黒腕の侵食者
黒い腕が亀裂から飛び出した。
空気が軋む。
神殿の床を削りながら、その異形はゆっくり姿を現した。
巨大だった。
腕だけではない。
黒い泥みたいな肉塊が亀裂奥から溢れ続けている。
骨格が定まっていない。
獣みたいでもあり。
人型にも見える。
だが。
見ているだけで嫌悪感が込み上げる。
ユキが息を呑んだ。
「なに……あれ……」
老人の幻影が低く呟く。
『閉じる者の残滓』
『侵食獣だ』
侵食獣の腕が地面を叩いた。
ゴ ァ ァ ァ ァ ッ !!!!!
神殿が震える。
砕けた床石が吹き飛ぶ。
フィルニアが即座に前へ飛び出した。
「下がれ!!」
紅い炎が竜角から噴き上がる。
同時に。
侵食獣が腕を振り抜いた。
黒い瘴気が一直線に走る。
フィルニアが跳ぶ。
後方の石柱が触れただけで崩壊した。
「うわっ!?」
タマが目を剥く。
「なんだ今の!?」
「触れるな!!」
シェルファが叫ぶ。
「魔力そのものを侵食しています!!」
その頃。
トシオの右手紋章が蒼く脈動していた。
ブゥゥン……
天裂海牙が低く唸る。
老人が視線を向ける。
『始まりの海槍が敵を認識している』
侵食獣が咆哮した。
グ ォ ォ ォ ォ ォ ッ !!!!!
黒い衝撃波。
神殿全体へ広がる。
ユキが吹き飛びかけた。
「きゃっ……!」
ミーコが抱き寄せる。
「ユキ!!」
直後。
ミツコの額紋が淡く光った。
ふわり。
柔らかな光が広がる。
衝撃波が弱まった。
老人が目を細める。
『命紡ぎ……』
ミツコ自身も驚いていた。
「えぇ……?」
だが。
侵食獣は止まらない。
黒い腕が何本も伸びる。
神殿中を薙ぎ払った。
フィルニアが炎を纏って突撃する。
「邪魔だぁぁぁ!!」
ド ゴ ォ ォ ォ ッ !!!!!
竜炎拳。
侵食獣の腕が弾け飛ぶ。
だが。
黒泥がすぐ再生する。
「硬っっっ!?」
フィルニアが距離を取る。
グランヴェルも動いた。
巨大戦斧。
振り下ろし。
ガ ァ ァ ァ ン !!!!!
神殿が揺れる。
侵食獣の半身が潰れた。
だが。
また戻る。
「厄介だな……!」
アークが舌打ちする。
老人が低く言う。
『核を穿て』
『さもなくば無限に再生する』
「核ぅ!?」
タマが周囲を見る。
「どこだよ!?」
侵食獣の胸部が脈動した。
ドクン。
黒い中心。
赤黒い光。
まるで心臓みたいだった。
シェルファが叫ぶ。
「あれです!!」
侵食獣が腕を振り上げる。
巨大な黒腕。
天井を覆うほどだった。
床へ叩き付けられれば神殿ごと潰れる。
だが。
トシオは動かなかった。
腰を深く落とす。
蒼光。
右手紋章。
天裂海牙が低く鳴った。
呼吸が落ちる。
神殿の空気まで沈んだようだった。
ユキが息を呑む。
「じーちゃん……!」
刹那。
床が沈んだ。
ゴ ォ ォ ォ ォ ォ ッ !!!!!
トシオの巨体が消える。
そう見えた。
一瞬だけ。
蒼い線が神殿を走る。
侵食獣の懐。
既にトシオはそこへ踏み込んでいた。
海槍が唸る。
そして。
突き出された。
ズ ド ォ ォ ォ ォ ッ !!!!!
侵食獣の胸部が爆散した。
黒い核。
蒼い衝撃が真正面から貫いている。
侵食獣が絶叫する。
黒泥が暴走した。
神殿全体へ飛び散る。
だが。
核が砕けていく。
ピシィ……
赤黒い光が崩壊した。
侵食獣の身体が崩れ始める。
老人が目を見開く。
『……穿ったか』
やがて。
………………
黒い肉塊が砂みたいに崩れていく。
静寂。
神殿へ静けさが戻った。
フィルニアが大きく息を吐く。
「終わった……?」
だが。
老人は険しい顔のままだった。
『いや』
全員が見る。
老人は亀裂奥を見つめている。
『今のは滲み出た残滓に過ぎぬ』
空気が冷える。
ミーコが眉を寄せた。
「……もっといるの?」
『いる』
短い答えだった。
『いずれ本体が動く』
神殿が静まり返る。
ユキが不安そうにミツコの袖を掴む。
「怖いよ……」
ミツコは優しく頭を撫でた。
「大丈夫よぉ」
その時だった。
トシオの右手紋章が再び光る。
ブゥゥン……
空間が揺れる。
天裂海牙が淡く輝いていた。
老人が静かに頷く。
『始まりの海槍も感じ取っている』
『閉じる者が近付いている事を』
トシオは黙って槍を見る。
胸の奥がざわついていた。
まるで。
遠い海の底から何かが呼んでいるみたいに。
中央水晶柱が再び発光する。
空中へ文字が浮かび上がった。
『深層封印区画』
『最終記録開放条件達成』
シェルファが息を呑む。
「まだ奥があるんですか……?」
老人は静かに頷いた。
『封書庫はまだ終わっていない』
神殿奥。
新たな扉がゆっくり開き始めた。
ゴ ゴ ゴ ゴ……
重い音。
古い。
遥か昔から閉ざされていたみたいな音だった。
その奥から。
蒼い光が漏れている。
だが。
それだけではない。
どこか懐かしい空気。
潮風。
温かな匂い。
ミツコが小さく目を細めた。
「……うちの台所みたいやねぇ」
全員が振り向く。
「台所?」
ミーコが聞き返す。
ミツコは困ったように笑った。
「なんやろねぇ」
「でも、そんな感じするぅ」
老人が静かに目を閉じた。
『始まりの民は』
『世界を巡りながら火を繋いだ』
『海を越え』
『空を渡り』
『そして必ず、最後に食卓を囲んだ』
静かな声だった。
トシオはゆっくり天裂海牙を消す。
蒼い槍が粒子となって紋章へ戻っていく。
そして。
トシオが奥を見る。
「行くかの」
ミーコ達も頷いた。
始まりの民が何を残したのか。
なぜ世界を繋いだのか。
その答えが、
扉の奥で待っていた。




