第六章 ⑤
小さな爆発が巻き起こり、紫咲が吹き飛んだ。
紫咲だけを標的にしたようなその一撃は、一瞬にして彼女の意識を刈り取り、小さな身体を衝撃で地面に投げ出せる。
爆発の威力で頭部から血を流して倒れるその瞬間を、一片は見ていることしか出来なかった。
満足に動かない身体で、悲鳴を上げることも出来ずに、ただ呆然と見ていることしか出来なかった。
足音が聞こえる。
あの時と同じように。
絶望に打ちひしがれ、ただ泣くことしか出来なかったとあの時のように。
涼やかな声で、彼女は問いを投げた。
「だいじょうぶ?」
何とか動く頭だけを動かして、一片は見る。
血だまりで溢れるそこを悠然と歩く幻燈の少女。地につかんばかりの長い白髪と、満天に輝く星空のような金眼。まるで彫刻のような美しさと冷たさを持ったその容姿は、人間のようでいて本質から人間では無い。
人型虚虜――アセナがそこにいる。
紫咲たちに破壊された頭部はすっかり元通りに再生し、貫かれた胸元にも傷どころか、身に纏った衣類に血の一片も見られない。表情は変わらず作ったような笑顔で、慈しむように一片を真っ直ぐ見据えている。
「よかった。死んでなさそうだね。これから美味しく頂くんだから、死なれると困るよ」
心配しているようで、まるで一片のことなど何一つ気にかけていないその言葉。
ぞくりと、一片の身が震えた。
まるでかつての再現のように、極大の悪意がそこにいる。
そうと知らず、無自覚に、彼女自身はそんな心など持ち合わせずに、ただ存在そのものが悪意としてそこにある。
「苦しそうだね。息がしづらいんだね」
かけられる言葉もまた、かつてと同じようで。
「すごいね、びっくりしたよ。生き残ったんだね。きみは、相変わらず生存能力が高いいね。やっぱり、ボク好みだ」
ゆっくりと近づき、差し伸ばされたその手に、一片は身じろぎ一つ取れなかった。頬に触れようとするその手を、ただ恐怖に震える瞳で見ていた。
その手が、小さな手に振り払われた。
「ひ、いろ」
陽彩が、一片を庇うように前に出ていた。小さな見た目に似合わない憎悪を瞳に宿し、真っすぐにアセナを睨みつけている。
「おねえちゃんに、ふれるな」
まるでそれだけは許せないと言わんばかりに、舌っ足らずな口調で言葉を放つ。
すでに一片の記憶など無いはずなのに、全てを忘れてしまっているにかかわらず、本能に従うかのように、彼女は一片を守らんと両手を広げていた。
「へぇ……」
アセナが陽彩を見る。まるで初めて気づいたかのようにその金眼で陽彩を捉えた。
「記憶も心も全部食べてあげたのに、まだきみには残るものがあったんだね。それは約束? 本能? 愛情? 後悔? 無念? ――ううん、違うか。ボクが唯一、好まないそれは……人を希望と呼ぶね」
「きぼう……」
アセナの言葉を、小さな陽彩は繰り返した。大切に味わうように舌の上で転がし、理解してしっかりと飲み込む。
無感情な陽彩の瞳に色が宿る。それこそが自分だと、彼女は自覚した。
「うん、そうだよ。これは希望。きっとわたしに残ったもの。諦めない。倒れない。絶対におまえを……たおす」
陽彩の両手に光の粒子が宿る。彼女の異能の発露を、アセナは何もせずに見守っていた。そんなことは何の意味も無いと言わんばかりに、彼女の在り方を嗤う。
「虚子が抱く希望ほど無意味なものは無いよ。きみたちには未来が無い。どうあっても落ちるしかない存在が、何を胸に描くの?」
心を失い、記憶を失い、成長することも無く、ただ崩壊に向けて道行を転がり続ける虚ろなる存在。
そんなものが抱く希望など幻だと、アセナは嗤う。
感情では無く、理屈で彼女は否定する。
その言葉に、一片は忘れていた怒りを取り戻した。恐怖で埋め尽くされ欠けていた心に火が灯り、勝手な物言いを繰り返すアセナを静かに否定する。
「虚子に未来が無いなんて、どうして言えるんですか。この子は、この子たちは生きている。感情を失っていても、笑って、泣いて、喜ぶことが出来る。明日を生きて、誰かと繋がって、死ぬその瞬間を誰かに泣きながら見守られることが出来るんです……。人を喰らうことしか頭に無いあなたたち虚虜より、よっぽど生きている!」
