『潮風の港町』
『じじばばにゃんこと異世界奇譚』
第一部『レヴァナスタシア』
朝。
港町ルーガストは、
潮風の匂いで満ちていた。
まだ陽が昇り切る前だというのに、
港にはもう人の声が溢れている。
「網持てぇぇ!!」
「そっち引っ張れ!!」
「飛魚逃がすなぁ!!」
怒鳴り声。
魚を捌く音。
カモメの鳴き声。
海の町独特の、
騒がしくも力強い朝だった。
宿の窓を開けたトシオは、
静かに潮風を吸い込む。
「……ええ匂いじゃのぉ」
その声には、
少し懐かしさが混じっていた。
若い頃。
海で生きてきた男の顔だった。
後ろから、
ミツコが湯気の立つ茶を差し出す。
「落ち着く?」
「やっぱ海はええ」
トシオは笑う。
若返った身体でも、
海を見る目だけは昔の漁師そのままだった。
波。
風向き。
空気の湿り。
全部、
身体が覚えている。
ミツコが、
そんな横顔を優しく見つめる。
「なんか嬉しそうねぇ」
「海見とると腹減るからの」
「結局そこぉ?」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇◇◇
その頃。
別の部屋。
ぴくっ。
小さな耳が動く。
布団に埋まっていたミーコが、
ゆっくり顔を上げた。
綺麗な水色の髪が、
朝日に淡く透ける。
銀ではない。
まるで、
朝の海を映したみたいな色だった。
レイシス王家直系だけが持つ、
特別な毛色。
だが本人は。
「……焼き魚」
真顔だった。
隣の布団で寝ていたユキが、
眠そうに目を擦る。
銀白の髪が、
ふわりと揺れた。
「んぅ……?」
「焼き魚の匂いする」
その瞬間。
ぐぅぅぅ……
ミーコのお腹が鳴った。
数秒の沈黙。
ユキが吹き出す。
「ミーコぉ……」
「し、しょうがないじゃん!」
耳をぺたんと伏せながら、
顔を赤くする。
そこへ、
既に着替え終わったタマが入ってきた。
タマもまた、
ユキと同じ銀白の髪色だった。
フェンリス家特有の、
白銀毛色。
「朝から何騒いで──」
ぴたり。
タマの耳が止まる。
「……魚焼いてるな」
「タマもじゃん!!」
「いやこれは反応するだろ!?」
ユキが笑い転げる。
そこへ。
こんこん。
ミツコが扉を開けた。
「朝ご飯食べに行こっかぁ」
「行く!!」
三人同時だった。
ミツコが吹き出す。
◇◇◇
港の朝市は、
想像以上の賑わいだった。
巨大魚。
貝。
海藻。
干物。
見た事もない海産物が並び、
香ばしい匂いが漂っている。
「おぉぉぉぉ!!」
フィルニアが、
目を輝かせていた。
「なんだここ!!
全部うまそう!!」
「朝から元気すぎる……」
タマが呆れる。
だが。
フィルニアは既に、
魚串を三本抱えていた。
「うまぁぁぁ!!」
「いつ買った!?」
「さっき!!」
「早ぇよ!!」
その横で。
ミーコは焼き魚屋台の前から動かなかった。
じぃぃぃ……
完全に真顔で見つめている。
店主の漁師が笑った。
「嬢ちゃん、
そんな見つめられると魚も緊張するぞ」
「……いい匂い」
耳がぴくぴく動いている。
完全に惹かれていた。
漁師は豪快に笑い、
焼き立ての魚を差し出す。
「ほら食え!」
「いいの!?」
「おう!」
ミーコは受け取り、
ぱくりと齧った。
次の瞬間。
耳がぴんっと立つ。
水色の髪が、
朝日にきらりと揺れた。
「……おいしい」
「はははっ!!
