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第六章 ⑥

 誰かが叫んでいる。


 悲痛な声で、必死になって叫んでいる。


 その声が痛くて、胸が辛くて、要は耳を塞ぎたくなる。だが、塞げない。塞ごうとする手が無い。


 身体も何もなく、なんだこれは、と疑問に思いながら、ただその光景を見ていた。


 かつての光景。


 血に倒れ、光の粒子になりつつある妹と、地面に倒れながら必死に手を伸ばす自分の姿。


 これは夢だと、要は自覚する。


 自分は夢を見ている。


 過去の光景の焼き回し。記憶に刻み付け、忘れるものかと誓った呪いのような一部始終。


 毎日のように夢に見る。


 いくら心と記憶を代償にしても、その光景だけは捧げることは無かった。


 何故ならそれは、要にとって全ての原動力だったから。


 記憶の中の妹は、全身から血を流していた。陶磁のように白くて美しい肌は傷だらけで、力なくぐったりとしている。身体は虚虜デーヴァに喰われたがゆえに光の粒子を纏っていて、すぐにも消えてなくなりそうな儚さを宿していた。


『ねぇ、兄さん』


 かつて見た光景もそのままに、妹が口を開く。終わりを迎えかけているとは思えないほどに優しく、穏やかに、要を呼ぶ。


さだめは、頑張ったよね?』


 かつての妹は、要のことを兄さんと呼んでいた。


 自分のことを、さだめと名前で呼んでいた。


 子供のようだからやめろと言っても、一向に聞いてくれなかった。要に自分のことを刻み付けるためだと、そんなことを恥ずかしげもなく言っていた。


 思えば、特対官として活動する彼女にとって、記憶は当たり前のものでは無かったのだろう。


 いつか無くなるもの。失ってしまうもの。


 だから思い出を作ることに固執していた。要に自分を刻むことに必死だった。


『たくさん、いっぱい、戦ったよ。いろんな人を、救ったよ。兄さんが褒めてくれたから、なれるっていってくれたから、ヒーローになったよ』


 ああ、と地に倒れた要が涙を流す。


 自分が何をしたのか。何をしてしまったのか、この時の要ははっきりと自覚していた。


 幼い頃、同調者として並外れた才覚を持っていた必に、双子の妹のそんな才気に、要は憧れた。憧れるだけならまだいい。それだけでは無く、幼い自分の夢を託してしまった。


 ヒーローになりたい。太陽のように笑って、色んな人を守って、救える存在になりたい。


『必は、頑張ったよね?』


 頑張ったよ、とそう声に出すことも出来ない。


 溢れる後悔に押しつぶされそうで、要は何も口にすることが出来なかった。目の前の現実を受け入れられず、ただ漫然と手を伸ばすことしか出来なかった。


『けどもう、頑張れないや。ごめんね、兄さん。必、負けちゃった……』


 まだ十五歳の少女が――世間で言えば高校一年生になったばかりの少女が、自身の死を嘆くわけでも無く、ただ兄の期待に沿えなかったことを口にする。それがどういうことか、何を彼女に押し付けてしまったのか、初めて要は理解していた。


 年若い少女の負った特対官として責務。虚子トリシュナと同調して心を摩耗させ、強大な怪物と戦う日々。


 それをヒーローだと、要は憧れて、その本質を知りもしなかった。


 当たり前だ。要には、資質が無かったから。


 同調者を多く輩出する周防家に生まれながら、あらゆる虚子と同調する資質を持ち合わせなかった要には、同調者の抱える苦悩の何一つ、理解できていなかった。


 理解できていなかったから、妹をただ尊敬していた。


 心をすり減らして、限界を迎えていたなどと、察してあげることすらできなかった。


『だから、ねぇ、兄さん』


 ぼろぼろの状態で、それでも優しく微笑む妹が、要に向かって手を伸ばす。ほんの数メートルの距離が途方もなく、二人は最後に触れ合うことも出来ない。


『もし……もし兄さんが、嫌じゃないなら……』


 ああ、と今の要は思い出す。


 いつもこの後の言葉だけは、眠りから目覚めると思い出せない。思い出したくないから、記憶の中から断絶させてしまっていた。


 現実との乖離に、苦悩することになるから。


 逃げていた。


『今度は、みんなを……必を守れるヒーローに、なってほしいな』


 それはきっと、必の心底からの願いだったのだろう。


 双子の兄を慕い、その願いを聞き入れ、必死になって戦い続けた少女は、そんな小さな少女が抱くような願いを胸にしまい込み続けたのだろう。


 自分を守ってくれるヒーローを、夢見ていたのだろう。


 その現実を前に、いつも要は血を吐くのだ。


 自分の愚かさを呪うのだ。



 

