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第六章 ④

 目の前の光景を、紫咲は信じられない面持ちで眺めていた。


 一片ひとひらが刺された。


 地面から伸びる蒼白の刃。アセナの生み出した異能の力。


 自身の体液を武器へと変える、紫咲の力。


 その力が、紫咲の一番大切な少女を傷つけた。


「は……?」


 怪物が、抱きしめた陽彩に唇を当てている。まるで額にキスでもするかのように、しかしそれはそんな愛らしい愛情表現などでは微塵も無く、額を中心に光の粒子が立ち上り、陽彩の身体から力が抜けていく。まるで彼女の存在そのものを喰らわんとするかのように、立ち上る光はアセナに吸い込まれていき、全てが終わった後、陽彩の身体は崩れて地面に投げ出された。


 その身は、すでに曖昧な幻のように揺らめき、淡い影のような光が粒子となって空へと流れて行っている。


 喰われた。


 陽彩が、元虚子(トリシュナ)が、人間とも虚子とも呼べないような存在が。


 アセナによって、その存在を喰いつくされた。


 だが、紫咲にとっては、そんなものはどうでも良かった。


 陽彩は一片の友人だ。彼女が親愛を傾ける相手だ。だから、大事にしようという意思はある。けど、それは一片あってこそだろう。


「おい……」


 宙づりにされた少女が、地面に投げ出される。深く貫かれた腹部からは、大量の血液が溢れていた。地面に倒れた彼女は、身じろぎ一つ示さない。


 守ると、約束した。


「ふざ、けんな……」


 必ず守ると、誓った。


 初めて友人と呼んでくれた。居場所をくれた。愛をくれた。


 失った心を追い求める飢餓感に寄り添ってくれたのが白滝なら、二度と手に入らないと諦めていた想いの数々を向けてくれたのは、一片だ。


 そんな彼女が、血を流して倒れている。


「なんや、これ……」


 何の冗談だ、これは。


 立ち上がって涙を流していた。だから歩いて、走り出した時、止めるのが遅れた。彼女にとって自分の二本の足で歩むことがどれほどの意味を持つか、分かってしまったからこそ、強引に引き止められなかった。


 ずっと、そうしたかったのだろう。


 駆け寄って、抱きしめて、そんな当たり前に胸を焦がしていたのだろう。


「お前はァァァァァァァァァァァッ!」


 そんな当たり前は、目の前で奪われた。


 駆け寄ることすら出来ず、手に触れることすら出来ず、それどころか紫咲と同じ力で、大切な少女が傷を負った。


 沸騰するような怒りは、紫咲が虚子となって初めて感じた、溢れんばかりの殺意であった。


 紫咲の全身から血の触手が皮膚を裂いて現れる。強引な方法で出現した血液は、紫咲の全身に無数の裂傷を刻むが、もはや彼女はそんなことなど意にも介していなかった。右手を紫咲と同じくらいの赫怒を胸に抱いた相棒に差し向ける。


 二人の手が触れる。血飛沫が雨のように降り注いだ。


『――相剋』


 白滝と紫咲の声が調和し、血飛沫が晴れた先には、血の鎧を纏った騎士が経っていた。その手に長大な鎌を生み出し、一拍の間も置かず、アセナへと切りかかる。その寸前、白滝の身体から分離した血液が蛇のように一片へと向かい、腹に空いた穴に固着した。血液は凝固し、傷口を塞ぎ、これ以上の出血を防ぐ。


「ああ、きみたちか」


 アセナの視線が白滝へと向けられる。だが、その瞳は冷たく何の色も無い。興味すら湧かないと言わんばかりのその態度に、白滝の中に混じる紫咲の怒りが加速する。


「いい気分なんだ。時間をかけて熟成したワインを味わっている感覚だよ。ボクには人の味覚なんてないけど、例えるならきっとそんな感じ。至福のひと時というやつだ。余韻に浸っているんだよ。分かるよね?」


