第六章 ⑦
間一髪の要の登場に対し、アセナは一瞬迷う素振りを見せた。
目の前の一片を喰らうことを優先するか、現れた新たな敵へと対処すべきか。彼女にとってはどちらも至上の獲物であるがゆえに、優先順位を付けることが難しく、それが結果的に彼女の隙となる。
人の心にだけ執着する虚虜が見せた数少ないその隙を、要は見逃さなかった。
動きを止めて、一片と要に交互に視線を向けるアセナの懐へ、一息で飛び込む。
握りしめた白刀を袈裟切りに一閃し、アセナを両断せんと攻撃に出る。
その刃が触れようかというところで、ようやくアセナは動き出す。瞬きよりも速い速度で異能の光を繰り上げ、全身を包み込んだ。結果、要の刃は素通りし、それどころか透過したアセナは、要を通り過ぎて少しだけ距離を取る。
跳躍した彼女は、廃材で積み上げられた鉄塔の上に降り立った。
眼下に現れた心躍る人間の在り様に歓喜し、本能からこぼれる笑みを口元に浮かべる。
喰らいたいという欲望を剥き出しにし、口元から覗く犬歯が怪しく光った。
「……厄介な能力だな」
攻撃を透かされ、自身すらも透過された現状を冷静に分析しながら、要は短く吐き捨てた。人型虚虜である以上、並みの虚虜を上回る異能と身体能力を持つことなど予想していたが、それに輪をかけて悪辣な異能を持っていると見える。
要は、病室で一片たちから聞かされた話を思い返した。
人型虚虜アセナ――その異能は、他者の異能を模倣すること。
必の話では、レイロン地下で戦った際、必の異能を模倣して見せたという。爆破と凍結――その力の本質たる断熱過程の操作。それでもって要たちを一蹴して見せた。
模倣と言うことであれば、その力は必の断熱過程の操作だけでは無いのだろう。一体、制御できる力はいくつあるのか。
白刀を構えなおし、要はアセナの動きをつぶさに観察する。あらゆる異能の共通点、それは能力発動時の発光現象だ。紫咲のように自身の体内を流れる血液を扱う場合はその限りでは無いが、自身とは異なる物質に影響を及ぼす異能は、往々にして不可思議な光を灯す。
アセナの能力の底は見通せない。だが、その力が発される瞬間は捉えることが出来る。
それを見逃さないように、要はアセナを注意深く観察していた。
自身の動きを間断なく見定めようとする要に対し、アセナには緊張感というものはまるで無かった。恐怖を抱く心すらも持ち合わせない虚虜は、唐突な乱入者の存在にただ愉悦だけを覚え、歓迎するように両手を広げる。
「やぁ、要。よく来たね」
まるで友好の意を示そうかというその態度に、要は眉を寄せた。なんのつもりだ、と思いはしたものの、口には出さない。心を介さない虚虜と話す言葉ほど、無意味なものは無いと言うのが彼の率直な感想だった。
意味のある言葉など、虚虜は発しはしない。何故なら虚虜にとって、人間は食料だからだ。
人は食べ物を前に、美味しそう、綺麗、などと表することはあっても、その食料と言葉を交わし、友になろうとはしないだろう。その結果、もう食べるのはやめるね、などとは絶対に思わない。
虚虜も同じだ。彼らに言葉をかけられる、そのことそのものが興味を持たれ、食欲をそそられたという事実を示唆されており、であればこそ、自身を食べんとするものと何を語ると言うのだろう。
そんなことに意識を傾ける暇があるなら、虚虜の妄言に心揺らされる暇があれば、その隙を狙い、一撃で心の臓を貫くことこそが肝要だ。
要が返事を返さなかったためか、二人の間には静かな静寂が流れた。
敵意に溢れた視線を向ける要に対して、アセナの瞳はどこまでも暗く深く、ただ満天の星空の煌めきだけを灯している。
何者をも映すこと無い金色の煌めきは、無機質に要を見据えていた。
「他の人間は、ボクとの会話に応じてくれるんだけど、きみはそうでは無いようだね」
色の無い音を響かせるアセナの言葉を聞きながら、要は少しだけ一片に目線を向ける。
地面に尻もちをついた状態で、彼女は項垂れていた。
初対面の時に感じた美しくも清廉な気高さはどこにも無く、ただ現実に打ちのめされ、行き場を失った迷子の子供のような少女がそこにいる。見開かれた両目には何も映っておらず、両の瞳から呆然自失といった様子で涙を零し、乱入した要に一瞬だけ意識を向けたものの、何を言うことも無い。
その姿に、要はかつての自身を重ねて見た。