「アニキ、起きてください」


 頬を叩かれ、要は現実の世界へと戻ってくる。


 先ほど見たばかりの夢を思い出して、少しだけ自嘲した。いつもいつも、最後の瞬間だけは忘れてしまっていた。忘れようと、見ないようにしようと、大切な妹の最後の願いにすら、目を背けていた。


 それが思い出されて、自分のみっともなさに呆れかえる。


 だが、すぐにそんな自責に駆られている場合では無いと思い出した。意識を失う直前、必から打ち明けられた本心に応えてから、一体どれほどの時間が経ったのか。


 そもそも、何故こいつが目の前にいる。


「陽介、どうして……」

「助けがいるって聞いて、来ました」


 当たり前だ、と言わんばかりに陽介が軽薄に笑う。こんな状況でもその軽いノリに、要は少しだけ救われた。レイロンでは苛つかされるばかりではあったが、この無意味な軽薄さは、陽介の美徳であるのかもしれない。


 陽介の隣には、寄り添うようにして一人の少女がいた。


 ウェーブがかったショートヘアが特徴的な、十を過ぎたばかりの見た目の虚子トリシュナ――ひなみだ。アセナに襲われて大怪我を負ったと聞いていたが、すっかり回復したのか、元気そうな様子に安堵する。要は、彼女の在り方に憧れて、だからこそ救おうと必死になったのだ。


 無事でよかった、と心の底から思う。


 要の視線に気づいたのだろう。怯えたようにひなみが陽介の背中に隠れた。


(俺、なんかしたか?)


 そう疑問に思う要だが、思えば助けるためとはいえ、初対面にもかかわらずかなり乱暴な口調で強引なことをしたような気もする。小さな少女が怯えるのも納得か。


 そんなことを考えていると、おずおずとひなみが顔を出した。唇を少しだけ震わせながら、小さく頭を下げる。


「か、かなめ、さん……助けていただいて、ありがと、ございます」


 おっかなびっくりと言った口調ながら、真摯な感謝の気持ちに溢れていた。


 その言葉に、記憶の中の妹の言葉が想起させられた気がした。


「相変わらず俺以外だと人見知り発揮するなぁ。すんません、アニキ。こいつ、結構な人見知りで」


 陽介が笑いながら、ひなみをフォローする。言われてみれば、怯えているというより、ひなみの様子は引っ込み思案の子供のそれとよく似ている。どう要と接すればいいか分からなくて戸惑っている感じだ。