 邪魔しないでよ、とアセナが視線で語る。


 彼女には、紫咲たちが何に激高しているのか、認識はしても理解はできていない。皮膚を切れば血が出るのと同じ程度に、大切な誰かを傷つければ人の心は深く暗い感情を抱くと認識していながら、その心の一片たりとも理解していないのだ。


 白滝の振るった血鎌がアセナに激突する。だが、まるで何かに阻まれるかのように刃が通らない。アセナと血鎌の間に巨大な反発力が発生しているかのように、どれだけ力を込めてもびくりとも動かなかった。


「前に言ったよね。誰かの食べかすなんて、興味が無いんだ」


 そっと、アセナは血鎌に触れた。その瞬間、圧力を増した反発力に血鎌が弾けた。理解できない事態に白滝の動きが一瞬だけ硬直し、そのほんのわずかな意識の隙間にアセナは軽々と踏み込む。


「せっかく見逃したんだ。なんの彩りも無い欠けた日々を、凡庸に送ればいいのに」


 アセナの人差し指が白滝の胸元に触れる。たったそれだけで、白滝の身体が弾け飛んだ。まるで猛スピードのトラックに激突されたような衝撃で身体は宙を舞い、血の触手を生み出して地面に突き刺すことで何とか態勢を立て直す。


 何が起きた――そう困惑する白滝と紫咲だが、思考する暇は無かった。


 アセナの全身から蒼白の刃が八本、生み出され、様子を窺う白滝に襲い掛かる。


「紫咲!」

「真似すんなや、ぱちもんがッ!」


 白滝の声を受け、紫咲は全身を覆う血液を操った。アセナと同様に血の刃を生み出し、蒼白の刃を迎え撃つ。


 身体から伸びた刃同士を交錯させながら、白滝はアセナへと接近する。血鎌の攻撃が通らない理屈は不明だが、責めなければ戦いにすらならない。要たちのような遠隔で引き起こすような攻撃は、紫咲の力では難しいからだ。戦い方は、シンプルな技の応酬となる。


「ああ、人間らしいよね。通じないのに繰り返して、それでも何とかなるって夢を見て、優れた想像力で理想の未来を描く。でも、それって普通のことだよね。凡庸で当たり前で、どこまでも普通の――退屈な心だよ」


 幾度となく繰り返した白滝の血鎌の攻撃は、その一度としてアセナには通じない。強大な壁に阻まれるように、振るう血鎌の方が削れていく有様だ。


 アセナの一言一言に怒りを滾らせる紫咲に対して、白滝は冷静に事態を見ていた。何らかの要因で自身の攻撃が通じないことを思い、その原因を予測する。おそらく、何らかの異能だろうことは間違いなく、レイロンの地下での戦いを思えば、このアセナが他人の力を模倣する存在であることは確定的だ。そうなれば必然、アセナが戦った誰かが使っていた力なのだろう。


 その原理は何だ。どのようにしてこの斥力は生み出されている。


 虚虜デーヴァ戦において、対敵の異能を予測する力は非常に重要だ。その力を深く考察したうえで対策を練らなければ、手痛いしっぺ返しを食らうことは大いにあり得るからである。


 アセナの使う力は何だ。いや、そもそもアセナの使う模倣の条件は何だ。何でも模倣できるのか。模倣した力はいくらでも使えるのか。制限はないのか。


 眼前の事実だけを見れば、今、アセナは紫咲の力も同時に使っている。少なくとも二種類以上の力は同時に使用できると見ていいただろう。


 使用に際しての制約や条件はあるのか。それは、現状では読み取ることは難しい。一見するとなんの制約も無しに、好きなだけ力を振るっているようにも見える。そうなれば戦いは絶望的だ。たった一人で幾体もの虚虜と戦うようなものである。