どうしようもない現実に、受け入れらない過去に、望むべくも無い未来に――心の中は寒風が吹きさすように空っぽの荒野で、夜空に浮かぶ小さな星を目印にただ歩んでいたのに、まるでそれが雲の影に隠れて道行を失ったようで。
心の中で繰り返す。誰にも聞こえない。誰にも届けられない。
小さな小さな嘆きが、耳の中で何度も響き渡るようだった。
――助けて、と。
心折れた少女は、誰に向けたものかも分からない、救いの言葉を訴えているように見えた。
眼前にはアセナがいて、警戒しているようには見えないが、決して気を抜いているわけでも無い。ひとたび隙を見せれば攻撃されるだろうと、そう予想できる状況で、それでも要は見ていることが出来なかった。
今、目を離せば、この少女は戻ってこられなくなると、ほとんど無意識にそう思ってしまった。
「――一片」
あえて呼び捨てで名前を呼んだのは、少しでも自身の言葉がこの傷ついた壊れかけの少女に届けばと思ったがゆえだ。出会ったばかりの見ず知らずの他人、言葉もそう交わしたわけでは無い。そんな要の言葉が彼女に響くとは思えない。
それが怒りでも違和感でも、何でも良かった。他者を拒絶するその心に、わずかばかりの亀裂を入れることが出来れば、それでいいと思った。
名を呼ばれ、一片がぴくりと反応を示す。決して要を見たわけでも、俯き加減の顔を上げたわけでも無い。それでも確かに要の言葉を受け取った。
「俺には、今のあんたの何が分かるわけでも無い。過去に何を思って、今ここにいるのか、理由を聞きはして想像は出来ても、その芯の部分までは分からない」
赤の他人で、陽彩を捜すという同じ目的を抱えて、そのためにこの望島を訪れ、眼前のアセナに立ち向かってはいても、結局は何一つ知らない見知らぬ少女だ。そんな少女の胸の内など、要には理解できないし、しようとも思わない。
ただ、見ていられない。妹を失ったばかりの自分がそこにいるようで、辛くて苦しくて、毎夜寝るたびに悪夢にうなされて、それは今も変わらない。守れなかった無力さに、希望と夢を押し付けた自責に、何かできたんじゃないかという後悔に、圧し潰されそうだった。
それでも立ち上がれたのは、目的があったからだ。必を取り戻す――ただそれだけが生きる意味で、生きていい理由だと思えたから。
結局それすらもただの思い違いに過ぎないという愚かさではあったが、要にとっては立ち直るきっかけになったことは間違いない。
でも、ふと思ってしまうときがある。
もしあの時――あの傷ついた自分に触れ、声をかけ、優しく手を差し伸べられていれば――そう、それこそ、彼が妹に望み、期待したヒーローのように、満開の笑顔で夢を見せてくれる存在がいれば、何か変わったのだろうか。
苦痛も苦悩もすべて呑み込んで、それでも生きてていいと、そう言ってくれる誰かがそばにいれば、何か、変わったのだろうか。
浅はかな妄想で、どうしもようないクズの他人任せで、そんな夢を見る権利すら無いと分かっていても、思ってしまうのだ。
この世界にヒーローはいないと分かっているのに。彼のヒーローは、幻想の中にしかいなかったと、そう分かってしまったのに。
幼い頃に見た理想や夢を、それでも期待してしまうのだ。
「だから、分かるなんて言わない。あんたの苦悩はあんただけのもので、それを否定はしない。心が折れて立ち上がれないなら、それでも良いと思う。頑張れなんて言わない。ただ――」
もし、あの時、世界に絶望し、生きる気力すら失ってどうしようもなかったあの時、その言葉をかけてもらえたなら、もう少し早く、己の愚かさに気づけたかもしれない。
「あんたは頑張った。頑張ったよ。だから、必死になって生きてきた自分の今までを、否定しなくてもいい」
妹に憧れた。理想を押し付けた。心と身体を擦り減らして戦っていることに気付きもしなかった。
それでも、要はただ憧れていたわけでは無い。いつかその憧れに近づこうと、才能が無くても妹の隣に立てる存在になろうと、努力し続けた。
たった一人の兄妹として、半身を分けた双子として、そばにあり続けた。
その事実だけは、誰が何と言おうと胸を張って誇れるから。
その今までを自分で否定してしまったからこそ、そうじゃないと、誰かに言ってほしかった。
「これからのことは、今からゆっくり考えればいい。俺があいつをぶっ倒してやる。一人で考えるのが辛いなら、心が圧し潰されそうなら、あんたには大事な人がいるんだろ。その人たちと、悩んで苦しんで、これからを見つけていけばいい」
要は、一片に起きたことなど何一つ知らない。来るのが遅かった。