 崩壊しかけてきた時は感情的に堂々していたもんだが、と要は思い出すが、あれは状況が違うだろう。引き合いに出すのは酷だ。


「そうか。良かったな、無事みたいで」

「かなめ、さんたちの……おかげです」

「そうそう、ひなみが目覚めて、アニキたちがピンチだって聞いたから、ここまで来たんすよ!」


 喋るのがおぼつかないひなみに対して、陽介は陽気にずかずかとパーソナルスペースを飛び越えてくる。対照的な二人だが、ある意味で良いコンビなのだろう。


 助けに来たんだと繰り返す陽介は、まるで要に感謝されるのを待つ子犬のようだ。見た目も年齢も要よりも上の男にそんな態度を取られても、気持ち悪いだけである。


 助けに来てくれた手前、それは内心に引っ込めた。


「そうか、助かる。そうだ、必は?」

「ここだよ」


 ふと思い出し、要が周囲を見回すと、必は地面に横になった要を上から見下ろすように顔を出した。


 どうやら、寝ている要を膝枕していたようだ。起きた時に頭が全く痛くなかったのは、必がその柔らかな太ももで支えてくれていたかららしい。


「良かった。目が覚めて。怪我はね、ヨウくんとひなちゃんが手当てしてくれたの」

「これでも元看護学生なので!」


 陽介が告げた驚愕の事実に、要は目を丸くする。


「は? お前が、看護?」

「学生っすけどね」

「看護師の見習い?」

「学生なんで見習い以下っすけど」


 人は見かけによらないものだと、要は自分の思慮の浅はかさを反省した。


 どうせレイロンに流れ着く前は不良か半グレか、適当なチンピラでもしていたのかと思っていたが、意外や意外、真っ当に生きていたようだ。


「まぁ、助かった」


 包帯で覆われた自身の身体を見回し、その完璧な処置に要は感心する。全身は爆発の影響で痛むが、出血は止まっている。


 これなら、動けそうだ。


 身体に力を入れる。全身に激痛が走るが、それを無視して要は上体を起こした。


「要、無茶はしちゃだめ」


 止めはしないものの、必が不安げにそう口にする。今まで型にはめた笑顔ばかりを浮かべていた彼女が、苦しそうに表情を歪めている。必の言うとおり、それこそが彼女に残った唯一のものがゆえだろう。


 心配する必の頭を撫で、要はかつての妹に向けるように微笑んだ。


「大丈夫だ。もう無茶はしない」


 その笑顔の意味など必は知らないだろう。それでも何かを感じ取ったのか、彼女は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。


「それより必、陽介、状況を教えてくれ」


 意識を失うほどの重傷を負ってから目覚めたばかりにもかかわらず、切り替えの早い要に感服した様子で、陽介は勢いよく口を開いた。彼の役に立てるのが嬉しいと言わんばかりだ。


一片ひとひらちゃんたちがアセナと交戦状態に入ったそうです。細部は分からないっすけど……。すぐに助けが必要らしいです」

「見つけたのか、人型」

「ええ、場所も分かります」


 行くでしょう、と陽介が無言で語り掛けてくる。彼の目には、いもしないヒーローが映っている。


 要は、その事実をわらう。一体、誰を要と重ねているのか。


 あんなやつが、あんなヒーローが、そうそういてたまるか。


 例えそれが誰かに願われたものだとしても、太陽のように笑って人を救い、自分のことなど顧みない英雄。あんな少女は、どこにもいない。幻想だ。要が創り上げた幻想で、要が守れなかった幻想だ。


「要……」


 必が要を呼ぶ。


 彼女には、要の状態をこの中で誰よりもよく理解できている。心も身体もぼろぼろで、もうまともに戦える状態でないことを知っている。だから言葉には、行ってほしくないという思いが溢れていた。


 それでも要が戦うと言えば、彼女は付き従うのだろう。


 要のためならなんでもする、という言葉通り、要が本気で願えば、力を貸してくれるのだろう。


 かつての妹と同じように、要の押しつけがましい願いを、叶えようと身を削るのだろう。


 要は、即答できなかった。


 意識を失う前であれば、陽彩の手がかりを求めて、アセナのもとへ迷わず急行したはずだ。だが、必の想いを聞き、自分が目を反らし続けていたものを知った今、迷う。


 このまま危険へと向かうことが果たして正しいのか。


 そこに必を連れて行くことに何の意味があるのか。


 もう、要は自身の目的に疑問を感じ始めている。失った妹を取り戻すことが正しいのか、分からない。今の必もそれを望んでいない。ただ兄の無事を、失いたくないという想いもそのままに、願ってくれている。


 なら、それを聞いてあげるべきではないのか。


 全てを放り捨てて、ただ平穏に、共にいてあげるべきじゃないだろうか。


「アニキ?」


 困惑した様子で陽介が呼んでくる。


 要は、決断できなかった。


 いつもなら即決できたのに、もう何を選ぶことが正解なのか、分からなくなっていた。


 そんな要の手に、必はそっと触れた。


「要、たった一つだけ、わたしの中に残った記憶を、教えてあげる。本当は……昔の必しか見てない要には教えたくないけど……嫉妬しちゃうから、嫌だけど……」


 それでも、と必は言葉を続ける。


「それが唯一、過去と今のわたしを繋ぐ、わたしの中に残った大切なものの一つだから……言うね」


 要を失いたくないというただそれだけの感情を残した必。


 では、彼女の中に残った唯一の記憶は何なのか。


 それは、要が自嘲してしまいたくなるくらいの、過去の必が兄へ向けた願いだった。


「要、みんなを守れるヒーローになって」


 ああ、と要は息を吐く。


 それが必の中に残った唯一の記憶。要へ――そして今の必へ託した願い。


 感情の大半を失った必が、どうして他人を思いやる行動に出るのか、疑問に思うことがあった。要へのフォローなのかとも思っていたが、特殊災害が発生したときにやる気の無い要に対して、率先して行動するのはどういう理屈なのか。