 白滝は、紫咲の意見を求めかけて、口を噤んだ。同調して彼女の怒りがダイレクトに伝わってくる状況だ。冷静になれと諭したところで具体的な意見など出てくることは無いだろう。


 感情は力だ。何も感情をエネルギーに変えるのは、同調者だけでは無い。虚子の心もまた、自らエネルギーに変換することが出来る。怒りやすい紫咲は、その力の変換こそが戦闘において重要な意味を持つ。


「きみたちの絶望は、いらない」


 アセナが右手を掲げる。その動きに合わせて、血の刃と対抗していた蒼白の刃が描き消えた。好機とばかりに白滝が切りかかるが、それよりも早く、アセナの手から蒼白の光の粒子が落ちる。


 光の粒子が地面に触れた瞬間、暴れまわらんばかりの炎と衝撃波が吹き荒れた。


 至近距離で直撃した白滝の身体が地面をゴロゴロと転がり、縦横無尽に衝撃波の威力が周囲一帯を破壊しつくす。威力が一片の方に向かなかったことは、幸運の一言に尽きた。


「豚女の、力か……ッ!」

「断熱過程の自由操作、だったか」


 要に教えられたさだめの異能を思い出す。断熱過程を自在に操ることで爆発と冷却の力を交互に起こせるその異能は、なるほど対虚虜戦闘に特化した異能だ。応用することでダウンバーストすらも起こして見せるその超火力は、要たちがアセナ討伐に任命された理由の一端でもある。


 虚虜戦闘において求められるのは、単純極まりない火力なのだ。持ち運び可能で柔軟に対応できる一点突破の火力こそが至上とされる。


 その点でいえば、紫咲の力はやや火力に欠ける。血液を自在に操作して武器とするその力は、単純ゆえに応用が利く半面、火力が相剋状態の同調者の腕力に依存する。それが通じない相手には、成す術を失ってしまう。


 白滝は立ち上がり、顔を上げる。その頃にはすでに、アセナはその場を悠々と離れようとしていた。興味が無いというその態度のとおり、戦闘の決着にすら拘泥していない。もはや、彼女の眼中に白滝たちは映っていない。


 知れず、白滝は奥歯を噛みしめた。紫咲に遅れて、その歯牙にもかけない態度に感情を高ぶらせる。


 一片を害された。大切なお嬢さまを、むざむざと傷つけた。


 彼が従者となってから、こんなことは初めてだった。許されることでは無い。許していいことでは無い。


 両親を失い、歩く力を失い、普通であれば絶望の淵にも沈んでもおかしくなった十代の少女の護衛に付いたことは、思えば白滝にとってはキャリアの最下層の出来事だったと言えるだろう。


やることは子供のおりだ。


いかな名門、神島一族の護衛とはいえ、出世は望めまい。紫咲などは一片にほだされて仲良くやっていたが、白滝にとっては自分の限界を見定めたようで、その頃は悲観したものだった。


 その考え方が変わったのは、いつからだったか。


 まさしく知らぬ間に、と言うほかない。年を一回りも離れた少女に憧れを抱くなど、誰が予想出来ようか。十代を過ぎたばかりの小さな少女の振る舞いを美しいと思い、その心の在り様に涙しようなどと、誰が想像できただろうか。


 白滝は、自身の生涯の主こそ、一片だと認めている。認めたからこそ、物言わぬ従者としてその傍に付き従うことを己に許した。


 言葉を重ねてしまえば、想ってしまうから。


 見届けるだけでいい。見守り、育て、いつの日か自身のそばを巣立っていくその時に、心の底から見届けてあげられるように。


 だが、その少女は今、地に伏し、命尽きようとしている。紫咲の力で出血は止めたが、意識を戻す様子は無く、内臓を傷つけているかもしれない。早々に病院に運ばなければいけない。


