『黒穴』
『じじばばにゃんこと異世界奇譚』
第一部『レヴァナスタシア』
夜の帝都ヴァルグラン。
その空は、
静かに歪み始めていた。
黒い雲。
渦巻く瘴気。
そして。
空そのものへ開いた、
巨大な“穴”。
兵士達が、
城壁の上で息を呑んでいた。
「なんだあれ……」
「空が……割れてる……」
誰もが、
本能で理解していた。
あれは危険だ。
見ているだけで、
胸の奥がざわつく。
飛竜達ですら、
不安そうに低く鳴いている。
帝都全域へ、
警鐘が鳴り響いていた。
ゴォン!!
ゴォン!!
重たい鐘の音が、
夜空を震わせる。
飛竜騎士達が、
次々と空へ飛び立った。
槍。
魔導砲。
炎槍。
帝都守備隊も、
慌ただしく配置へ走っていく。
だが。
その頃。
竜王城の大広間では。
フィルニアが、
まだ肉を食べていた。
「うまっ」
タマが呆れる。
「この状況でまだ食うの?」
「腹減ってると戦えないだろ」
「理屈は分かるけどさぁ……」
ユキが、
少し不安そうに窓を見る。
ミーコも、
静かに夜空を見つめていた。
嫌な感じがする。
黒穴から漂う空気は、
普通じゃない。
瘴気とも違う。
もっと。
“世界そのもの”が軋んでいるような、
嫌な感覚だった。
その時だった。
──グォォォォォォッ!!
凄まじい咆哮が、
帝都全域を震わせた。
広間の窓が揺れる。
食器が跳ねた。
セレスが、
即座に窓の外を見る。
「……アストラヴェイン?」
ヴァルドレイクも、
静かに立ち上がった。
あの守護竜が、
ここまで警戒するのは異常だった。
次の瞬間。
バサァァァァッ!!
巨大な影が、
城の外を横切る。
兵士達の悲鳴。
飛竜騎士達の怒号。
空気が張り詰める。
グランヴェルが、
槍を掴んだ。
「来るぞ」
その直後だった。
ドゴォォォォォン!!
帝都全体が激しく揺れた。
窓の外。
遠くの塔が、
崩れ落ちていく。
「なっ……!?」
タマが絶句する。
空間裂けの中心から。
“何か”が出てきていた。
黒い巨体。
歪んだ翼。
赤黒く濁った眼。
全身から溢れる瘴気。
その姿は、
確かに飛竜に似ている。
だが。
違う。
生き物ではない。
もっと別の、
壊れた何かだった。
兵士達が叫ぶ。
「未確認飛竜!!」
「いや違う!!
あれは……!」
言葉にならない。
ただ。
見ているだけで、
恐怖が込み上げてくる。
フィルニアですら、
笑みを消していた。
「……なんだよ、
あれ」
その時だった。
ヴァルドレイクが、
低く呟く。
「黒穴災害……」
沈黙。
グランヴェルが目を見開く。
「まさか……
記録にあった?」
ヴァルドレイクは、
静かに頷いた。
「千年前の災厄だ」
その声には、
明確な緊張が混じっていた。
エレミアが、
静かに目を伏せる。
「……本当に存在していたのですね」
帝国最古の禁書。
そこへ記されていた、
世界崩壊の記録。
空に穴が開き。
異形が現れ。
世界が壊れ始める。
まさか。
それが現実になるとは、
誰も思っていなかった。
だが。
トシオだけは、
窓の外をじっと見ている。
「苦しそうじゃのぉ」
全員が振り返る。
タマが困惑した。
「いやどう見ても襲ってきてる敵なんだけど!?」
「腹減っとる」
「またそれ!?」
だが。
トシオの目は、
真剣だった。
黒い飛竜は、
苦しむように暴れている。
叫んでいる。
壊れている。
まるで。
痛みに耐えられないみたいに。
その時。
黒飛竜が、
帝都中央へ突っ込んだ。
「まずい!!」
グランヴェルが飛び出す。
セレスも続く。
飛竜騎士団が、
次々と夜空へ飛び立った。
炎。
雷。
魔法。
無数の攻撃が放たれる。
だが。
黒飛竜は止まらない。
ギャァァァァァッ!!
