『黒潮の海』
『じじばばにゃんこと異世界奇譚』
第一部『レヴァナスタシア』
夜。
港町ルーガストは、
昼間の喧騒が嘘みたいに静まり返っていた。
聞こえるのは、
波の音だけ。
だが。
海だけは違った。
沖合。
黒い霧が、
ゆっくり海面を覆っている。
まるで。
海そのものが腐っていくみたいに。
港の見張り台から、
鐘が激しく鳴り響いた。
「黒潮だぁぁぁ!!」
「船を下げろ!!」
「港閉鎖急げ!!」
漁師達が叫ぶ。
人々が走る。
昼間とは別の、
切羽詰まった空気。
宿の窓から海を見ていたミーコは、
小さく耳を伏せた。
「……嫌な感じ」
水色の髪が、
夜風に揺れる。
タマが剣へ手を掛けた。
「黒穴の気配に近いな」
ユキも、
不安そうに海を見ている。
「海が泣いてるみたい……」
その時。
ギチ……
ギチギチ……
沖合から、
奇妙な音が響いた。
全員の空気が変わる。
「来るぞ」
トシオが静かに呟く。
◇◇◇
港では既に、
武装した漁師達が集まっていた。
銛。
斧。
古びた剣。
軍ではない。
ただ、
町を守るための武器。
だが皆、
顔が青い。
理由は簡単だった。
海の霧の奥から、
巨大な影が見えていたからだ。
船。
いや。
“元”船だった。
船体は腐り、
黒い瘴気に覆われている。
帆は裂け。
木材は脈打つみたいに蠢いていた。
そして。
甲板に立つ影。
異形だった。
人の形をしている。
だが。
顔が無い。
腕が歪んでいる。
黒い泥みたいな肉体が、
ぎちぎちと揺れていた。
「……なんだありゃ」
フィルニアですら、
表情を険しくする。
漁師の一人が震えながら呟く。
「幽鬼船だ……」
「昔から伝承だけはあった……」
「黒潮に呑まれた船乗りが、
海で化けるって……」
その時。
異形達が、
ゆっくり港へ顔を向けた。
ぞわり。
空気が冷える。
次の瞬間。
ギャァァァァァァ!!
異形達が一斉に叫んだ。
「来るぞ!!」
タマが叫ぶ。
異形達が、
船から飛び降りる。
海面を走ってくる。
人ではない動き。
腐った肉片を撒き散らしながら、
一直線に港へ迫っていた。
漁師達が恐怖で後退る。
だが。
トシオが前へ出た。
「じーちゃん!」
「トシオさん!」
ミツコの声。
トシオは、
静かに海を見る。
その目は。
昼間の穏やかな漁師ではなかった。
海の鬼。
その目だった。
◇◇◇
ズン……
トシオが、
一歩前へ出る。
その瞬間。
空気が変わった。
漁師達が息を呑む。
異形達ですら、
一瞬動きを止めた。
トシオは、
静かに肩を回す。
ゴキッ。
骨が鳴る。
「海汚しおって」
低い声だった。
次の瞬間。
ドゴォォォォン!!
トシオが地面を蹴る。
石畳が砕ける。
一瞬で異形の群れへ突っ込む。
「はっや!?」
フィルニアが叫ぶ。
トシオの拳が、
先頭の異形へ叩き込まれた。
グシャァァ!!
異形の上半身が消し飛ぶ。
黒い泥が飛び散った。
だが。
トシオは止まらない。
次。
また次。
拳。
蹴り。
投げ。
異形達が次々吹き飛ぶ。
完全に怪物だった。
漁師達が呆然とする。
「な、なんだあの兄ちゃん……」
「いや兄ちゃんじゃねぇだろ……」
その時。
巨大な異形が、
海から現れた。
他の倍以上ある。
腐った船員達が、
何人も絡み合ったみたいな姿。
ギチギチと音を立てながら、
巨大腕を振り上げる。
「危ねぇ!!」
漁師が叫ぶ。
だが。
トシオは避けなかった。
ズドォォォン!!
巨大腕を、
正面から受け止める。
港全体が揺れた。
漁師達が凍り付く。
トシオは、
異形を見上げながら眉をしかめた。
「重いのぉ」
ミシッ。
異形の腕が軋む。
次の瞬間。
ブチィ!!