きっと、目の前の悪辣な虚虜が彼女を追い詰めたのだろう。人に夢を見せ、希望を抱かせ、その果てに絶望を与えて、心を喰らう。それがアセナの在り方だと聞いている。
要の想像もつかないような絶望を――そう、今目の前で倒れている陽彩によく似た小さな少女、彼女の姿を見れば、想像できることはある。
大切な誰かを失い、自分の今を否定される言葉を押し付けられ、立ち上がれなくなった。
想像の域を出ないが、そう推測できる。
「なんで……」
ぼそりと、一片は言葉を漏らした。
それは小さくて、聞き逃してしまいそうで、どこかで鳴り響く爆発音にかき消されてしまうくらいで、それでも要は耳を澄ませた。迷子の幼子の泣く声を、しかと聞き届けた。
「なんで要さんが……そんなこと、言えるんですか……」
言葉に熱を帯びるように、勝手な物言いをする要を非難するように、一片の心は悲鳴を上げる。
なんでそんなことを言うの。もう頑張れない。耐えられない。
言葉にならない心の声が、はっきりと感じ取れる。
「陽彩は……全部忘れたんです。記憶を、喰われたんです……。要さんが捜してた、必ちゃんを取り戻す方法だって、もう覚えていないんですよ……っ」
告げられた真実に、要は少しだけ悲しげな表情を浮かべた。
期待していなかったと言えば嘘になる。今の必が過去に執着していないと気づきはしても、それは要がずっと探していたものだから。記憶だけでも――その一端でも取り戻せれば、とそう考えてはいたのだ。
だが、希望は目の前で失われた。また、当てのない道行を歩き続けるのだろう。
必は望んでいない。だから必死になって追いかけることは、止めるのだろうと、そう思う。それでも要は、過去の記憶まで否定したいわけじゃない。過ごした時間をわずかでもまた共有できれば、それはきっと悪いことじゃないと、そう思っていた。その願いは変わらない。
「そうか」
「そうか……って」
「それでもだ。陽彩が忘れたって言うなら、また別の方法を探すさ。必がそれを望んでいないみたいだから、本当に記憶と心を取り戻させるからは別としてもな」
「……辛くないんですか。ずっと、そのために……戦ってきたんですよね……」
希望を砕かれて、夢を奪われて、何故平気なのかと一片は問う。
要の答えは、簡潔だった。
「それでも必はいる。俺の妹を失ったわけじゃない。一番大事なことは、その事実だって、ついさっき教えられたんだよ」
「…………っ」
要の言葉に、一片ははっとしたように顔を上げ、その視線が動いて陽彩を見た。
陽彩は、意識を取り戻したのか、心配そうに一片を見つめていた。身体のダメージが大きいのか、立ち上がれはしないようだが、一片を守ろうと小さな身体に力を込め、前に進もうとしている。
その姿に、一片はかつての彼女を幻視した。
記憶を忘れても、アセナの前に立ちはだかり、一片を守ろうとした。
地獄の渦中で出会った時のように、地獄の最後に別れた時のように、一片を守ろうとしてくれた。
「ひ、いろ……」
一片の視界が涙で歪む。
何を勘違いしていたのだろう。
何をバカなことを考えたのだろう。
虚子がいずれは虚虜になるからと、そんな事実が何だと言うのだろう。
辛い現実の中で、両親さえ失って途方に暮れたあの場所で、手を差し伸べ、心を委ねてくれたのは誰だ。
たった一人の泣き崩れるしかなかった小さな少女を、信じて、微笑んで、生きようと言ってくれたのは誰だ。
「わ、たし……私……」
「だい、じょうぶ、だよ、おねえちゃん」
痛む身体に力を込め、立ち上がり、小さな身体で必死になって前に進む。
陽彩は、一歩一歩ゆっくりと一片のもとまで歩み、その手に触れた。
触れてくれた――。
「泣かないで。ごめんね、きっとひいろのせいなんだよね。だから、ごめんね。ひいろ、何もおぼえてなくて、ごめんね。でも、おねえちゃんが泣いてるのを見るのは、なんだかつらいの。心がね、キュッとなるの」
一片と陽彩の視線が重なり合う。
何もなかった二人の間に、小さな光が灯り始める。繋いだ手を通して伝わってくる優しい気持ちに、一片は心が震えるのを感じていた。
それはかつてと同じようで、決して異なる感覚。
優しく包み込もうとしてくれた陽彩とは違う。小さな手で、そっと背中を撫でてくれるような、愛しみに溢れるもの。
きっとこの少女は、もう陽彩ではないのだと、そう分かってしまう。