気に入ったか!」
ミーコは夢中で魚を食べ始める。
タマが遠い目になる。
「完全に猫だな……」
「猫系獣人だからねぇ」
ユキが笑った。
◇◇◇
昼頃。
港はさらに騒がしくなっていた。
漁船が次々戻り、
大量の魚が運び込まれていく。
トシオは、
そんな港を静かに眺めていた。
漁師達の動き。
ロープの扱い。
船の揺れ。
全部、
懐かしい。
すると。
「おっちゃん、
漁師か?」
年配の漁師が声を掛けてきた。
「昔のぉ」
「やっぱりな」
漁師は笑う。
「海見る目が同業だ」
トシオも少し笑った。
その時だった。
「どけぇぇぇぇ!!」
怒鳴り声。
巨大な荷車が、
坂道を猛スピードで暴走してきた。
魚箱を山ほど積み、
港へ突っ込んでくる。
人々が悲鳴を上げた。
子供が転ぶ。
だが。
トシオが前へ出る。
「トシオさん!?」
ミツコが声を上げる。
次の瞬間。
ドゴォォォン!!
トシオが、
正面から荷車を受け止めた。
石畳が砕ける。
荷車が軋む。
だが。
止まった。
完全に。
港中が固まる。
漁師が口を開けた。
「……は?」
「止めた……?」
トシオは普通に荷車を押さえながら、
困った顔をしていた。
「危ないのぉ」
「危ないのアンタだよ!!」
タマが全力でツッコむ。
すると。
荷車の後ろから、
小さな男の子が駆けてきた。
「ご、ごめんなさい!!」
痩せた少年だった。
まだ十歳くらい。
「ロープ切れて……!」
トシオは、
しばらく少年を見たあと、
ふっと笑った。
「怪我ないならええ」
怒らなかった。
それどころか。
魚箱を持ち上げ始める。
「店どこじゃ?」
少年は目を丸くする。
◇◇◇
少年の家は、
港外れの小さな魚屋だった。
古い。
狭い。
生活も苦しそうだった。
母親が、
何度も頭を下げる。
「すみません……
本当に……」
「気にせんでええよぉ」
ミツコが優しく笑う。
だが。
台所を見た瞬間、
少しだけ表情が曇った。
食料が少ない。
鍋も空。
少年は気まずそうに俯く。
「最近、
漁が減っちゃって……」
空気が少し重くなる。
その時。
ミツコが、
そっと藤の買い物籠を開いた。
中から出てきたのは。
白い米。
味噌。
乾物。
見慣れない調味料。
少年と母親が目を丸くする。
「……え?」
「ちょっと作るねぇ」
ミツコは慣れた手つきで料理を始めた。
魚を焼き。
出汁を取り。
鍋から、
優しい匂いが広がる。
やがて。
食卓へ並んだのは。
焼き魚。
味噌汁。
白米。
魚雑炊。
湯気が立ち昇る。
少年は呆然としていた。
「……こんなの、
初めて見る」
「いっぱい食べなぁ」
ミツコが笑う。
少年は恐る恐る、
白米を口へ運んだ。
次の瞬間。
目を見開く。
「……おいしい……!」
母親も、
涙ぐみながら味噌汁を飲んでいた。
「温かい……」
その光景を見ながら。
ミーコは、
少しだけ目を伏せる。
昔の自分達を思い出していた。
逃げ続け。
怯えて。
満足に食べられなかった日々。
その時。
トシオが、
ぽんっとミーコの頭へ手を置いた。
「今は食えるじゃろ」
ミーコは目を丸くする。
トシオは、
いつもの顔だった。
「腹減っとる時は、
難しい事考えすぎん方がええ」
「……うん」
ミーコは小さく笑った。
◇◇◇
夜。
港町は静かだった。
波音だけが響いている。
宿の一室。
ミツコは、
藤の買い物籠を整理していた。
その時。
そーっ……
扉が少し開く。
銀白の耳が見えた。
「……ミツコおばあちゃん」
ユキだった。
後ろには、
タマとミーコもいる。
三人とも妙に静か。
ミツコが、
くすっと笑う。
「どうしたのぉ?」
沈黙。
視線を逸らす三人。
そして。
ミーコが小声で言った。
「……オヤチュ、
まだある?」
タマが咳払いする。
「お、俺は別に欲しいわけじゃ」
「タマ、
昨日も食べてた」
「ユキ!?」
ユキは少し笑っている。
ミツコは優しく目を細めた。
「はいはい。
一人一個ねぇ」
ミツコが籠から取り出した小袋を見た瞬間、
三人の目が輝いた。