 こんな終わりを迎えたいわけじゃない。


 こんなものは、彼の理想とした終わりではない。


「紫咲ッ!」


 久しぶりの感情を剝き出しにした白滝の怒声に、紫咲は驚いた。それから待ってましたと言わんばかりに血液を震わせる。


 彼女の相棒は、初めて同調した頃は、見境なく周囲へ噛みつく野獣のような性質を秘めていた。


「やるで相棒、うちらのヒメさんを絶対に助けるで」

「おうッ!」


 それは、かつて一片と出会った頃の紫咲が、彼女の在り様を揶揄して付けた蔑称だった。だが、その意味はもう違う。一片は、彼女らにとって真のお姫様となっていた。


 白滝の全身を覆っていた血の鎧が膨張し始める。白滝が心の内から湧き上がらせた怒りを代償に、膨れ上がった血液はその身体を覆い尽くし、血の巨人へと姿を変える。


 力が足りないのであれば、単純な体積こそを増やせばいい。


 そんな暴力的な理論に基づいて生み出された形態こそ、白滝と紫咲の真の戦闘形態だ。


「ん?」


 背後の影にアセナは振り返る。少しだけ視線が上を向き、自身を睥睨する血の巨人と視線をぶつけた。


「んん?」


 小首を傾げる。おどけたようなその姿は、横合いから叩きつけられた腕の一振りで吹き飛んだ。今度は反発の力は発生せず、アセナの身体が瓦礫に覆われた廃墟の中に叩きつけられる。


「よ、っと」


 確かな手ごたえを感じる白滝だったが、すぐに姿を見せたアセナの様子に身を引き締めた。彼女の身体には、何のダメージも浮かんでいない。


「往生際の悪さも人の美しさを彩る一つだとボクは思うけど――」


 瓦礫の山から飛び降りたアセナの手元に蒼白の粒子が宿り、それは一本の刃を形作る。


「勝てると思ってただがむしゃらに挑むその姿勢は、全然、心惹かれないなぁ」

「負けるつもりで戦うやつがどこにおるんや」


 紫咲が吼える。一方的な戯言ばかりを繰り返す彼女に、我慢の限界は当の昔に越えている。


「負けると分かっていても戦わなきゃいけない。恐怖を乗り越えて、己を叱咤して、仮初かりそめの希望だけを胸に抱いて、身もすくむような困難を迎え撃つ。英雄譚だよ。ボクはそんな英雄の卵たちが愛しいんだ。――けど、きみたちは違うかな。特にそこの同調者は、まるでだめ。冷静に冷徹に、怒りさえも合理的に活用して立ち向かってくる。失格だよ。ボクの好みに合わないだけじゃない。そもそも、その在り方は同調者として失格だ。虚子と心を重ねる資格すらない」

「お前がうちらの関係を勝手に値踏みすんな!」

「一般論だよ。これでも人間文化には造詣が深いんだ」


 嗤い、アセナの姿が消える。


 そうと錯覚するほどの速度で、アセナは血の巨人の横っ面に鋭い蹴りを叩きこんだ。


 蹴りとは思えない、まるで爆発でも起きたかのような衝撃に、血の巨人の体勢が崩れかける。だが、全身から伸びる無数の触手がそれを抑えつけた。そのまま攻撃に転身し、接近した敵を打ち払うように大量の触手が槍と化してアセナに迫る。


「さっきは失敗しちゃったから、もう一回かな。――こんな感じ?」


 血槍がアセナを貫くその瞬間、アセナの全身を光の粒子が巡った。血槍はアセナの身体に触れることなく、まるで透過するようにその身体を素通りしていく。


「反発するかおもたら、今度は透過するんかいッ!」

「ボース粒子とフェルミ粒子だよ。伝わる?」

「訳わからんわ、虚虜が知識自慢か! 薄ら寒いわッ!」

「ああ、そう」


 怒鳴り続ける紫咲に、アセナはどうでも良さそうに答えを返す。すでに興味を失った者たちに煩わされることが不快なのだろうか。あるいは、興味を失ったがゆえに態度は淡泊になっているのか。