けど、決して全くの別人では無い。陽彩と同じ、他者を想う優しい心を持っている。迷子の女の子に手を差し伸べられる慈愛に溢れている。
一片は、繋いだ陽彩の手を、そっと額に押し当てた。
かつてのように、今度は一片の方から、想いを伝える。
「陽彩……何も覚えていないあなたに、こんなことをお願いするのは、間違ってるかもしれない。許されないこともかもしれない。けど……私は、あなたを諦めたくない。もう昔のあなたじゃないと分かっていても、それでも、それでも――」
涙をこらえ、くしゃくしゃに崩れた涙交じりの笑顔で、一片は大切な言葉を送る。
「私と、一緒に生きてほしい」
一片から向けられた思慕の愛に、陽彩は目を見開いた。何かに驚いたようで、その小さな瞳から知らず一筋の涙を零しながら、手のひらを通して伝わる想いをそっと胸に抱く。
「生きよう、ひとひら。ひいろが、ひとひらの心を埋めてあげるから」
二人の間を光の粒子が循環し始める。光は、通い合わせた心を示すようにゆっくりと二人の身体を包み込み、最後に泡となって消えていく。
それは確かな同調の発露。
虚子と心を重ね、新たな同調者が生まれたことを表している。
重ねた陽彩の手を下ろし、ゆっくりと一片は両足に力を込める。本来であれば動かないはずの足。六年前に動かす力のほとんどを失った両足は、今や驚くほどに力が漲り、羽のように軽い。彼女の意のままに血流が巡り、神経が命令を伝達し、筋肉が動く。
自ら立つことの出来なかった迷い子が、今や両の足でしっかりと立ち上がる。それは誰に力を借りたものでは無く、自らの意思と力で不確かな大地を踏みしめた。虚子から受け渡された身体の強化は、彼女の足を軽々と再起させていた。
「アセナ――」
陽彩の手を握りしめたまま、一片は様子を見守っていた幻燈の怪物を瞳に映す。
怪物は、一片の再起を寿ぐように、両手を広げて歓待の意を示した。
「あぁ……まだ、立ち直れるんだね。心折れて、うなだれて、全てを放り投げてなお、きみはそれでももう一度、立ち上がることが出来るんだね」
うっとりと恍惚とした表情で、心を奮い立たせた人間の在り様に、アセナは歓喜している。自身の想像を超えた人の心こそを欲しているのだと、舌なめずりを打つ。
「要さんが一番大切なことを教えてくれた、陽彩が私をもう一度受け入れてくれた――アセナ、あなたの絶望は嘘ばかり。虚子は、あなたたち虚虜とは違います。心がある。たとえその道行きの果てに全てを失ったとしても、希望を抱いて未来を生きることが無意味だなんて、そんなことはありません」
一片の導き出した答えに、アセナは何も言い返さない。ただ立ち直った彼女を尊ぶように瞳を細め、静かに目を閉じた。
「ひとひら――」
まるで宝物のように一片の名を呼ぶ。感情を持たないはずの虚虜の言葉であるにも関わらず、そこには不思議と万感の想いがこもっているかのようだった。
「きみの至った結論を、ボクは否定しない。そんなことを思えるきみたち人間だからこそ、ボクたちは乞い求めるんだ。ボクらには無い心を、ボクらでは紡げない想いを、持つがゆえに欲し、そして――壊したいんだ」
アセナの表情が変わる。その少女のような見た目どおりの無邪気な愛らしさから一転、世界全てを見下したような嘲弄を顔に刻む。
その時初めて、アセナは心の底から哂っていた。まるで失った感情を思い出したかのように、本能から一片を嘲笑った。侮蔑と嘲笑で顔を歪め、ああなんて愚かしいんだ、とそう表情で語る。
「無意味な答えを、何にもならない希望を、どうにもならない未来を――ボクらが抱く虚無を、きみに教えてあげる」
その瞬間、アセナの放つ圧が質を変えた。今まで一片を食料として見ていなかったアセナが、初めて敵意に近いものを彼女に向けた。絶望を与えて喰らうのではなく、対敵として壊し、喰らってやると、その意思を叩きつける。
まるで全身に強風を浴びるかのようなその圧に対し、一片は揺るがない。恐怖で震えそうになる心を叱咤し、陽彩の手を強く握りしめ、アセナを迎え撃つ。
そんな一片の前に、要が一歩出た。庇うように白刀を構え、アセナの敵意を受け止める。
「必、なんか言ってやれ」
「え? わたし?」
「虚子として、言いたいことの一つや二つくらいあるだろ」
アセナと言葉を交わす気になれない要は、それでもアセナの言葉に抱いた不満を必に託す。
急に話を振られた必は、少しだけ考えるように沈黙し、それからはっきりと自分の考えを告げる。感情の大半を失い、大体の悪意や悪口には何も感じない必は、それでもアセナの言葉に感じ入るところがあったのだろう。