 なんてことは無かった。


 記憶の中の妹が、きっと必にも語り掛けているのだろう。


 みんなを守れ、ヒーローになれ、兄を甘やかすな、と。


 優しい妹だった。だけど、厳しいところは頑としても聞き入れてくれないところがあった。


「わたしは、戦ってほしくない。要を失いたくないから。でも、昔のわたしが、要に言ってるの。カッコいいところを見せて、って。……どうする?」


 どうする? そんなもの、決まっている。


 呆けた表情を浮かべていた要は、必の言葉に決意する。


 迷うな。思い出せ。自分が何を願われたのか。妹が最後に何を望んだのか。


 今の妹が、残った感情と記憶の何を大事にしているのか。


「行こう、必。俺は……少なくともお前の前では、ヒーローにならなきゃいけないみたいだ」


 要の決断に、必は異を唱えなかった。ただ、少しだけ後悔するように目を伏せ、それからいつもの笑顔を浮かべる。


 その瞳は、真っすぐ要を捉えていた。


「分かった。守るよ、絶対」

「いや――」


 悲壮な決意を口にする必を、要は真っ直ぐに見た。


 その瞳に必を映して、はっきりと告げる。


「俺が守るよ。お前と過ごすこれからを生きたいから」

「え……」


 その時、初めて必は言葉を失った。はっきりと要の瞳に映る自身を捉えて、その事実に想起させられた溢れんばかりの感情の波に打ちのめされて、経験したことの無いそれに戸惑う。


 ただ、優しさに溢れた要の言葉に思考がいっぱいになり、知らず頬が熱を帯びた。絹のようにしみ一つない健康的な肌を朱に染め、そんな顔は見られたくないと顔を伏せる。


「そ、そっか……うん、分かった……よ」


 尻すぼみになりながらなんとか返した返事の意味を、要は深く考えなかった。


 ただ、それを傍から見ていた二人は、そんな兄妹の様子に小声でひそひそと言葉を交わす。


「ヨウくん、あの二人って兄妹だよね?」

「そう聞いてるけど……」

「血が繋がってないとかかな?」

「双子だって聞いてるけど……アネキの方は虚子になって記憶があんまり無いのかな」

「うーん……それならあり得る、のかな。あっていいかは分からないけど」

「なんの話だよ」

「ひなみとヨウくんみたいな話だよ」

「はぁ? 訳わからん」

「これ」


 ひなみが何やら小指を立てていたが、陽介には全く理解できないようだった。


 はぁ、とそんな察しの悪い陽介にひなみは呆れる。この鈍感さには、ずっと苦労させられていた。


「病室では言ってくれたくせに」

「はぁ? 何を?」

「う……あ、その……ひなみからは言いません!」

「あ、ちょ、なんで殴るの⁉」

「ヨウくんが鈍感さんだから!」


 何やら傍らでコントのようにぽかすか殴られている陽介に気づき、要は半目になる。こんな状況で軽薄なのは良いが、緊張を持てと言外に語っていた。


「理不尽だ……」


 陽介は、心の底からそうぼやいた。


「陽介、切り替えろ。アセナはどこにいる?」

「俺は最初から別にふざけてないっすけどね! あっちです!」


 反論だけは忘れずに口にし、陽介は抽象的な表現と共に大通りから真っ直ぐに伸びる道の先を指さした。


 そこには、大小無数の虚虜デーヴァが道を塞ぐようにたむろしている。建物の影に隠れるようにしている四人の存在には気づいていないようだが、あの包囲網を突破することは簡単では無いだろう。特にこれから人型虚虜と戦おうというのだ。無駄な消耗は極力避けたい。