 感情の持たない虚虜そのままに、ただ機械的な反応へと変わりつつある。


 それでも返事をするのは、言語を有する人型ゆえか。


「さて、あんまり付き合っててもきみたちの心の在り方は芽が出ないみたいだから、そろそろ終わりにするね。ごめんね」


 無感情の謝罪を口にして、血槍を掻い潜ったアセナの手が血の巨人に触れる。その手のひらに宿した力を解放する。


 圧縮した粒子同士が蓄えた反発のエネルギーが、無造作に解き放たれた。


 自身を圧し潰すほどの圧力を前に、血の巨人が膝をつく。地面が軋み、コンクリートが割れる。あり得ないほどの重圧に、纏った血の外装が剥がれ落ちていく。


「アリみたいだね。ほら、きみたちも地面を歩く小さな虫を、ふと踏みつぶすよね。なんの感慨も無く、想いも無く、ただそこにあるからという理由で、なんとなく」


 ――きみたちは、それによく似てるね。


 アセナの言葉が耳に届いたその瞬間、重圧が臨界点を越え、血の巨人が完全に圧し潰された。その中心にいた血の鎧を纏う騎士も、同様に全身を砕かれ始め、割れた鎧の隙間から自身の血で塗れた白滝の顔が見える。


 白滝は、少しだけ笑っていた。口元をほんの少しだけ緩め、笑みとも言えないわずかな感情を露にする。


「一泡吹かせてやれ、紫咲」

「ん?」


 白滝の言葉の意味が理解できず、アセナが小首を傾げた瞬間、その胸元を血の刃が刺し貫いた。


「まずは一片の分や。よう味わえ」


 アセナの背後で血が波打ち、それは紫咲の姿を形作る。血の巨人の崩壊に紛れて相剋を解いた紫咲は、その溶ける寸前の血液に近い状態を利用して、アセナの背後に回り込んだのだ。そこで身体を再構築し、血の刃による不意打ちを成功させたのである。


 あらゆる攻撃はインパクトの瞬間に透過され、意味を為さない。ならば逆に、アセナの攻撃するタイミングはどうか。彼女が攻撃するその瞬間だけは、確実に透過していないと分かる。


 予想通り、アセナは血の巨人に触れ、力を解放していた。その瞬間は、紫咲の攻撃に対処できなかった。意識の外からの不意打ちであるということも効いたのだろう。


 血の刃は、深々とアセナの胸を刺し貫いている。


 自身の胸元から伸びるそれを、アセナは無感動に見つめていた。そっと触れながら、疑問を口にする。


「どうして頭を狙わなかったのかな?」


 多くの虚虜は、頭部に存在核を持つ。仮にアセナがそうだとは限らないが、狙うのであれば頭部だろう、とアセナは疑問を呈す。


 紫咲の返答は、実に簡素なものだった。


「言ったやろ、まずは一片の分って」


 一片が胸を貫かれたから、自分も胸を貫いたのだと、言外に紫咲は口にする。


 その合理的に欠ける振る舞いに、アセナは形だけの笑いを浮かべた。まるでこういう時は笑うものだと学習したと言わんばかりだ。


「面白い冗談だね」

「冗談ちゃうわ、あほがッ!」

「欠損はともかく、虚虜に怪我は意味が無いよ。知ってるよね」


 アセナがそっと血の刃に触れ、ゆっくりと押し戻す。ただそれだけで、万力を込めた刃が押し戻されていく。膂力さえ、同調者や虚子をはるかに上回っている。まるで巨躯型虚虜の密度を人間大に押し込んだようだ。