咆哮。
衝撃波。
騎士達が吹き飛ばされる。
「硬すぎる!!」
「瘴気で魔法が逸れる!!」
「近付くだけで飛竜が怯えるぞ!」
帝都が悲鳴を上げていた。
石壁が砕ける。
塔が崩れる。
飛竜騎士が落下する。
兵士達が叫ぶ。
完全に、
災害だった。
その時だった。
トシオが、
のそのそ歩き始める。
タマが慌てた。
「え、じーちゃん!?」
「行くかのぉ」
「いや待って待って待って!!」
フィルニアが、
逆に目を輝かせる。
「俺様も行く!!」
「駄目だ」
グランヴェルが即答した。
「なんでだよ!!」
「お前は突っ込みすぎる」
「それの何が悪い!!」
「全部だ」
セレスが頭を押さえていた。
「今それやってる場合ですか……!」
だが。
こんな状況なのに。
いつものやり取りだった。
ミーコは、
静かに気付いていた。
みんな。
少しだけ落ち着いている。
恐怖へ飲まれていない。
トシオとミツコがいるだけで。
不思議と。
心が折れなかった。
その時。
ミツコが、
買い物かごを覗き込む。
「……あら」
全員が見る。
ミツコは、
困ったように笑った。
「お茶っ葉切れとる」
沈黙。
タマが顔を覆う。
「今そこ!?」
ユキが吹き出した。
フィルニアまで笑っている。
エレミアですら、
口元を隠して肩を揺らしていた。
張り詰めていた空気が、
少しだけ緩む。
ヴァルドレイクは、
そんな一行を静かに見ていた。
戦場で。
災厄を前にして。
それでも。
笑える。
この者達は、
本当に異質だった。
そして。
どこか羨ましかった。
その時だった。
黒飛竜が、
再び咆哮する。
ギャァァァァァァッ!!
空が揺れる。
そして。
空の黒穴が、
さらに広がった。
ズルリ。
まるで。
“向こう側”から、
何かが覗いたみたいだった。
帝都全域へ、
寒気が走る。
兵士達が青ざめる。
飛竜達が暴れ始める。
一部の兵士など、
立っていられない。
ただそこに在るだけで、
精神を削る。
そんな“何か”だった。
その時。
ヴァルドレイクが、
低く呟く。
「総員、
黒穴を直視するな!!」
兵士達が慌てて目を逸らす。
だが。
遅かった。
一人の兵士が、
突然叫び始める。
「あ……
あぁぁぁぁぁっ!!」
目を見開き。
頭を抱え。
狂ったように暴れ始めた。
「黒穴が!!
中に!!
中に誰かいる!!」
兵士達が押さえ込む。
だが。
止まらない。
恐怖。
混乱。
絶望。
帝都全体が、
飲み込まれ始めていた。
その時だった。
トシオが、
静かに前へ出る。
黒い夜空を見上げる。
巨大な黒穴。
その向こう側を。
じっと見つめる。
誰も止められなかった。
いや。
止めてはいけない気がした。
その背中は、
あまりにも静かだった。
そして。
ぽつりと呟く。
「……おるのぉ」
その瞬間。
黒穴の奥で。
“何か”が、
笑った気がした。
ゾワッ――
帝都全域へ、
言葉にならない悪寒が走る。
ヴァルドレイクの眼光が鋭くなる。
グランヴェルが、
槍を構える。
セレスが息を呑む。
フィルニアですら、
初めて本気の緊張を見せていた。
そして。
黒穴の奥から。
ゆっくりと。
“巨大な眼”が、
こちらを見下ろしていた。




