『海底の門』
『じじばばにゃんこと異世界奇譚』
第一部『レヴァナスタシア』
白鯨事件から、
三日後。
ルメリアの海は、
以前より静かになっていた。
静かすぎた。
波が弱い。
魚影も少ない。
漁師達は、
皆どこか落ち着かない顔をしている。
市場の活気も、
少し陰っていた。
「最近、
全然魚取れねぇ」
「海流がおかしいんだよ」
「深海側の潮が止まってる」
不安は、
港全体へ広がり始めていた。
その頃。
トシオ達は、
港食堂で朝飯を食べていた。
フィルニアだけ、
五杯目だった。
「うまぁぁ!!」
「食いすぎだろ」
タマが呆れる。
ミツコが、
苦笑しながら魚を焼いていた。
その時だった。
バンッ!!
食堂扉が勢いよく開く。
ネレイスだった。
海防隊長。
青銀髪を乱しながら、
真っ直ぐこちらへ来る。
その顔は、
完全に険しい。
「来てくれ」
空気が変わる。
⸻
海防隊本部。
机いっぱいに、
海図が広げられていた。
ネレイスは、
その中央を指差す。
南方深海域。
海底神殿より、
さらに沖。
「昨夜、
海底地盤が崩落した」
沈黙。
「巨大空洞が見つかった」
ミーコが、
静かに地図を見る。
「どれくらい?」
ネレイスの声が低くなる。
「測定不能」
その瞬間。
全員の空気が変わった。
ネレイスは、
さらに続ける。
「しかも」
「海水が、
そこへ吸い込まれてる」
ユキが、
小さく呟く。
「……穴」
タマの顔が険しくなる。
黒穴。
今度は。
海底そのもの。
⸻
夕方。
ルメリア港。
そこには、
巨大な潜航艦が停泊していた。
漆黒の船体。
分厚い魔導装甲。
青白い魔石光。
完全に軍用艦だった。
フィルニアが、
目を輝かせる。
「デカッ!!」
「お前絶対こういうの好きだよな」
「当たり前だろ!!」
ネレイスが、
静かに艦を見上げる。
「深海探査艦
《ネプトラ》」
「本来は国家秘匿艦だ」
「だが、
もう隠してる場合じゃない」
彼女は、
真っ直ぐ海を見る。
「深海で何かが起きてる」
⸻
潜航開始。
船体が静かに沈む。
窓の外。
光が消えていく。
深海。
冷たい闇。
魚すらいない。
静かすぎた。
ユキが、
少しだけミツコへ寄る。
ミツコは、
優しく頭を撫でた。
「怖いねぇ」
その時だった。
ゴゴゴ……
艦が揺れる。
警報音。
《前方異常海流》
《巨大空洞接近》
窓の外。
海底が割れていた。
巨大裂け目。
その奥は。
完全な闇。
だが。
もっと異常なのは。
海そのものが、
吸い込まれている事だった。
深海なのに。
巨大滝みたいに。
海が落ち続けている。
フィルニアが、
目を見開く。
「なんだよこれ……」
その時。
ミーコの耳が、
ぴくりと動いた。
聞こえる。
声。
『……タスケテ……』
まただ。
世界のどこかが、
泣いている。
その瞬間だった。
裂け目奥で。
巨大な眼が開いた。
ドォン……
潜航艦全体が震える。
ネレイスの顔が強張る。
「海底封印……」
「実在したのか……」
眼だった。
海そのものみたいな巨大な瞳。
その周囲には。
無数の黒穴。
ゆっくり。
眼が動く。
全員を見る。
そして。
トシオで止まった。
静寂。
巨大な眼が、
わずかに揺れる。
まるで。
怯えたみたいに。
フィルニアが、
ぽつりと呟く。
「またトシオ怖がられてる……」
その時だった。
裂け目全体が、
脈打った。
ズズズズズ……
海流暴走。
警報音が鳴り響く。
《浸食反応急上昇!!》
《黒霧発生!!》
裂け目奥から。
巨大な黒腕が伸びた。
異形。
今までより遥かに巨大。
深海そのものが、
形になったみたいだった。
ネレイスが叫ぶ。
「浮上急げ!!」
だが。
遅い。
黒腕が、
潜航艦へ迫る。
その瞬間。
トシオが立ち上がった。
「トシオ!?」
トシオは、
普通に出口へ向かう。
ネレイスが目を剥く。
「待て!!
外は深海だぞ!?」
トシオは、
ぽりぽり頭を掻いた。
「海じゃろ?」
「いや海だけど!!」
だが。
次の瞬間。
本当に外へ出た。
沈黙。
全員固まる。
超深海。
普通なら、
一瞬で潰れる水圧。
だが。
トシオは普通に立っていた。
フィルニアが、
頭を抱える。
「もう驚くの疲れた!!」
その時。
巨大黒腕が、
トシオへ叩き落とされる。
深海震動。
海流暴走。
だが。
トシオは、
静かに拳を握った。
ミシ……
海水そのものが軋む。
そして。
踏み込む。
ドゴォォォォォォォォォン!!!!
深海が割れた。
本当に。
海そのものへ、
巨大亀裂が走る。
黒腕が吹き飛ぶ。
裂け目全体が震える。
潜航艦内部で、
全員が絶句していた。
ネレイスですら、
言葉を失っている。
その時。
裂け目奥の巨大眼が、
再び揺れる。
トシオは、
静かにそれを見る。
怒ってはいない。
だが。
今までより、
少しだけ真剣だった。
「お前さん」
低い声。
深海全体が震える。
「何を閉じ込めとる」
その瞬間。
巨大眼から。
黒い涙みたいなものが流れ落ちた。
ミーコが、
息を呑む。
違う。
封印されていたんじゃない。
守っていた。
ずっと。
この“下”にいる何かを。
その時だった。
裂け目のさらに奥。
今まで見えていた闇より、
もっと深い場所で。
巨大な影が動いた。
全員の背筋が凍る。
大きい。
とか。
そんな次元じゃない。
深海そのものが、
目を覚ますみたいだった。
そして。
頭の中へ。
直接声が響く。
『……見ツケタ』
静寂。
ユキが、
小さく震える。
ネレイスが膝をつく。
フィルニアの顔色も変わっていた。
その声には。
“知性”があった。
今までの異形とは、
まるで違う。
そして。
そいつは。
確実に。
トシオを見ていた。