 その動きが、不意に止まった。初めて、アセナの表情が怪訝なものへと変わる。力を込めようとして、まるで腕が動かないかのようだ。


「はっ、良かったわ。虚虜といっても、身体に血みたいなもんは流れてるみたいやな」

「これは、なに?」


 まるで理解できないのか、不思議そうに呟くアセナに、紫咲は笑った。


 侮蔑するように、嘲弄するように、盛大な嘲りで口元を歪めてみせた。


「教えんわ、あほたれが」


 刹那、大上段から白滝が振り下ろした血鎌の一撃を受けて、アセナの首が落ちた。


 ころん、とまるで嘘のような軽さでその頭部が地面に転がり、血の海から伸びた剣山がその頭部を串刺しにする。


 頭部をズタズタに引き裂かれ、その先の存在核を打ち壊されるその瞬間まで、アセナは不思議そうな表情をただ浮かべていた。


 紫咲が血の刃をかき消すと、アセナの身体が崩れて血だまりに沈む。


 それを一瞥してから、紫咲は興味を失くしたように視線を変え、一片の方を向いた。未だ彼女が生命の危機を彷徨っている事実は変わらないのだ。


 全身がズタボロで支えが必要な白滝を無視して、紫咲は一片のそばに駆け寄る。身体はぐったりとしており意識は無いが、心臓は拍動を繰り返している。まだ息はある。


 だが、傷が深い。紫咲の血液で傷は塞いでいるが、体温が驚くほどに低下している。一部の臓器に異常を来しているのだろう。


 紫咲は、一片の刺し貫かれた腹部の傷跡を凝視する。位置的には、肺のあたりか。肺を傷つけたか、あるいは肺に血がたまって酸素が行き渡らなくなり、呼吸困難に陥ったか。


 分からない。医者でも無い紫咲には、想像することしかできない。


「パソ子ッ!」


 だからこそ、紫咲は助けを求めて叫んだ。他にこの場で縋る手など、思いつかなかった。


『ほいほい――ってうわぁッ⁉ ちょちょちょ、え、やばいじゃん!』

「なんかないか⁉ 一片を救う手は、なんかないんかッ!」


 ドローンで見ているのだろう。驚愕の声が不快で鬱陶しい。それでも文句を口にせず、紫咲は縋るように叫んだ。


 紫咲の祈りに応えたのは、パソ子では無かった。彼女とは異なる声が無線越しに聞こえてくる。


『一片ちゃんは、肺出血に陥っているわ。けど、あんたなら救える』

「は、だ、だれや?」


 聞き覚えの無い声に驚く紫咲に、無線越しの声は簡潔に答えた。


『センリよ。それよりも早く処置しないと酸素不足で死に至る。助けられるのは、血を操る異能をもつあんただけ』


 有無を言わさない物言いに、紫咲は押し黙った。一片が死に近づいていると言われてしまえば、それを救えるのが紫咲だけだと言われてしまえば、その言葉に縋るしかない。


「うちは、何をすればええ?」

『簡単よ。今、一片ちゃんは肺の血管が切れて、肺に血が溜まって、酸素をまともに取り込めない状態になっている。でもね、酸素を運ぶのは全身の血液。あんたが直接、酸素を取り込んだ血液を一片ちゃんの身体に巡らせるの。上手く調節しなさい。血液を流すだけではだめ、上手く同量の血液を捨てさせないと、血圧が高まって血管が破裂するわ』