陽彩も、センリも、紫咲も――一片と深く繋がった虚子たちは、感情の有無に差異はあれど、生きている。普通の人と同じように、残した感情に振り回されながら、大切に一日一日を歩んでいるのだ。
それをどうして、未来が無いなどと言えるのか。
そんなことは無い。彼女たちが歩く先には、確かな未来があるのだ。それが破滅に続く道だとしても、生きていればいずれは誰しもが死ぬ。
人と何が違うのか。他の生物と何が違うのか。
遅いか早いかの違いだけで、勝手な理屈で、未来が無いなどと言うことは許せない。
「理解の差だよ、一片。人間は心をもって生を生きる。虚虜は心が無いがゆえに人の心を求めて生を生きる。じゃあ、虚子は? 何をもって生を生きるのか」
まるで無理解な子供を諭すように、アセナは告げる。
「人と同調し、その心を喰らい、いずれ心の無い虚虜へと至るために、生を生きるんだよ。だって、虚子は、きみたちで言うところの、ボクたちの子供なんだから」
「え……」
一片は、アセナの言葉の意味を理解できなかった。まるで当たり前の事実のように告げられて、その意味するところを納得できず、理解を拒否した。
虚子が、虚虜の子供?
「産みたくて産むわけじゃなくて、まぁ勝手に産まれるんだから愛情なんてものは特に無いし、そもそもボクたちはそんな感情を持たないわけだけど。表現するならそれが適切だよ。何故って? 同調者の心を全て喰らい尽くした虚子は、いずれ虚虜に至るから。ボクがそうであったように」
やはり、一片には理解できない。意味が分からない。そんな話は聞いたことも無い。
「どうして崩壊した虚子が虚虜に至るか、考えたことが無いのかな」
――嘘だ。
「あれはね、なり損ないだよ。別に驚愕の真実と言うわけでも無い。人間の中には知っている者も多いはずだけどね。きみは知らないようだけど」
レイロンの地下で出会ったひなみを思い出す。同調者の心を喰らわずに崩壊しかけた彼女は、虚虜になりかけていた。無差別に人の心を求めて襲撃する存在へと、成り果てていた。
「きみの言う陽彩も同じ。虚子が同調者を求めるのは、失った心を埋めてくれるからじゃない。餌だからだよ。心を喰らって成長するために、いずれはボクらのような人型になるために、ただ喰らってるんだ」
じゃあ、あの時出会った陽彩と重ねた心は。まるでそう在るべくして出会ったと思えるほどに感じたあの絆は――陽彩が向けてくれた慈しむような微笑みは。
その全ては、なんだったの?
「喰らうためだよ。きみを喰らって、いずれ心を持たない虚虜となるために、きみを欲した。まぁ、感情が残っているから本能だけとは一概に言えないだろうけど、至る先は変わらない。いつか心を無くすのに、希望を胸に抱くことに何の意味があると思う?」
まるで一片の心を読んだかのように、アセナは淡々と告げる。愉悦に吊り上げたその口角も、彼女が心を失う前の癖のようなものなのだろう。
「全て、幻燈の夢だ。きみたち人間が感じる虚子との絆は、ただあの子たちが人を喰らうために植え付けた勘違いだよ。どうして虚子が子供のような見た目をしていると思う? それはね、その方が守ってもらえるから。保護欲をくすぐって、心を開いて、受け入れてもらえるから。実に理に叶った習性だよね」
だから、とアセナは告げる。
その決定的な一言は、一片の心を打ち崩すに足るものだった。
「きみが人のために戦うなら意味はある。けど、虚子を想って泣き、怒るのは意味が無い。だってあの子たちにとってきみは餌だから。いずれ喰らいつくすための食糧だから。きみたちは虚虜を庇ったりはしないだろう。なのに同じ虚子を庇うことには、何の意味も無い」
「う、そ……」
陽彩の背中に自分を取り戻しかけた一片の心は、その一言で地に伏した。
アセナの言うとおりだ。
