『沈む灯台』
『じじばばにゃんこと異世界奇譚』
第一部『レヴァナスタシア』
ルメリアへ来てから、
七日目。
その日は、
朝から雨だった。
海港都市を包む空は暗く、
灰色の雲が低い。
港へ並ぶ帆船も、
ほとんど出航していなかった。
石畳を叩く雨音。
軒先へ吊るされた風鈴が、
静かに揺れている。
「暇じゃのぉ」
宿の窓際で、
トシオがぼんやり外を眺めていた。
湯気の立つ茶。
焼き魚。
完全にくつろいでいる。
タマが呆れる。
「アンタ、
危機感とかないの?」
「雨の日は休むもんじゃ」
「漁師理論やめろ」
その横では。
ミツコが、
濡れた服を乾かしていた。
「今日は海も荒れとるみたいやねぇ」
ユキが、
窓の外を見上げる。
「……暗い」
確かに。
街の空気が、
妙だった。
祭りで賑わっていた数日前とは違う。
人通りも少ない。
港の鐘も鳴っていない。
その時だった。
宿の階段を、
誰かが駆け上がってくる。
バンッ!!
扉が開いた。
「いたぁぁぁ!!」
フィルニアだった。
びしょ濡れだった。
白銀髪から、
雨水が滴っている。
「トシオ!!
港来い!!」
「なんじゃ藪から棒に」
フィルニアは、
珍しく笑っていなかった。
赤い瞳が、
真剣だった。
「漁船が戻ってこねぇ」
空気が変わる。
ミーコが、
静かに顔を上げた。
「遭難?」
フィルニアが頷く。
「三隻。
昨日の夜から消息不明」
⸻
港は、
重い空気に包まれていた。
雨。
灰色の海。
強風。
普段騒がしい港町が、
妙に静かだった。
岸壁では、
海人族達が険しい顔で海を見ている。
「まだ見つからねぇのか」
「沖が荒れすぎて船が出せねぇ……」
フィルニアが、
一人の老人を指差す。
「船団長のギード」
巨大な海人族だった。
青灰色の肌。
片目の古傷。
片腕が義手。
歴戦の船乗りという空気。
ギードは、
トシオ達を見る。
そして。
低く言った。
「……あんたらが、
帝都の旅人か」
トシオが頷く。
ギードは、
海を睨んだまま続けた。
「消えた船は、
ただの漁船じゃねぇ」
「灯台守運搬船だ」
タマが眉をひそめる。
「灯台?」
フィルニアが説明する。
「ルメリア沖には、
古い灯台島があるんだ」
「昔から海流の目印になってる」
だが。
ギードの顔は暗かった。
「昨日の夜、
灯りが消えた」
沈黙。
海の街で。
灯台の灯が消える。
それがどれほど危険か、
漁師達の顔を見れば分かった。
「見に行った船も戻らねぇ」
雨が強くなる。
波が荒れる。
その時だった。
トシオが、
ぽつりと呟く。
「行ってみるかの」
全員が見る。
タマが即ツッコむ。
「軽っ!?」
ギードは真顔だった。
「死ぬかもしれんぞ」
トシオは、
普通に笑う。
「様子見るだけじゃ」
その瞬間。
ギードが、
少しだけ目を細めた。
漁師の目だった。
海へ出る男かどうかを見る目。
数秒後。
ギードは、
短く頷く。
「……船を出す」
⸻
荒海だった。
黒い波。
叩き付ける雨。
小型船が激しく揺れる。
「うぉぉぉぉぉ!!」
フィルニアが楽しそうだった。
「ジェットコースターかお前!?」
タマが絶叫する。
ミツコは、
普通に座っていた。
「すごい揺れるねぇ」
ユキは、
若干青ざめている。
ミーコは、
海をじっと見ていた。
「……変」
トシオが、
静かに海を見る。
風向き。
潮流。
波。
そして。
微かに混じる、
黒い気配。
「海が泣いとる」
その言葉へ。
ギードの顔が変わった。
船乗りだから分かった。
今の一言は。
本当に海を知る者の言葉だった。
⸻
数十分後。
霧の向こうに、
島が見えた。
断崖。
黒い岩壁。
そして。
巨大灯台。
だが。
「灯りがねぇ……」
フィルニアが呟く。
不気味だった。
本来なら、
海を照らしているはずの光が無い。
しかも。
島全体が、
異様に静かだった。
波の音しかしない。
船が接岸する。
全員が島へ上陸した。
雨風が強い。
石階段を登る。
その途中。
タマが、
足を止めた。
「……これ」
地面。
黒い粘液。
まるで。
あの異形達の瘴気みたいだった。
ミーコが、
静かに耳を伏せる。
「来てる」
その瞬間だった。
ゴォォォォ……
低い唸り声。
灯台内部から響く。
フィルニアが、
紅槍を握る。
「いるな」
次の瞬間。
ズルリ――
暗闇から、
巨大な“何か”が現れた。
海獣だった。
だが。
普通じゃない。
目が多すぎる。
肉が歪んでいる。
身体中から、
黒い液体が滴っていた。
ギードが絶句する。
「深海魔獣……!?」
だが。
明らかに異常だった。
黒穴の瘴気に侵されている。
異形化していた。
海獣が咆哮する。
灯台が揺れた。
フィルニアが飛ぶ。
「ぶっ飛ばす!!」
紅槍が閃く。
だが。
海獣の肉が、
ぐにゃりと歪んだ。
槍を吸い込む。
「うわっ!?」
タマが叫ぶ。
「普通の相手じゃねぇ!!」
次の瞬間。
黒い触腕が、
床を這った。
ミツコへ向かう。
だが。
トシオが、
前へ出る。
ゴッ――
踏み込みだけで、
床石が砕ける。
海獣が怯んだ。
巨大な紫眼が、
ぶるりと震える。
トシオは、
静かに海獣を見る。
怒ってはいなかった。
悲しそうだった。
「お前さんも、
苦しいんじゃな」
その瞬間。
海獣が、
苦しそうに吠えた。
ギードが息を呑む。
まるで。
言葉へ反応したみたいだった。
だが。
次の瞬間。
海獣の身体から、
黒い瘴気が噴き出す。
異形化が進む。
暴走する。
トシオの目が細まった。
「……あぁ、
食われとるのか」
海獣そのものじゃない。
内部に、
“何か”がいる。
黒穴と同じ。
寄生。
侵食。
その時だった。
海獣の胸部が裂ける。
中から。
黒い塊が飛び出した。
眼だらけの寄生異形。
ギードが青ざめる。
「なんだありゃ……」
だが。
トシオは、
静かに拳を握った。
「悪さはいかん」
次の瞬間。
ドゴォォォォォン!!
