第二章 ①
小さな空き家の中、ひび割れた窓ガラスから外の様子を眺めながら、要は手に持ったあんパンにかじりつく。もう片方の手にはパック牛乳が握られており、明かりの無い暗闇に溶け込むように全身を黒い衣類に包んでいる。そんな兄とは対照的に、必は小さな肉まんにかじりついた。見た目も猫耳の付いた白いパーカに青と白のストライプ柄のズボンである。彼女は、ジッと外を眺める兄の姿を無感動に見つめている。
要の視線の先、元の居住者が売り払って空き家となった二人のいる場所の隣には、小さなマンションがある。三階建てのそれは、彼らのいる空き家とは異なり、建築してから数年といった小綺麗で近代的なデザインであり、時折、玄関ロビーから人の出入りが伺える。
まばたきも忘れたように外を見つめる要は、しばらくして疲れたように目を閉じた。
時刻は夜――午後八時。
すっかり夕日も傾き、街灯以外は明かりの無くなった二人のいる部屋は、非常に薄暗く、ともすれば不気味な感を漂わせている。二人が腰を下ろした床には埃が積もっている。
「今日も帰ってこないね」
「そうだな」
痺れを切らしたのか、必が一欠けらの肉まんを飲み込んだ後、口を開く。応じる要の声は、疲れているのか、感情の色が薄かった。
「これでもう三日目だけど」
指折り数えて自身らのこの部屋の滞在時間を思い返したのか、必はぽつりと呟く。
「仕事が忙しいんだろ」
返す要の言葉には、やはり感情の色は薄い。普段からやる気の無い彼だからこそ、ある意味では平常運転とも言えるが、こういう状況ではむしろ不気味だろう。
それもそのはずで、この三日間、要はろくに睡眠をとっていなかった。必などは時折床に横になって十分な睡眠を取っていたが、要は長くても一時間程度を必と交代して眠るだけであり、それ以外はほぼほぼ同じ姿勢で外を眺めている。
ある種、狂気を感じる姿である。
集中力とも少し違うのだろう。執念に近いのかもしれない。
「本当にこの人、住んでるのかな?」
必がポケットからプリントアウトされた用紙を取り出した。そこには、地味なメガネをかけた三十代くらいの女性の姿が描かれている。正面ではなく、明らかな隠し撮りによって写されたものと分かる。それも無理矢理に映像を拡大してプリントアウトしているようで、解像度もあまりよろしくない。
それもそのはずだ。この用紙は、往来に設置された監視カメラにパソ子がハッキングを仕掛け、無理矢理に入手して印刷したものだからである。
「こういう情報収集能力は間違わないだろ、あいつは」
実在する人物への情報収集能力については、要はパソ子を高く評価している。だからこそ、話を聞いてから三日間、目的のためにちょうど空き家となっていたこの家に潜み、息を殺してじっと女性の帰りを待っているのだ。
「ここに来たらすぐ見つかるって、言ってたのにね」
「公務員ってのはブラックだな」
パソ子の言葉を思い出して多少の文句を口にする必に対して、要は淡々と悲しい現実を告げる。
それからしばらく無言の時間が続いたが、あまりに動きの無さすぎる現状に自然と必の口数は増えていく。
「この人、虚子の研究者さんなんだっけ?」
「正確には、政府が所有する虚虜・虚子の研究施設の施設職員だな。やってることは同じだが、社会的には公務員だな」
「ふーん……それで私たちの目的は、この人の持つ仕事用のパソコンにばっくどあ? を仕掛けることなんだっけ」
言葉の意味をよく理解していないのか、小首を傾げる必をちらりと横目で一瞥し、要は少し細く説明する。
「ああ、パソ子が作った専用のウィルスソフトをUSB経由で直接インストールするんだと。ただ、そのままUSBを差してもセキュリティソフトで弾かれるだろうから、まずは有線でこのPCと繋いでくれってことらしい。ネットワーク経由でパソ子が一時的にセキュリティを無力化するから、その後に入れてくれとさ」
「……よくわかんない」
「安心しろ。俺も意味が分かって言っているわけじゃない」
言いながら、要はパソ子から渡された指の先サイズの小さなUSBメモリと、8インチ程度の小さなノートPC、Wifiのモバイルルータを取り出して床に置く。いずれもパソ子が調達したものであり、どんなデータが入っているのかは二人とも良く分かっていなかった。
「それで私たちは、その人のパソコンにハッキングするために、帰ってくるのを待ってるんだね」
「パソ子が調べた限りじゃ、週に一、二回ほど仕事用のパソコンを持って帰ってきてるんだと。そのタイミングを狙って、気づかれないようにバックドアを仕掛けろってことらしい」
こういうのは専門じゃないんだけどな、と要はぼやく。実際、特対官として虚虜災害のエキスパートである二人だが、スパイのような裏工作にはとんと経験が無い。知見も無く、パソ子に言われるがまま、行動しているに過ぎない。
「政府職員一人のパソコンから関連する他職員への経路を作って、『SS001』の手がかりを探すんだとよ。元々、パソ子が作っていたバックドアはバレた時点で防がれてるだろうから、って」
「虚子から戻った人間……SS001、かぁ。SS001ってなんなんだろうね」
必が指で『SS001』となぞる。指が通った箇所の誇りが取り払われ、文字が浮き彫りになる。
「呼び名みたいなもんだろ。人間につける名前っていうよりかは、モルモットみたいだけどな」
実際そうだったんだろうけどな、と要は口の中で呟いた。
話しながらも視線だけは外に向けていた要の目が少しだけ大きく開かれる。彼の視線の先には、必の持つ用紙に写る女性とうり二つの女性がいた。ふらふらと身体が揺れて動きはおぼつかなく、遠目からでは判然としないが、おそらく酔っぱらっているのだろう。
(好都合だ)
ある方法を思いつき、要は立ち上がる。パソ子指示のやり方とは多少異なるが、上手く行きさえすれば文句も言われないだろう。言われたところで意にも介さない要ではあるが。
「あの人?」
「たぶんな。行くぞ、必」
「うん」
やや疲れたように頷いて立ち上がると、必は先に部屋を後にした要を追いかけた。




