『谷底の祈り』
『じじばばにゃんこと異世界奇譚』
第一部『レヴァナスタシア』
朝だった。
だが。
ゼルハの空に、
朝日は差していなかった。
厚い雲。
灰色の空。
谷を吹き抜ける風だけが、
絶え間なく鳴いている。
昨夜から、
誰も外へ出ていない。
村全体が、
息を潜めていた。
宿の一室。
ユキは、
窓辺へ座っていた。
眠れていない。
白い耳が、
不安そうに揺れている。
ミーコが、
静かに隣へ座った。
「まだ聞こえる?」
ユキは、
小さく頷く。
「……下から」
昨日。
谷底で見た巨大な眼。
あれ以来。
ユキだけ、
“呼ばれている”。
言葉ではない。
感情でもない。
もっと曖昧な何か。
まるで。
谷そのものが、
こちらを見上げているみたいだった。
その時。
階下から、
香ばしい匂いが漂ってきた。
タマの腹が鳴る。
「……飯か」
緊張感の無い音だった。
フィルニアが、
布団の中から顔を出す。
「肉か?」
「朝からそこなの?」
ミーコが呆れる。
だが。
少しだけ空気が和らいだ。
⸻
食堂では。
ミツコが、
大鍋をかき混ぜていた。
湯気。
豆。
干し肉。
香草。
この土地では珍しい、
温かな汁料理だった。
ヴァイスが、
驚いた顔をしている。
「こんな状況で……
飯を作るのか」
ミツコは、
ふわりと笑う。
「怖い時ほど、
温かいもん食べなねぇ」
ヴァイスは、
少し黙った。
そして。
静かに席へ座る。
村人達も、
恐る恐る集まり始めていた。
昨夜、
皆が見たのだ。
谷底の“何か”を。
だが。
誰も口にしない。
口にすると、
本当に来てしまう気がするから。
その時。
トシオが、
木椀を持ちながら言った。
「この谷、
昔からこんなんか?」
ヴァイスの動きが止まる。
しばらく黙り。
やがて。
低い声で答えた。
「……昔は違った」
全員が見る。
ヴァイスは、
谷の外を見ながら続ける。
「昔は、
もっと風が綺麗だった」
「この谷は、
“風渡り”と呼ばれてた」
風が、
山から山へ歌を運ぶ。
そういう土地だった。
だが。
二十年前。
谷底で、
大規模な崩落が起きた。
それ以来。
風が変わった。
夜になると、
声が聞こえるようになった。
そして。
見た者が消える。
タマが眉を寄せる。
「消える?」
ヴァイスは頷く。
「谷を覗いた者が、
翌朝いなくなる」
「死体も残らん」
沈黙。
フィルニアが、
珍しく騒がない。
真面目な顔で、
汁を飲んでいた。
その時だった。
外から、
甲高い悲鳴が響く。
「だ、誰かぁ!!」
全員が立ち上がる。
⸻
村外れ。
巨大な風車塔の前。
一人の少年が、
腰を抜かしていた。
指差す先。
風車だった。
止まっている。
いや。
違う。
“逆回転”していた。
ギギギギ……
風に逆らって。
不自然に。
そして。
風車の羽根へ。
黒い文字みたいなものが、
浮かび上がっていた。
ユキが、
小さく震える。
「……昨日の声」
ミーコが、
目を細める。
文字じゃない。
あれは。
“爪痕”だ。
まるで。
巨大な何かが、
内側から引っ掻いたみたいな。
ヴァイスの顔色が変わる。
「……始まった」
次の瞬間。
ゴォォォォ……
谷全体を、
低い風鳴りが貫いた。
風車群が、
一斉に止まる。
村人達が悲鳴を上げる。
風が止まる事など、
この谷では有り得ない。
完全な静寂。
その中で。
コツ。
コツ。
音がした。
全員が止まる。
谷底からだ。
何かが。
“階段を上がって来ている”。
だが。
谷底に、
階段など存在しない。
それなのに。
音だけが近付いてくる。
コツ。
コツ。
コツ。
ユキが、
耳を塞いだ。
「やだ……」
フィルニアが、
槍へ手をかける。
だが。
抜かない。
昨夜とは違う。
本能が告げていた。
今は、
戦う相手じゃない。
その時だった。
村の老婆が、
震えながら呟く。
「風喰い様……」
ミツコが、
静かに老婆を見る。
老婆は、
怯えきっていた。
「昔、
谷底へ封じられたんだ……」
「怒りを……」
「飢えを……」
「祈りごと……」
言葉が崩れている。
正気じゃない。
だが。
その瞬間。
トシオが、
静かに谷を見る。
「封じた?」
ヴァイスが、
苦い顔で頷く。
「……初代村長達がな」
「谷底へ、
“何か”を落とした」
沈黙。
ミーコの瞳が細くなる。
「何を?」
ヴァイスは、
答えられなかった。
その時。
谷底から、
風が吹いた。
冷たい。
生臭い。
そして。
混ざっていた。
潮の匂いが。
トシオの表情が変わる。
初めてだった。
のんびりした空気が消える。
「……海?」
ここは山岳地帯だ。
海など存在しない。
なのに。
確かに。
潮の香りがした。
ユキが、
震える声で言う。
「下……
海がある……」
全員が止まる。
ヴァイスが、
青ざめた。
「馬鹿な……」
だが。
風は、
確かに潮を運んでくる。
ミーコが、
静かに谷底を見つめる。
「繋がってる」
「何が?」
タマが聞く。
ミーコは、
ゆっくり答えた。
「黒穴」
静寂。
ルメリア海底神殿。
黒い侵食。
あの巨大な紫眼。
全部。
繋がっている。
世界各地で、
別々に起きてるんじゃない。
地下で。
もっと深い場所で。
“同じもの”が動いている。
その時だった。
谷底の闇の中で。
ふっ――
全ての風が止まった。
風車も。
吊り布も。
揺れていた髪すら動かない。
静止。
完全な無音。
なのに。
谷の奥からだけ。
ズ…………
ズズズズ…………
巨大な呼吸音だけが、
ゆっくり近付いてくる。
ヴァイスが、
剣を抜く。
村人達が後退る。
だが。
トシオは、
動かなかった。
じっと。
谷底を見ている。
その隣へ、
ミツコが並ぶ。
二人とも、
静かだった。
その時。
谷底の闇の中で。
ゆっくり。
巨大な“門”が開いた。
石で出来た門。
いや。
違う。
骨だった。
巨大な骨が、
門の形をしていた。
そして。
その奥。
暗闇の中で。
無数の紫眼が、
ゆっくり瞬く。
ユキが、
息を止める。
ミーコも、
初めて表情を崩した。
タマが、
低く呟く。
「……なんだよ、
あれ」
フィルニアは、
無言だった。
ただ。
紅い瞳で、
真っ直ぐ谷底を見ている。
その時だった。
風が吹く。
今度の風は。
はっきり声になっていた。
『かえせ』
低い声。
谷全体から響く。
『かえせ』
『かえせ』
『かえせ』
村人達が、
悲鳴を上げる。
ヴァイスの顔色が消える。
だが。
トシオだけが、
静かに呟いた。
「……誰をじゃ」
その瞬間。
谷底の紫眼が、
一斉にこちらを向いた。




