『白霧の海』
『じじばばにゃんこと異世界奇譚』
第一部『レヴァナスタシア』
ルメリアの朝は、
妙に静かだった。
波音が小さい。
海鳥も少ない。
港全体を、
白い霧が包んでいる。
漁師達が、
不安そうに海を見ていた。
「こんな霧、
久しぶりだな……」
「嫌な感じする」
市場の空気まで重い。
フィルニアは、
焼き魚を齧りながら唸っていた。
「じめじめする」
「お前は食うのやめろ」
タマが呆れる。
「朝から三本目だぞ」
「海の街だから魚食うんだろ!!」
「理屈雑すぎる!!」
その時だった。
ゴォォォォ……
低い汽笛が響いた。
港中が、
一斉に海を見る。
白霧の奥。
巨大な影が、
ゆっくり現れた。
船だった。
だが。
異様だった。
帆は裂け。
船体は黒ずみ。
しかも。
波を立てていない。
まるで。
海へ浮いているだけみたいだった。
周囲がざわつく。
「漂流船……?」
「なんだあれ……」
船は。
ゆっくり。
本当にゆっくり。
港へ近付いてくる。
そして。
静かに止まった。
完全な静寂。
その時。
ギギィ……
船の扉が開く。
中から、
一人の男が現れた。
灰色の外套。
銀髪。
顔色は真っ白。
頬は痩け。
目だけが、
妙に虚ろだった。
男は、
ふらつきながら港へ降り立つ。
そして。
ぽつりと呟いた。
「……腹が減った」
沈黙。
フィルニアが、
焼き魚持ったまま固まる。
タマも、
変な顔をした。
ミツコが、
すぐ駆け寄る。
「大丈夫ぅ!?」
男の身体は、
異常なほど冷たかった。
まるで。
長い間、
海を漂っていたみたいに。
その時。
港奥から、
ネレイスが現れる。
海防隊長。
青銀髪の海人族女性だ。
彼女は、
漂流船を見た瞬間、
顔色を変えた。
「……白鯨号」
空気が止まる。
周囲の海人族達が、
ざわついた。
「白鯨号!?」
「三年前に沈んだ船だぞ!?」
タマが、
小声で聞く。
「有名なのか?」
ネレイスは、
険しい顔で頷いた。
「ルメリア最大級の交易船だった」
「嵐で消えた」
「乗員は全滅したと聞いていた」
沈黙。
その時。
トシオが、
静かに漂流船を見ていた。
「帰ってきたんじゃの」
⸻
男は、
港診療所へ運ばれた。
暖炉。
薬草。
静かな部屋。
ミツコは、
鍋を火へ掛けている。
魚介。
香草。
身体を温める匂い。
フィルニアが、
鍋を覗き込む。
「食える?」
「お前のじゃない」
タマが即ツッコむ。
だが。
フィルニアは、
すでに匙持っていた。
「早い!!」
その時。
ベッドの男が、
突然目を開いた。
ガバッ!!
全員が振り返る。
男は、
荒い息を吐いていた。
その目が。
真っ直ぐ、
トシオを見る。
そして。
震える声で言った。
「……来る」
空気が変わる。
男は、
本気で怯えていた。
「白い海が来る」
ネレイスの顔が険しくなる。
「何を見た?」
男の唇が震える。
「海が……死んだ」
沈黙。
「魚が浮いた」
「波が消えた」
「霧の中で、
みんな笑いながら海へ落ちた」
フィルニアの表情が消える。
男は、
さらに震えながら続ける。
「最後に見た」
「海の底で、
目が開いた」
ユキが、
小さく身を縮める。
「……怖い」
その時だった。
男が、
突然トシオの腕を掴む。
「お前だけだ」
「“あれ”がお前を怖がってた」
静寂。
タマが、
遠い目になる。
「またそのパターンか……」
だが。
男は本気だった。
「霧の奥で」
「“あれ”がお前を見て逃げた」
その瞬間。
診療所の窓が、
バンッ!!と開く。
白霧が、
一気に流れ込んできた。
ユキの耳が揺れる。
「……来た」
⸻
白霧が。
港全体を包み始めていた。
視界が悪い。
音まで吸われる。
人々が、
不安そうに空を見る。
その時。
ゴォォォォ……
低い音が響いた。
船ではない。
もっと巨大。
白霧の奥。
ゆっくり。
巨大な影が動いていた。
ネレイスが、
顔を強張らせる。
「なんだ……あれ」
次の瞬間。
霧が裂けた。
現れたのは。
巨大な白い鯨。
だが。
普通じゃない。
大きすぎる。
そして。
目が無い。
代わりに。
全身へ、
黒い裂け目が無数に走っている。
港中が悲鳴を上げた。
「化け物だぁぁ!!」
白鯨は、
静かに近付いてくる。
暴れてはいない。
だが。
近付くだけで。
海が白く濁っていく。
魚が浮き。
波が止まる。
ミーコの尻尾が、
ぴたりと止まった。
「……海が飲まれてる」
その時。
白鯨の裂け目全部が、
一斉に開いた。
中には。
無数の眼。
ゾワッ――
港中へ、
悪寒が走る。
フィルニアが、
紅槍を握る。
「気持ち悪ぃ!!」
海防隊も、
武器を構える。
だが。
その瞬間だった。
白鯨の無数の眼が。
一斉に。
トシオを見た。
静寂。
そして。
巨大な白鯨が、
ほんの少し後退する。
周囲が固まる。
タマが、
顔を覆った。
「また怖がられてる……」
トシオは、
静かに白鯨を見る。
怒ってはいない。
ただ。
少しだけ、
悲しそうだった。
「しんどかったのぉ」
その瞬間。
白鯨全体が、
びくりと震えた。
フィルニアが、
目を見開く。
「通じてんのか!?」
白鯨の身体から、
黒い瘴気が溢れ始める。
絶叫みたいな音。
海が揺れる。
白鯨は。
黒穴の侵食に、
耐え続けていた。
苦しみながら。
ずっと。
トシオが、
静かに拳を握る。
ミシ……
空間が軋む。
フィルニアが、
小さく呟く。
「海壊れそう」
タマも頷いた。
「絶対壊れる」
その瞬間。
トシオが踏み込む。
ドゴォォォォォォォォォンッ!!!!
拳圧だけで。
白鯨を覆っていた瘴気が、
一気に吹き飛ぶ。
白霧が裂ける。
空へ光が戻った。
そして。
白鯨の身体が、
少しずつ透け始める。
港中が、
静まり返った。
白鯨は、
最後に。
静かに。
トシオへ頭を下げる。
礼をするみたいに。
そして。
光になって、
海へ消えていった。
静寂。
波音だけが戻る。
ネレイスが、
呆然と呟く。
「……海神伝承」
「本当にいたのか」
その時。
漂流船の男が、
震える声で言った。
「違う……」
全員が見る。
男は、
真っ青な顔で海を見ていた。
「あれは逃げてた」
空気が凍る。
遥か沖合。
白霧のさらに向こう。
ほんの一瞬だけ。
巨大な黒い影が、
海の底を横切った。
今までの異形とは、
比べ物にならない。
もっと深い。
もっと古い。
何かだった。
ミーコの耳が、
ゆっくり伏せられる。
世界の奥で。
確実に。
“何か”が目を覚まし始めていた。