「お、おい、おい、無茶言うなや。できるわけないやろ! そ、そこまで繊細な作業――」

『出来なきゃその子が死ぬ。それに出来ないはずはない。あんたが自分を信じられなくても、あたしはもう視た。救えるわよ。あんたが覚悟を決めれば、絶対に』

「な、何言うとんのや。そもそもなんでそっから一片の状態が分かるんや!」

『はぁ? あんた、あたしのことを知ってて来たんじゃないの? あたしは、センリ――千里のはるか先、未来を視通す虚子よ』


 堂々たるその宣言を聞き、紫咲は生唾を飲み込んだ。


 一片の傷口に指を伸ばしかけて、その手が震えていることに気づく。もう片方の手で必死になって震えを止めようと抑えるが、震えは止まることは無かった。


 大切な者を失う恐怖に、それを自身でなしてしまうことへの恐怖に、紫咲はぎゅっと目を閉じた。強く強く瞳を閉じ、瞼の裏に一片を思い出す。


 大きく深呼吸を繰り返すと、無線機から辛辣な声が飛んできた。


『はやくしなさい。その子が死ぬ』

「う、っさいわ……覚悟、決めとんねん……っ」


 苦し気に表情を歪める一片を見る。


 守ると誓った。


 まだ、その誓いは破られていない。


 まだ取り戻せる。


「守ったる、絶対」


 そっと、紫咲は一片の傷口に指を触れさせた。紫の指先が小さく避け、そこから一片の血液に合わせて最適化するように変質させた血液が注ぎ込まれる。血の操作や変質は、紫咲の能力の真骨頂だ。


「気張るんやで……」


 血を巡らせながら、血を吐き出せる。注ぐ量と奪う量を調節し、自身を循環の輪の中に含めるように、一片の身体に血を巡らせる。


 肺から血が抜けたわけでは無い。それでも酸素不足による重篤な危機は避けられる。


 紫咲の頬を冷や汗が伝う。滴る汗の不快感さえ、血の操作に影響しそうで、紫咲は震えそうになる身体を、唇を噛みしめて痛みで誤魔化す。


 その時、背後から小さな手が伸びた。突然のことに反応しかけた身体を、紫咲は何とか意志の力で抑えつける。


 なんや、こんなときに――。


 こんなところに子供のような手があるはずも無い、という違和感より先に、怒りで紫咲は手の主の方に目を向けた。


 そこには、金髪に紅い瞳をした、五歳ばかりの幼児があどけない表情で立っていた。


「おねえちゃん、だいじょうぶ?」


 舌ったらずな口調は子供そのもので、しかしその姿に、紫咲は言葉を失った。


 幼女の姿は、陽彩によく似ていた。


 特徴的な髪色や瞳はともかく、見た目がそっくりだ。まるでそのまま子供に変えたような姿である。


 いや――


「そう、か。お前、喰われたから……」

「くるしそう……。てつだうね」

「は⁉ お、おい、今触んなっ!」


 幼女の小さな手が紫咲の手に触れる。振り払うことも出来ず、紫咲はされるがままだ。わずかでも手を揺らせば操作を誤り、一片が死ぬ。


 幼女の小さな手の中に光の粒子が集まり始める。緊迫感に包まれた中、紫咲はふとその光景に目を奪われた。状況も忘れて、綺麗だと思ったのだ。まるで雪解けに陽光を浴びてきらめくように、美しい光の雪が立ち上る。


 光の粒子は幼女の手を薄く透過させ、それは同時に一片の身体にも伝わった。二人の身体は重なり合い、まるで沈みこむようにその中へと吸い込まれていく。


「血をぬいて、きれたけっかんを、ふさげばいいよね」

「お、おまえ、そんなこと、できるんか?」

「うん、たぶん。わたしの力なら」


 しばらく幼女の手が一片の体内を動く。時間にして一分程度だろうか。作業を終えた幼女は、手をゆっくりと引き抜いた。次第に光の粒子が溶けて消え、透過していた小さな手が実体を取り戻し始めると、その手から血が滴り落ちた。


「ほら、取れた」


 ほめて、と言わんばかりに血を見せつけてくる幼女に、紫咲は頬を引きつらせる。


 こいつは一体何なんや。


 理解できない事態ではあるが、一片の肺からは血液が取れたと幼女は言う。それでも外側からでは判断できないため、紫咲はしばらく血を媒介に酸素を送り込む作業を続けた。慎重に寿命も縮まるかと思ったその時、一片がむせ込み、ゆっくりと目を開いた。