拳圧だけで、
寄生異形が吹き飛ぶ。
灯台上階へ激突。
壁が砕ける。
フィルニアが、
目を輝かせる。
「やっぱそれ反則だろ!!」
だが。
終わらなかった。
黒い異形が、
再生する。
無数の眼が開く。
海獣が苦しそうに暴れる。
ミツコが、
静かに前へ出た。
柔らかな光。
命紡ぎ。
優しい光が、
海獣を包む。
その瞬間。
暴れていた海獣が、
ぴたりと止まった。
「……え?」
タマが固まる。
海獣の眼から。
涙みたいに、
黒い液体が落ちた。
ミツコは、
静かに頭を撫でる。
「怖かったねぇ」
その瞬間。
寄生異形が絶叫した。
嫌がっている。
命紡ぎの光を。
トシオが踏み込む。
今度は。
本気だった。
「離れんしゃい」
ゴッッッ――――!!!
拳。
ただそれだけ。
だが。
灯台内部の空間が、
爆発した。
寄生異形が、
完全に吹き飛ぶ。
黒い肉片が、
光になって消えていく。
静寂。
雨音だけが残る。
そして。
巨大海獣が、
ゆっくり頭を下げた。
ギードが震える。
「嘘だろ……」
海獣は、
海へ戻っていく。
最後に。
一度だけ。
振り返った。
まるで礼みたいだった。
⸻
その後。
トシオ達は、
灯台最上階へ登った。
消えていた灯火を、
再び点ける。
ゴォォォ……
巨大な灯りが、
海を照らした。
暗い海へ、
光が伸びていく。
その時だった。
フィルニアが、
窓から叫ぶ。
「おい!!
あれ!!」
全員が海を見る。
荒波の向こう。
岩礁地帯。
そこに。
半壊した漁船が見えた。
「遭難船だ!!」
ギードの顔色が変わる。
さらに。
もう一隻。
そしてもう一隻。
三隻全部だった。
岩場へ引っ掛かるように、
辛うじて沈まず残っている。
⸻
島裏の入り江。
転覆しかけた漁船。
砕けた帆。
折れたマスト。
そして。
岩陰に。
数人の船員達がうずくまっていた。
「いた!!」
フィルニアが叫ぶ。
船員達は、
全員生きていた。
だが。
様子がおかしい。
顔色が真っ青だった。
目の焦点も合っていない。
一人の船員が、
震えながら呟く。
「……海が」
「海の底から、
声がした……」
ミーコが、
静かに耳を伏せる。
やはり。
船員は、
怯えたまま続けた。
「灯りを消せって……」
「眠れって……」
「海へ来いって……」
タマの顔が険しくなる。
幻覚。
精神汚染。
黒穴由来の侵食だった。
ギードが、
船員達の肩を掴む。
「しっかりしろ!!」
その時。
別の船員が、
ガタガタ震えながら言った。
「化け物がいた……」
「灯台の下に……」
「黒い眼が、
ずっと見てた……」
ユキが、
小さくミツコの袖を掴く。
「……まだいる?」
ミツコは、
優しく頭を撫でた。
「もう大丈夫よぉ」
その声だけで。
震えていた船員達が、
少しずつ落ち着いていく。
その時だった。
遠く。
ルメリア港の方角から。
ゴォォォン……
鐘の音が響いた。
ギードが、
静かに海を見る。
「帰還確認の鐘だ」
灯台復活。
遭難船発見。
港へ、
その報せが届いたのだ。
雨は、
少し弱くなっていた。
黒雲の隙間から、
わずかに夕陽が差し込む。
海面が赤く染まる。
フィルニアが、
ぐっと伸びをした。
「終わったぁぁ!!」
「お前ほんと切り替え早いな……」
タマが呆れる。
その時。
トシオが、
静かに海を見ていた。
遥か沖。
暗い水平線。
ほんの一瞬だけ。
黒い揺らぎが、
海底へ沈むのが見えた。
まだ終わっていない。
黒穴の侵食は。
確実に、
海の底へ広がっている。
その時。
フィルニアが、
真顔で言った。
「腹減った」
空気が壊れた。
タマが叫ぶ。
「今その流れだった!?」
ギードが、
思わず吹き出す。
「ははっ……
変な連中だな本当に」
だが。
その笑い声は。
数日ぶりに、
肩の力が抜けた笑いだった。