素手で引き千切った。
「は?」
フィルニアが真顔になる。
トシオはそのまま、
巨大異形を一本背負いみたいに持ち上げる。
そして。
海へぶん投げた。
ドゴォォォォォン!!
黒い海面が爆発する。
港が静まり返った。
◇◇◇
その頃。
ミツコは、
負傷した漁師達の手当てをしていた。
「動かないでねぇ」
淡い光。
ミツコの掌から、
優しい温もりが広がる。
傷が塞がっていく。
漁師が目を見開いた。
「い、痛くねぇ……」
「無理したらだめよぉ?」
ミツコが笑う。
その笑顔だけで、
怯えていた子供達が少し落ち着いていた。
その時だった。
海から、
嫌な気配が膨れ上がる。
ミーコの耳が動いた。
「……まだいる」
黒い海。
その奥。
巨大な“何か”が動いていた。
ゴボ……
ゴボゴボ……
海面が盛り上がる。
そして。
現れた。
巨大な顔。
船だった。
いや。
船と異形が融合していた。
無数の顔。
無数の腕。
船体そのものが、
肉みたいに脈打っている。
港中が絶句した。
「あ……」
「なんだよあれ……」
絶望が広がる。
だが。
トシオだけは、
静かだった。
「でかい魚みたいなもんじゃ」
「魚じゃねぇよ!?」
タマが全力で叫ぶ。
その瞬間。
巨大異形船が口を開く。
黒い瘴気砲。
ミーコの顔色が変わる。
「まず──」
次の瞬間。
トシオが、
海へ飛び出した。
ドゴォォォン!!
海面が爆発する。
一瞬で、
異形船の甲板へ着地。
バギィッ!!
腐った船板が、
重みに耐えきれず砕け散る。
異形達が一斉に襲い掛かる。
だが。
トシオの気迫だけで、
動きが止まった。
「……静かにせぇ」
低い声。
その瞬間。
異形達が吹き飛ぶ。
気迫だけだった。
トシオは、
巨大異形船を見上げた。
そして。
静かに拳を握る。
ミシッ。
空気が軋む。
次の瞬間。
ドゴォォォォォォォォン!!
拳が船体へ叩き込まれた。
海が揺れる。
港が震える。
巨大異形船の中心から、
亀裂が走った。
バキバキバキッ!!
船体が崩壊していく。
黒い瘴気が噴き上がる。
その時。
ミツコが前へ出た。
「トシオさん」
優しい声。
ミツコの掌から、
淡い光が広がる。
暖かい。
春の日差しみたいな光。
その光が、
黒い海へ触れた瞬間。
ジュゥゥゥ……
瘴気が浄化されていく。
異形達の悲鳴。
黒い泥が、
静かに消えていった。
海風が吹く。
すると。
ほんの一瞬だけ。
異形船の中から、
人の声が聞こえた。
『……ありがとう』
ミーコが目を見開く。
ユキも、
耳を伏せていた。
海へ消えていく光。
それはまるで。
ようやく眠れた魂みたいだった。
◇◇◇
やがて。
黒い海は、
静けさを取り戻した。
港に残ったのは、
呆然とした漁師達だけ。
誰も言葉が出ない。
トシオは、
普通に港へ戻ってきた。
びしょ濡れだった。
「冷たいのぉ」
「そこ!?」
タマが叫ぶ。
「いや何なんだお前!?」
フィルニアが叫ぶ。
トシオは首を傾げる。
「漁師じゃ」
「漁師の範囲超えてるわ!!」
港中から笑いが漏れた。
恐怖で張り詰めていた空気が、
ようやく緩む。
その時。
昼間の少年が、
駆け寄ってきた。
「おじちゃん!」
トシオが見る。
少年は、
目を輝かせていた。
「ありがとう!!」
その笑顔を見て。
トシオは、
少しだけ照れ臭そうに頭を掻いた。
「腹いっぱい食えよ」
「うん!!」
その時だった。
海の遥か向こう。
誰にも見えない場所で。
黒い揺らぎが、
静かに蠢いていた。
まだ終わっていない。
世界の歪みは、
確実に広がっている。
だが。
それでも。
港には、
人々の笑い声が戻っていた。