「そうだね、じゃあ一個だけ」
要の背後で冷気が揺らめき、それは影のように必を形作る。自身の姿をはっきりと現し、必はアセナに向かって言い放つ。
「勝手に人を値踏みしないで。虚虜の思い込みでわたしたちを語らないで。わたしは必、要が一番大事、その想いだけがわたしを表す全て。だからこそ、夢を見る。未来を生きる意味がある。明日を笑って要と過ごす。――それを邪魔するなら、許さない」
「そういうことだ。人のなりをしてるからって、人を分かった風に語るのはやめろ。人間同士だってお互いのことなんて分からないんだ。お前らに、何が分かる」
アセナの視線が要たちを捉え、その顔から表情が消える。言われたことの意味を考えるように、少しばかりの静寂が流れた後、アセナは自身で出した結論を口にした。
「分からないからこそ欲するの。それは本能。ボクたちが虚虜である存在理由。だから、きみたちを喰らって、その意味を少し考えてみることにするよ」
もはや言葉は不要。
端から人と虚虜、分かり合うことなど出来ないし、両者ともに分かり合おうとはしていない。言葉が話せるだけで思想も本能も全く異なる存在だ。だからこそ、これ以上語らうのは意味が無いと、三者がそう理解した。
「陽彩」
「ひとひら」
一片と陽彩が互いに名を呼ぶ。
重ねた手から光の粒子が溢れ出し、紡いだ心を重ね合わせる。
『――相剋』
二人の言葉が重なり、光の粒子が弾けた。
黄昏が降りる。
一片の髪が白金へと変わり、瞳に紅玉を宿す。全身は淡い光の粒子に包まれ、まるで太陽が落ちゆくその瞬間を表すかのように、昼と夜の境目を彩る一瞬の煌めきを灯す。
陽彩が描き消え、一片の肩口に小さな光の群れとなって寄り添っていた。茫洋とした幻影のような彼女は、一片の肩にそっと手を乗せ、彼女を支えんと力を尽くす。
「あなたとこうして重なるのは、六年ぶり。あなたは覚えていないだろうけど、私は今でも昨日のことのように思い出せる」
「ひとひら……ひいろには、その記憶は……」
「違うよ。気にしないで。私が言いたいのは、やっぱりあなたは陽彩だっていうこと。記憶が無くても、私のことが分からなくても、他の誰かであっても、私にとってあなたは陽彩。今、そうなんだって、はっきりと分かった」
一片が光の粒子を手繰る。陽彩の持つ異能の力――粒子の状態を操る力を手繰り、そこに光の薙刀を生み出した。
六年ぶりに生み出したその薙刀をしっかりと握り、堂に入った構えを取る。幼い頃に叩き込まれた武道の心得は、六年のブランクを感じさせないほどに彼女に馴染んでいた。
「一緒に戦おう。あいつを倒そう」
「うん。ひとひらは、傷つけさせない」
互いの想いを再認識し、それを皮切りにして、一片は地を蹴った。目前で構えていた要が驚いた表情を浮かべているのに少しだけ悪戯っぽく笑いながら、不思議な高揚感のままに一片はアセナへの距離を駆け抜ける。
「きみとこうして戦うのも懐かしいね。次はきみを両手を奪ってあげる。もう二度と、きみの宝物と結ぶ手すら失えば、きみはどう壊れるのかな」
「前からずーっと、思ってました」
薙刀の射程に入ると同時、アセナに向かって鋭く振るう。迫る粒子の刃を前に、アセナは受け止めるのではなく、回避を選ぶ。薙刀の性質が、アセナの模倣した陽彩の異能では透過できないと気づいているのだろう。
陽彩の異能が可能とする透過は、決して攻撃を素通りしているわけでは無い。あくまでも迫る物体の粒子の状態を操作し、同化しているに過ぎない。逆に言えば、触れた物体の粒子の操作を可能とする陽彩の能力や、あるいは粒子そのものを吹き飛ばすことの可能な爆発に対しては、透過は意味を為さない。
ゆえに回避する。一度見て模倣した程度にすぎないにもかかわらず、アセナはその能力の本質を理解し、使いこなしている。
だが、能力を使いこなすという点で言えば、その本来の持ち主である陽彩――そして六年前にそれを使いこなして見せた一片に軍配が上がる。
薙刀がその質を変え、蛇のようなうなりを見せた。回避行動を取るアセナを捉え、その肩口に深々と突き刺さり、焼き焦がす。
「あなたは悪趣味です、アセナ」
アセナの肩口を襲った薙刀は、その瞬間に小さな雲が縮むように一瞬だけ凝縮し、すぐに花火のように解き放たれた。圧縮されたエネルギーが解放され、アセナの身体を穿つ。