一片は、彼女の最愛の虚子のために生きてきた。六年前で別たれた陽彩を捜し続けた。再会して、一緒に生きたいと確信を深めた。アセナにさらわれて、助けなければと心を奮い立たせた。
だが、それら全ては、いつか迎える悲劇のために突き進んでいただけだった。
何も自分の心が喰われることを恐れているわけでは無い。それは同調者であれば、覚悟して当たり前のものだ。それでも虚子と共に在るために、あるいはその力でもって虚虜を討つために、同調する。
だが、その果てに虚子が虚虜となるのであれば、一体何のために同調するのか。
いつか感情を持たない怪物へと至らせるために、今をただ必死に生きる虚子たちに心を与えるのか。
感情を持っていつか死ぬならまだいい。だが、感情すら失って人を喰らう怪物を育てるために、そんな悲劇の存在へと至らせるために、心を分け与える。
破滅の手助けをしているという事実に、一片は疑問を抱いてしまった。それが何の正しさがあるのか、分からなくなった。惑い、迷い、選べなくなった。
目の前で一片を庇う陽彩を守ることに、いずれ悲劇の虚虜となる彼女と在ることに、果たしてどんな意味があるのか。
そんな化け物へと変えてしまうくらいなら、いっそこのまま――。
そんな思想が頭の片隅でもたげ、そんなことを思う自分に、一片は愕然とする。だが、思考は止まらない。止まってくれない。
「無駄だったんだ。一片、きみの頑張りは無駄だったんだよ。無駄と知らずに必死になるきみは、素晴らしかったよ。心が震えるほどに、胸を打たれた。だからいつこの事実を教えてあげようかと、気を揉んだものだよ。でも、気にすることじゃないだろう。きみはあの時からずっと――いざとなれば自分の命だけが大事なんだから」
ああ、と一片は理解する。
アセナは、一片の心を壊しに来ている。
絶望を、これでもかと与えに来ている。
分かっている。理解している。この虚虜はそういう存在だと、知っている。
希望を与え、それを上回る絶望で満たし、それでも立ち上がって奮起する人の在り方に歓喜し、何度も何度も打ちのめして、最後の最後で決定打を打つ。
そんなことは、分かっている。
頭では分かっているのだ。
分かっているのに――
(私はもう……立ち上がれない)
足が動かない。
それはかつて負った傷が原因では決してない。
もう、心が限界だった。立ち上がろうとするその意思すら、打ち砕かれた。
何のために立ち上がるのか、分からなくなってしまった。
もう終わってしまいたい。全てを無かったことにしたい。目を閉じて、こんな悲劇から逃げ出してしまいたい。
「いいよ」
「やめてッ!」
一片の意を汲んだアセナの言葉に、陽彩が悲鳴のような声を上げる。陽彩の異能が解き放たれ、アセナを害さんと攻勢に出る。だが、アセナはそれを一蹴した。同質の異能でもって打ち消し、無造作な一撃で陽彩の身体を薙ぎ払う。
地に倒れる陽彩が、一片を見ていた。
その瞳に一片は映っていない。
一片の瞳にも、すでに陽彩は映っていない。
すれ違った想いの間に、心の重なりは生まれない。
かつて紡がれた絆は、二人の間にはもう無かった。
「きみが絶望を受け入れるこのときこそ、ボクは待っていたんだ」
『逃げて、逃げなさい、一片ッ!』
無線機越しにセンリの悲痛な声が響く。
一片は、それをどこか遠い出来事のように聞いていた。
伸ばされるアセナの手もどこか現実感に乏しく、全てをシャットアウトして、忘れてしまいたいと願った。
記憶の中の思い出。暖かな陽だまりのようなそれに抱かれて、眠ってしまいたいと、そう思った。
その時、周囲が冷気で満たされる。
想い出の暖かさに浸ろうとした一片を我に返すように、身を刺すその冷気が身体を震わせた。あまりの寒さに一瞬だけ現実に帰り、周囲一帯が凍結していることに気づく。
一片に手を伸ばしていたアセナの腕さえも、凍り付いて動きを止めていた。
足音が響く。
何かが駆けてくる。
ようやく安らかに終われると思っていたのに、邪魔をするのは誰なのか。
一片が顔を上げたその時、白銀が舞った。




