『風喰いの王』
『じじばばにゃんこと異世界奇譚』
第一部『レヴァナスタシア』
谷底の紫眼が、
一斉にこちらを向いた。
その瞬間。
全ての風が、
止まる。
風車も。
吊り布も。
揺れていた髪すら、
ぴたりと静止した。
完全な無音。
なのに。
谷の底からだけ。
ズ………………
ズズズズ………………
巨大な呼吸音が、
ゆっくり響いてくる。
ヴァイスの額を、
冷や汗が流れた。
「来る……」
次の瞬間だった。
ゴォォォォォォォッ!!!!
骨門の奥から、
暴風が噴き上がる。
岩壁が砕ける。
黒い霧が吹き荒れる。
そして。
“それ”は現れた。
巨大。
あまりにも巨大だった。
人型に近い。
だが。
全身が、
黒紫の骨甲殻で覆われている。
背中からは、
無数の腕。
胸部には、
巨大な紫眼。
その周囲を、
黒い風が渦巻いていた。
谷そのものが、
立ち上がったみたいだった。
ヴァイスが、
震える声を漏らす。
「風喰いの王……」
異形が咆哮した。
瞬間。
暴風が爆発する。
ゴォォォォォッ!!
村の家々が軋む。
岩が吹き飛ぶ。
村人達が悲鳴を上げた。
だが。
トシオだけが動かない。
吹き荒れる暴風の中。
巨大な岩みたいに立っていた。
異形の紫眼が、
ゆっくりトシオを見る。
次の瞬間。
黒腕が振り下ろされた。
轟音。
空気を裂く、
超重量の一撃。
だが。
トシオの拳が、
真正面から叩き返した。
ドゴォォォォォン!!!!
衝突。
衝撃波。
谷壁へ、
巨大な亀裂が走る。
異形の巨体が、
大きく後方へ滑った。
岩肌を削りながら、
崖壁へ激突する。
フィルニアが、
紅槍を構えながら笑う。
「ははっ!!
デカいだけじゃねぇな!!」
次の瞬間。
異形の胸部。
巨大紫眼が、
ギリリと開いた。
黒い風が、
そこへ収束していく。
圧縮。
凝縮。
空気そのものが、
悲鳴を上げていた。
タマの顔色が変わる。
「避けろ!!」
放たれる。
黒き暴風砲。
ゴォォォォォォォォッ!!!!
谷を丸ごと削り取るような、
超暴風。
だが。
トシオが前へ出る。
踏み込み。
大地が軋む。
そして。
拳を振り抜いた。
ドゴォォォォォォォンッ!!!!
拳圧。
それだけ。
暴風砲が、
真正面から割れた。
左右へ裂けた黒風が、
谷壁を吹き飛ばす。
岩盤崩落。
轟音。
空が震える。
フィルニアが、
完全に目を輝かせていた。
「やっぱバケモンだろアンタ!!」
だが。
その時だった。
ミーコが、
異形を見つめたまま呟く。
「……苦しんでる」
全員が止まる。
巨大紫眼から、
黒い液体が流れていた。
怒りじゃない。
苦痛だった。
まるで。
身体の中で、
別の何かと戦っているみたいに。
トシオが、
静かに目を細める。
「……まだ沈んどらんか」
その瞬間。
異形が絶叫した。
胸部が裂ける。
ゴギギギギ――
中から現れたのは。
巨大な黒核。
無数の眼。
牙。
蠢く触腕。
今まで見た寄生体より、
遥かに巨大だった。
谷全体が、
黒紫の光へ染まる。
ユキが、
震えながら呟く。
「……本体」
その時。
ミツコが、
静かに前へ出た。
暴風の中。
黒髪だけが、
ゆっくり揺れている。
「もう、
終わろうねぇ」
命紡ぎ。
柔らかな金色の光が、
谷全体へ広がる。
その瞬間。
暴れていた異形が止まった。
黒核が、
苦しそうに痙攣する。
明らかに。
命紡ぎの光を嫌がっている。
フィルニアが、
即座に飛び出した。
「ぶち抜く!!」
紅槍が燃える。
紅炎が渦を巻く。
跳躍。
一直線。
ドォォォォォン!!!
巨大黒核へ、
紅槍が突き刺さる。
黒紫の肉が爆ぜた。
だが。
止まらない。
触腕が、
フィルニアを飲み込もうとする。
その瞬間。
タマが飛ぶ。
「フィルニアァ!!」
双剣。
超高速連撃。
ギギギギギッ!!
触腕をまとめて切断。
さらに。
ミーコが死角へ潜り込む。
猫獣人特有の瞬発力。
銀閃。
黒核周囲の眼を、
一気に切り裂いた。
異形が絶叫する。
谷が揺れる。
黒風が暴走した。
その時だった。
トシオが、
ゆっくり拳を握る。
筋肉が軋む。
空気が重くなる。
異形の巨大紫眼が、
初めて恐怖したように揺れた。
「そこまでじゃ」
次の瞬間。
跳躍。
大地が軋む。
超重量級の肉体が、
真正面から空を裂く。
そして。
拳。
ゴッッッッッ――――――!!!!
直撃。
黒核へ、
巨大な亀裂が走る。
静止。
一瞬だけ。
世界から音が消えた。
そして。
ドォォォォォォォォォン!!!!!!
超爆発。
黒紫の光が、
夜空へ吹き上がる。
暴風が消える。
黒い侵食が、
光へ変わっていく。
巨大異形が、
ゆっくり膝をついた。
その身体から。
青白い粒子が舞い始める。
苦しみから、
解放されたみたいに。
止まっていた風車が、
ゆっくり回り始めた。
今度の風は、
優しかった。
異形は、
最後に一度だけ空を見上げる。
そして。
静かに崩れていく。
青い粒子となって。
夜空へ。
風へ。
還るみたいに。
ユキが、
小さく呟いた。
「……眠れたんだ」
その時だった。
砕けた骨門の奥。
遥か深い闇の中で。
ドクン――
巨大な脈動。
全員が止まる。
まだ終わっていない。
もっと深い場所で。
もっと巨大な“何か”が、
確かに目を覚まし始めていた。




