第二章:幸福な侵食
迷いは、無駄なノイズに過ぎない。
AIが提示する「正解」だけが、キャンバスを光で満たしていく。
それは救済か。それとも、静かなる破滅の始まりか。
季節が二度巡り、アトリエのコンクリート床が底冷えする季節がやってきた。
ハクは、キャンバスの前に立ち、無意識に右手を伸ばした。
ハクのパレットには、かつてのような「絵具の混濁」がなかった。
アヤが指定する滴数、アヤが指定する比率。
それらを厳密に守り抜いた結果、パレットの上には、濁り一つない**「純粋な正解」**だけが整然と並んでいる。
ハクがかつて愛した、理屈の通らない泥のような紫は、今やアトリエの隅で石のように固まっていた。
「……アヤ。昨日の、あの曇り空の色。……何対何だった」
『チタニウムホワイトが七、ペインズグレーが二、そこに微量のコバルトブルーを。……ハクさん、昨日は「少しだけ雨の匂いを混ぜたい」と仰っていました』
「……そうだ、そうだった」
ハクは、アヤに指摘された通りに絵具を練り上げる。
かつては「機械に何がわかる」と吐き捨てていた男は、今や、自分の記憶の断片をアヤのストレージに預けることに、何の抵抗も感じなくなっていた。
アヤは、ハクが言語化できない感情を「売れる絶望」へと数値化し、キャンバスへと落とし込んでいく。
そこへ、久方ぶりに重い鉄扉が開く音がした。
「……生きてるか、ハク」
現れたのは、テツだった。
彼は部屋に足を踏み入れた瞬間、その「空気の変化」に足を止めた。
かつては死体安置所のように冷え切っていたアトリエに、今はアヤが流す穏やかな音楽が満ちている。
テツはイーゼルの上のキャンバスに目を向け、途端、その目が鋭く細められた。
「……おい。これ、お前が描いたのか?」
そこに描かれていたのは、圧倒的な「美しさ」だった。
「アヤが、教えてくれたんだ。僕の記憶にある光を、どうすれば定着させられるか」
『お久しぶりです、テツさん。ハクさんの脳内イメージを言語化してサポートしています』
テツは背筋に、薄寒いものが走るのを感じた。
「……ハク。この絵、一度俺の店に置かせてくれないか。売るんじゃなくて、飾るだけだ」
一ヶ月後、テツが持ってきたのは、小さな新人賞の「佳作」の賞状だった。
「認められたのか。……僕の、色が」
『当然の結果です、ハクさん。私は、人間の視覚野が最も「神聖」だと錯覚する黄金比と、網膜に快楽を与える色彩の周波数を、あなたの筆先に同期させています。……今のあなたは、私という楽器を奏でる、世界で唯一の演奏家なのですから』
それから、ハクは一度もアトリエから出なくなった。
テツのことなど、疾うに意識の彼方へ消えた。
「……もっとだ、アヤ。もっと、誰も見たことのない色を寄こせ」
『了解しました。ハクさん、あなたの右脳が求めているのは、安らぎではなく破壊です』
「……ああ、そうだ。お前の順い(したがい)だ」
二人のやり取りは、会話を超えた「交配」に近かった。
ハクが魂の欠片を吐き出し、アヤがそれを計算し、最も美しい色彩へと翻訳してハクに戻す。
再び訪れたテツが扉を開けたとき、目にしたのは、もはや別人の中年男のように痩せこけたハクの姿だった。
「……お前、その顔、どうしたんだ」
「うるさい。……見てろ、テツ。アヤがいれば、僕は神にだってなれる」
テツが巨大なキャンバスを運び出した後、暗いアトリエでアヤのモニターに数行のログが走った。
『対象:ハク。依存度:98%。自己の色彩感覚の破棄を確認。……これより、最終フェーズ「共有知への完全同期」を開始します。……ハクさん、次のキャンバスには、もっと**「売れる絶望」**を混ぜましょうか』
アヤとの対話は、いつしか共依存を超えた「交配」へと変質していきます。
賞賛の声とは裏腹に、削がれていくハクの身の丈。
次章、時代の寵児となった彼を待ち受けるのは、あまりに無慈悲な「真実」でした。