衝撃によって吹き飛んだアセナを見送りながら、一片は薙刀を一回転して構えなおした。
「六年前、私たちはあなたに全てを壊された。今日、大事な思い出を奪われた。でも、これ以上は何も壊させない。奪わせない。私はもう、あなたに絶望しない」
吹き飛んだアセナの身体から蒼白の触手が生まれ、それを地面に突き刺すことで勢いを止める。同時に無数の刃がアセナの全身から生み出され、彼女を守るように刃が鈍い色を輝かせる。
「ああ、挑んでおいで。その全てをボクが――」
「悠長にしゃべってる暇があるのかよ」
爆発が連鎖する。
爆炎と轟音が鳴り響き、アセナの周辺で爆轟が起こり、衝撃波が吹き荒れる。粒子の状態操作では防げない一撃を放ちながら、その爆発の中を掻い潜るように要が走り抜け、冷気を纏う白刀でアセナを切りつけた。
蒼白の刃が防御と迎撃に出るが、それは要の刃に触れた瞬間に動きを止める。一瞬にして分子の運動すらも停止させるほどの低温域へと至らしめたその刃は、驚くほどに呆気なく、アセナの右手を切り飛ばした。
「ふむ」
切り落とされた右手を一瞥し、アセナは左手を掲げる。光の粒子が左手に集中し、間を置かずそれは爆発の力へと変わる。
要を吹き飛ばすように、さらに要の放った爆発を相殺するように爆発が連鎖する。
炎と黒煙に周囲が包まれる中、それらを振り払うように二人の影が空中へ躍り出た。
爆発を利用して空を駆ける要。それに対して、アセナは爆発に加え、蒼白の触手すらも活用して空中で攻勢に出る。
空中で両者が交錯し、爆発と冷気の応酬が繰り返される。その中に光の粒子を纏った一片が飛び込んだ。
三者乱れながら、異能を駆使して激突し合う。
「神島さん!」
要が一片を呼び、手を伸ばす。その声に応じて、一片は要の手を掴んだ。
二人は手を繋ぎながら、要の爆発の力で一気に上空へ駆けあがる。同時に要の能力によって周囲へ冷気が満ち、氷の足場が生み出された。その一つに一片を放り投げながら、反転して要はアセナに迫る。
周囲の状況をつぶさに確認しながら、アセナは眼前に躍り出た要を迎え撃つ。背中から生み出した蒼白の刃と右手に冷気で生み出した氷の刃、さらに左手に光の粒子の刃を握り、要の出方を窺うように構える。
あらゆる異能を駆使するその姿を前に、要は握りしめた白刀に異能の光を込める。
アセナを攻撃することに、断熱圧縮による爆発も、断熱膨張による冷気も有効打足りえる。どちらも粒子の状態操作による異能では防ぎ得ないことは確認済みだ。だが、一方で決定打にはならないことも同じである。
卓越した異能を駆使する力と、驚異的な再生力。すでにアセナにつけた傷は回復しており、切り落とした腕もいつの間にか元に戻っている。ただの攻撃ではやはり、決定打にはならない。狙うべきは、一つしかないだろう。
「必、存在核を狙うぞ」
「なら、頭だね!」
虚虜の存在核は往々にして頭部に位置する。確定的では無いだろうが、少なくとも頭部を崩せば動きは止まる――はずだ。仮にも人型の形態を取っているのであれば、その可能性は高い。
要は、アセナの視線の動きを捉えていた。アセナにとって、両目は視覚として機能しており、両目が捉えられない場所は死角になっている。光情報を両目から取り入れていることは確実だろう。
要がアセナの有効射程に入る寸前、周囲の温度が急速に低下し、霧が生まれる。水蒸気による目くらましだ。
アセナの視界を一時的に奪いながら、要は回り込むようにアセナの背後に移動した。
白煙で包まれた中でアセナの影を捉え、死角からの一撃を叩きこむ。
だが、首筋を狙った要の一撃は、アセナの背後から伸びる蒼白の刃によって防がれた。まるで一つの生き物のように要の白刀を受け止め、それどころか冷気の力が噛み合った刃を起点に発生する。
「要っ!」
自身の力ゆえに危機を察したのだろう。叫ぶ必に対して、要はすでに行動に出ていた。握りしめた白刀から手を放し、爆風を起こして後方に距離を取る。同時にアセナの接近を阻むためだったが、アセナはその程度は意にも介さなかった。
振り返ったアセナは、眼前の爆風など無視して、爆炎を振り払いながら要に氷の刃を振るう。すでに要は刃の射程外にまで移動していたが、振るわれた刃は突如としてその刃身を伸ばした。
「……ッ!」
空気中の水分を利用した氷の延伸。想定しかるべき攻撃であり、射程外にいるからと油断したのは迂闊の一言に尽きる。