「あれは……別の道は無いのか?」


 要の問いに、陽介は首を横に振った。


「最短距離があっちです。他は回り道になるし、何より地形がぐちゃぐちゃで案内が難しいらしくて。アニキ、空飛べますよね。飛んで躱すのはどうです?」

「飛べるわけじゃないが……」


 相剋状態であれば、確かに空を移動して地上の虚虜を躱すことも可能だろう。それなりの消耗にはなるが、戦うよりはましだ。


 だが――と要は少し離れた中空に浮かぶ巨躯のクジラを一瞥した。


 あの虚虜が厄介だ。音圧の力で平衡感覚を狂わし、巻き起こす風圧で姿勢制御を困難にする。空中戦において何度邪魔されたか分からない。


 あのクジラがいる以上、迂闊に空を移動することは避けたかった。何より目立つ動きをすれば、アセナに到達した時点でクジラを引き連れてしまう可能性がある。


「あのでかぶつが邪魔だ」

「あー……まぁ、そっすよねぇ。でかいっすからねぇ」


 あまりの巨体に現実感が湧かないのか、陽介の感想は人並みの何とも言えないものだった。


 二人して頭を悩ませる。最短距離を突っ切ってアセナのもとへ行きたいが、大量の虚虜が邪魔だ。空を駆ければクジラに狙われる危険性がある。だが、回り道をすれば道を見失うリスクもあった。誰かのガイドを受けられれば別だが、現状は要の通信機器は故障してしまっている。


「パソ子たちに案内をお願いできないのか? お前らは、持ってないのか?」


 必を含めた三人に声をかけると、三者は一様に首を横に振った。


「わたしのも壊れてたよ」


 過酷な戦闘を繰り返していたのは要だけでは無い。相剋状態とはいえ、相応の負荷が必にもかかっていた。無線機の方はそれに耐えられなかったのだろう。


「俺はこっちに来るときに落としました」


 悪びれもしない陽介の言葉に、要は無言でその頭を叩いた。ひなみがむっと少し目を細めたが、気にしないことにする。


「ひなみの分は数が足りなくて、用意できませんでした」


 答えるひなみの声には険がこもっている。陽介を無造作に扱う要に不満があるようだ。


 これは悪いことをしたな、と二人の関係性を思い返し、反省はしたものの、要は謝ることはしなかった。


 もう一度、大通りに並み居る虚虜を一瞥する。


 その先にはアセナがいて、一片たちが交戦状態に入っているという。


 うだうだと考えて悩んでいる暇は無いだろう。


「正直、これ以上は消耗したくないが、やるしか、ないか」


 腹を括るしかない。


 重たい身体を持ち上げて、要は立ち上がる。心配そうに必がその手を強く握りしめた。体温が低下しつつある要の身体には、必の手は太陽のように温かく感じられた。


「あ、大丈夫っすよ」

「ん?」


 立ち上がった要の前に、陽介とひなみが立つ。その背中は堂々としていた。


「いやぁ、てっきり他に意図があるのかと思いましたけど、別に消耗したくないだけなら大丈夫です。忘れたんすか、俺らが何のためにここに来たのか」

「助ける、ため……です、お二人を」


 ひなみの身体から異能の光が溢れ出す。光を纏ったまま、二人は虚虜たちの前に姿を現した。


 すぐに一体の虚虜が二人の存在に気づき、それは周囲の虚虜へと伝播する。


 数十を超える虚虜が続々と動き始め、まるで壁のように陽介とひなみへと押し迫った。


「おい――」


 無謀なその行動を引き留めようとする要を、陽介の余裕に満ちた声が遮った。


「大丈夫っすよ。だから、覚悟を決めてください」


 してやったりとばかりに、要を振り返った陽介が悪ガキのような笑顔を浮かべた。


「腹を括って、俺たちを信じて、走り続けてください。外野は、俺たちが黙らせますから」


 レイロンで陽介に要がかけた言葉をそのままそっくり繰り返して、陽介は前を向く。その隣でひなみが集中するように光を手繰る。


 虚虜が迫る。地響きを立てて特攻するそれらは、すでに数メートル距離まで近づいていた。


「みんな、来て」


 ひなみは、閉じていた目を開いた。同時に彼女の身体を中心に光の粒子が周囲へと流れ始め、それはコンクリートの地面に浸透したかと思いきや、コンクリートに亀裂が走り、そこから何かが姿を見せる。


 現れたのは、大小無数の植物だった。それがお互いを喰らいあうようにして小さな四足歩行のウサギに変わる。樹木で出来たウサギが、あっという間に地面を埋め尽くした。


「どうも崩壊しかけたときの影響で……群生型みたいな力の使い方が、得意になったみたいで」


 まだ気恥ずかしいのか途切れ途切れに声を発するひなみ。自信が無さそうな様子とは裏腹に、堂々と光を手繰ってウサギを操っていた。


「さぁ、道を作るよ」


 ひなみの指示に従い、ウサギが虚虜の群れを迎え撃った。その小さな身体を生かして虚虜の身体に噛みつくや、ウサギの身体から無数の蔦が生まれ、虚虜の身体に絡みついて動きを封じて見せる。それどころからまとわりついた蔓に操られるようにして、大量の虚虜が同士討ちを始めだした。


