくしはただ…」
素直に感謝を述べる主人は、あのDVDの存在さえも忘れさせる…
「そうそう…メアリ、部屋の整理が終わったら、部屋にカギが掛かるようにしないとね…」
メアリは何のことを言っているのかよくわからなかった…カギ…?
「あら、わたくしのことを案じてくださるのですね、こう見えても、わたくしマーシャルアーツの心得もございますの、悪漢の一人や二人なら一瞬でねじ伏せてごらんになります。」
主人は気まずそうに顔を伏せながら言う…
「ああ…その…ボクがもし、殿方の性分をメアリに向けてしまうようなことがあれば…」
それは…ちょっと意外な言葉だった…この人は恐ろしいほど慎重で、あらゆることを想定して考えられるのだ…
「ご主人様?心配はいりません。その為の『大人の嗜み』なのでしょ?」
マーシャルアーツ以前に、言葉でもねじ伏せられてしまった…この人には到底かなわない…
よく周りを見てみると、今更になって居間の整理された後がよくわかる…箪笥の黒光り具合、窓ガラス戸の透明度、ツヤツヤ光る畳の網目、居間はヒマラヤ山脈の清らかな空気を違和感なく受け入れダージリンの巡る季節を肌で感じ取れる…清々しい気分だった。
「ご主人様、お茶を楽しんでおられるところ恐縮です、このアダルトビデオを速めに片付けてほしいのですが…」
メアリ「ラタトゥイユは夏野菜を炒めトマトで煮込んだ料理ですわ。美味しくするコツは少し野菜を大き目に切って炒め、野菜の甘さを引き出すこと。アレンジで鶏のササミやマグロの切り身などを入れると美味しいですわよ。」