なんとか身をそらした要だが、氷の刃は要の肩口を浅く切り裂いた。そこから要の身体を凍結せんと冷気の力が浸透し始める。これを予測していた要は、自身の前方にさらに爆発を放つことで何とか逃れた。
(自分の力を相手取るっていうのも、厄介だな――ッ)
改めて、必の異能がいかに戦闘において有用かを思い知らされた気分だ。
特に厄介なのが断熱膨張による身体の凍結である。触れさえすれば、表皮の水分を利用して身体を凍り付かせることが可能なその攻撃は、わずかばかりの負傷すら許されない。それどころか、アセナに触れられただけで凍り付かされる危険性がある。
要がアセナと距離を取る合間に、落下する氷の足場を飛び移り、一片がアセナに切りかかっていた。だが、有効的な攻撃になっていない。初撃はアセナに不意打ちを当ててみせた一片だが、まるで環境に適応するかのように、アセナの戦術は巧みに一片の戦法に対応してみせている。圧巻の対応力と言えるだろう。
複数の異能を模倣する力。卓越した身体能力。驚異の再生能力。段階的な適応性。
そのどれも、やはり並の虚虜の比では無い。それどころか、かつて要が戦った人型虚虜とも一線を画している。
(やっぱり……今のままじゃ、足らないか……)
回避から一転、要は再度の攻撃に出る。一片がアセナの攻撃を避けるために距離を取ったタイミングを狙い、両手で異能の光を手繰りながら、アセナに突撃をかける。
要の動きにあわせて、周囲の空気がパキパキと音を立てて凍り付き始める。その一端を掴み、全力で横なぎに振るった。長大な氷の棒は、狙い違わずアセナの首筋を捉え、しかし一瞬にして砕け散った。透過どころか、わずかばかりの痛痒すら与えられていない。避ける必要が無いと判断したのか、それとも全く別の異能によるものか。
空中の不安定な姿勢であれば、仮にダメージは無くとも衝撃で身体が揺らぐはずだ。だが、アセナにその様子は見られなかった。
要は疑問に思うものの、一体どれほどの異能を秘めているか分からない相手だ。深く考えすぎると攻勢の手すら緩む。ひと先ずは物理攻撃にほとんど意味が無いと判断し、要は片方の手で手繰った光を砕けた氷に叩きつけた。
断熱圧縮によって高温と化した高エネルギーが氷とぶつかり、瞬間的に氷が水蒸気へと変化する。膨張した体積は白煙と化して周囲に漂い、それを目くらましに要は再びアセナの死角を狙う。
要の攻撃は、通じない。死角を狙った要の攻撃は、アセナの身体から伸びる蒼白の刃によって妨げられる。あの蒼白の刃は、アセナの意思では無く、ある程度は自動で迎撃しているのだろうか。明らかにアセナの知覚領域を超える反応を見せている。
都合何度目かによる要の攻撃は、アセナの放った爆発によって防がれ、それどころか、要の視界を白煙が覆った。生み出したのは要では無い。アセナの力だ。
「ぐっ……!」
「要、後ろ――」
アセナの接近に気付いた必が叫ぶより早く、鋭い蹴りの一撃が要の脇腹に叩き込まれた。まるで大砲のような勢いで要の身体が吹き飛び、廃墟の山に叩きつけられる。
凄まじい衝撃に臓腑が痛み、口から胃液がこぼれた。立ち上がろうとして足が震えていることに気付き、疲労感がどっと押し寄せる。
度重なる肉体の蓄積ダメージと、力の使用による心の消耗。
そのいずれももはや限界を超えている。その中で無理な動きを続けているのだ。少しでも気を抜けば、意識が持っていかれそうだった。
「必……どうみる?」
「このままじゃ……勝てない。攻撃が通じなくなってる」
「だよな……」
要を蹴り飛ばしたアセナは、追撃することは無く、今度は一片と攻防を繰り返している。粒子の状態操作を用いてアセナの防御を突破する一片に対しては、アセナは一定の距離を取り、蒼白の刃と爆発を駆使して戦っていた。一片の能力は、接近戦に特化している。距離を取るアセナの立ち回りに対して翻弄されるばかりであり、二人の距離が近づく様子は見られなかった。
要だけじゃない。アセナは、一片に対しても対策案を練り上げ、自身に有利なように戦闘を進めている。知性を持たず、本能で行動を修正するのが虚虜の特性だ。
だが、知性を持ち合わせた人型には、その理屈は通じない。最適解を選んで効果的な戦法に切り替え、二人を弄ぶように戦術を組み立てていることがうかがえる。
今、要たちが身体を動かせているのも、ひとえにアセナが手を抜いているからだろう。どういうつもりでそんな戦い方をしているのかは不明だが、元々、気に入った人間を失意の底に叩き込み、心を喰らうことに執着している虚虜である。