「アニキ」


 その光景に圧倒される要に対して、陽介は要の背後に回り、その背中に手をかける。


「今度は、俺の番っす」

「は、おい――」

「ほぅら、行ってこい! クソガキッ!」

「てめ――ッ」


 押し出され、たたらを踏みながら、それでも何とか地面を踏みしめて、要は走り出す。その後を必は追いかける。


 眼前では道を作るように、ひなみに操られた大量の虚虜が脇に寄っていた。あれだけ大量にいた虚虜の壁は、もはや存在しない。開けた視界の先がはっきりと見える。


 喉元まで出かけた文句を押しとどめ、振り返ることは止めて、代わりに要は必の手を取った。それを受け入れて、必はしっかりと要の手を握る。


 指を紡ぎ、真摯な想いをしかと重ねる。


 互いに互いを想いあう兄妹が、初めて想いに同じ意味を託す。


 ――守る。



『――相剋』



 白銀が舞い、一気に加速した要が腰元から柄を取り出した。展開された黒刀が白銀へと変わり、ひなみの攻撃から逃れた虚虜の一体を切り伏せ、さらに速度を上げて駆け抜ける。


(なれるかどうか分からない。お前が望んだヒーローに……けど、もう目を反らさない。お前が残してくれた想いを、ちゃんと受け止めるよ)


 走りながら、要は別れの言葉を内心で漏らす。


 この先にいる人型虚虜との戦いは、決して簡単なものでは無いだろう。何の代償も無しに勝てるはずも無い。心か、記憶か、その多くを捧げる必要があるだろう。


 刻んだ記憶の重さが、虚子と同調者の力を強めてくれる。


 覚悟を決める。


 過去を捨てるわけでない。それでも大事な今を守るために。


 全てを失ってなお、残った想いをかき集めて寄り添ってくれる大切な妹と生きるために。


(ごめんな、必。俺は、お前の理想にはほど遠いと思う。けど――)


 もう一度だけ、記憶の中で太陽のように笑う妹の姿を想起する。


(今のお前の理想には、なってやりたいと思うんだ)


 空気を引き裂くような轟音が鳴り響く。


 走りながら顔を上げた要は、その威容に気づいた。空中を揺蕩たゆたっていた巨躯のクジラが、要を発見し、今までと比べ物にならい速度で迫ってきていた。アセナのもとへは向かわせないとでも言うつもりだろうか。


「要っ!」


 クジラの存在に気づいた必が、要に注意を促す。


 走りながら、要は思考をフル回転させる。このままアセナのもとへ向かえば、クジラまで加えた混戦となる。それは避けたい。だが、クジラを相手取るほどの余裕は、今の要には無い。


 どうする――どうすれば――。


「俺たちを信じて走り続けろって、言ったっすよッ!」


 聞こえてきた陽介の声に、目の前の光景に、要は頬を緩めた。


 初対面は軽薄で頼りない男だったが、なかなかどうして覚悟を決めたその姿には勇気づけられる。


 一度どん底を味わったがゆえだろうか。


 頼もしい。


 クジラの横面に、巨大な蔦の異形の一撃が叩き込まれた。それが誰によるものか、考えるまでも無い。あれこそ、レイロンで要と必を繰り返し苦戦させた力そのものなのだから。


 要は、もう上を見上げていなかった。そんなものは不要とばかりに前だけを見て、一気に駆け抜ける。


 ――見えた。


 廃材で築かれた鉄塔が見える。


 その前で倒れる一片と、地面に打ち倒された三人の姿――白滝と紫咲、それから幼い少女。


 一片の前には、地面に達しようかという長い白髪が特徴的な少女が立っていた。溢れんばかりの巨大な違和感、本能的に感じる嫌悪感、話に聞いていたその身体的特徴は、彼らが目指した目標――アセナそのものだ。


「必、行くぞ」

「うん、一緒に」


 それが当たり前のことであるからこそ、あえて言葉にして示し合わせ、要は白刀を振るった。そこから異能の光が解きはなたれ、それは冷気の力をもって、周囲を一瞬にして凍結させる。


 一片に向けて伸ばされていたアセナの腕が、凍り付いて動きを止めた。


 それを見届けて、一気に要は決戦の地へと飛び込んだ。

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