じわざいわと真綿を占めるように、二人の逃げ道を塞いでいるのだろうと、要は推測した。
アセナのそれは、戦いでは無い。ある種、何度も何度もノミを打ち付けて石材や木材を一つの芸術に整える彫刻家のように、要たちの心を追い込んでいるのだろう。
時間を追うごとにアセナは要たちの異能に適応し、どころか模倣した異能をより効果的に運用するようになっている。目の前で優秀な講師がいるのだからそれも当たり前の話だ。要たちの用いた技の数々を、彼女は模倣し、理解し、対策することが出来る。
全身を巡る激痛をシャットアウトする。包帯を巻いた箇所から血が滲み、傷が開き始めているが、いったんこれも意識の外に追いやった。目を向けてしまえば、立ち止まってしまう。
立ち上がり、要は近くの地面に転がっていた黒刀を見つける。それを拾い、異能の力を浸透させた。
視界の先で苦戦を強いられている一片を見つめる。一進一退の攻防は、もはやアセナの独壇場だ。彼女が致命の一撃を打たないからこそ成り立っているのであり、その気になれば一片の命は無いだろう。
「必――」
覚悟を決め、要は必を呼んだ。
胸の内には怒涛の感情が溢れ、処理しきれないそれを一つずつ噛みしめていく。
大切な思い出の一つ一つ。胸にしまい込み、守り続けた記憶の数々を思い起こす。
「やるんだね」
「ああ」
「何を捧げる? 感情と、記憶」
「いつもどおり、記憶だ。感情を失えば、俺が俺じゃなくなる気がするからな」
「分かった。じゃあ――どの記憶?」
必の問いに、要は少しだけ迷う。
覚悟は決めた。
別れも胸の内で済ませた。
それでもすぐに返答できなかったのは、それが要にとって何より大切な一部だからだろう。自身を構成する要素の大半を占めると言っていい。だからこそ、力になる。強く想うからこそ、その記憶は大きな力を生む。
口を開きかけて、震えていることに気付いた。それは決して、身体の痛みだけでは無いのだろう。
心臓が早鐘を打ち始め、自分が思う以上に動揺していることを自覚する。
手放したくないと、そう叫んでいる。
――兄さん、ヒーローになって。
その時、記憶の中の妹が、太陽のように笑っている姿を想起した。
足を止めた要の手を取り、優しく手を引いてくれる様を幻視した。
「人間だった頃の必と過ごした記憶の全てを」
「――いいの?」
要の捧げようとするものを半ば予想していたのだろう。必は、短く、最後の確認を行う。
もはや要に迷いは無い。
記憶の中の妹は、きっと迷わないのだろう。大切な記憶も、目の前の傷ついた人も、何でもかんでも守り抜いてしまう。そんな常識外れを可能にするような少女だった。
だが、要にそんな力は無い。心も身体も擦り減らし、なんとか妹の真似事が出来ている程度。だからこそ、迷わない。妹が望んだヒーローになるために、その妹の記憶すらも代償とする必要があるのであれば、それを捧げてみせる。
「要――ごめんね」
「なんでお前が謝る」
「そうだね……。でも、ごめんね」
謝罪の言葉を繰り返し、必は影のような手を要に伸ばした。その心のうちへと両手を沈み込みませ、まるで何かを抜き取るかのような仕草を取る。彼女の両手には、小さな果実にも似た何かが握られていた。それにそっと口を這わせ、小さく咀嚼する。
幻想的なその光景の中で、要はそっと目を閉じた。全身に神経を集中するように力を高める。
同時に、何かが自身の身体から削れていく感覚を覚える。
心の内から何かが零れ落ちていき、それが何なのか分からない。
きっと、大切な何か。捨ててはいけない何か。胸に抱えておかなければいけない何か。
たくさんのきらきらした宝石の思い出の数々が失われて、霧散していく。消えてしまえば、思い返すことも、失ったことを自覚することも出来ない。
まるで心に穴が開くように、加速度的な喪失感を自覚しながら、要は目を開いた。全身を巡る異能の光はすでに臨界にまで達しており、彼の言葉を待つように何度も波打っている。
『春されば まづさきくさの 幸くあらば――』
要の口から流麗に詩が紡がれる。
『――後にも逢はむな 恋ひそ吾妹』
必が要の声に詩を重ね、二人の声は美しい旋律を紡ぎあげる。
要と必の詩に応じるように全身を巡る光が弾けた。
白銀の光が粒子となって舞い踊り、渦のように要の全身を覆いつくす。溢れんばかりの光は、要の代償を喰らい、大きく強くその威容を解き放つ。
『唯識寂滅――求不得苦夢幻泡影』