「むら、さき……?」


 状況が理解できないのか、自身の名を呼ぶその声に、紫咲の表情が歪む。


「あほ……死にかけとるやないか……」

「ごほ……っ。わ、たし……なにが……え?」


 苦しげにせき込む一片だが、それだけだ。息苦しさは感じていないところを見ると、幼女は確かに血を取り除いたのだろう。それを理解し、紫咲はそっと血の供給を止めた。こんな繊細な作業は、もう一生したくないと心の中で安堵の息を吐く。


 一片から指を話したところで、紫咲は気づく。一片は、その視界の中に陽彩を捉え、動きを止めていた。表情が苦しそうに歪み、唇を大きく震わせる。


「ひ、いろ……なの?」


 信じられないものを見るように、目にした現実を否定するように、重たい腕を陽彩に向かって伸ばす。


 幼女は、ただそれをじっと見ていた。告げられた名前に反応することも無く、向けられた手に触れることも無く、感情のこもらない瞳でジッと一片を見つめ、静かに疑問を口にする。


「おねえちゃんは、だれ?」


 時が、止まったようだった。


 幼女の告げた一言を、半ば予想していた紫咲は、何も言えなかった。ただ息を呑み、唇を強く噛み締める。


 一片は、向けられたその言葉の意味が分からず、ただ呆然としていた。頭の中で何度もその言葉を繰り返し、ようやく咀嚼して呑み込む。だが、味も何も分からない。


 何を言っているんだろう、と現実逃避にも似た想いで、困惑も疑問も放り捨てる。


「私、だよ。ひとひら、だよ。ねぇ、陽彩……」

「ひいろって、わたしのこと? ひとひら?」


 一片は、手を伸ばし続ける。早くこの手を取って。あの時みたいに――そう頭の中で繰り返し続ける。だが、陽彩はその手を取ることはしない。向けられた手の意味も分からず、告げられた名前の何一つとしてピンとこないようで、幼子の無邪気さそのままに小首を傾げて不思議そうな表情を浮かべている。


 だが、一片の表情が苦しげに歪んでいることは見て取れたのだろう。少しだけ申し訳なさそうに目を伏せ、静かに告げる。


「ごめんね……わたし、なにも分からない。じぶんのことも、それ以外のことも、ここがどこかも、今がなにかも……全然分からないよ」


 幼女――陽彩は、どこまでも冷静にそう告げた。何も分からないと言いながらも、本人がそこに混乱している様子は無い。虚子として失われた感情がそうさせるのだろう。


 何かを失った感覚も、記憶の無い己も、そうと分かっていながらも感慨が湧いてこない。二度も心を奪われた彼女は、そのほとんどが空虚で曖昧だ。


 自身を省みて思い悩む情動すら、希薄になっているのだと、紫咲は悟った。


「あ……」


 伸ばした一片の手が、力なく崩れ落ちた。瞳から一筋の涙をこぼして、小さく嗚咽を漏らす。


 何が起きたのか、何が起きているのか、何を守れなかったのか。


 彼女は、はっきりと理解した。


「あぁ……っ」


 手のひらから多くの宝物が零れ落ちて、奈落の底へと飲み込まれるのを、一片は幻視した。


 陽彩から向けられる瞳に、一片は映っていない。


 伸ばした手は、見向きもされていない。


 かつて感じたこの子を埋めてあげられるという想いすら、分からない。


 そこには、陽彩であって、陽彩でない――他の誰かが存在しているのだと、頭の片隅でそんなことを思ってしまったから。


「あぁぁぁ……っ」


 そんな自分が許せなくて、けどそれはきっと覆せない現実で。


「うそ……」


 受け入れると受け入れざるとに関わらず、起こってしまった悲劇で。


「陽彩……陽彩……っ」


 処理しきれ無い感情に、一片はパニックを起こしかけていた。


 紫咲は、小さく悲鳴を上げて顔を覆う一片を見ていられなかった。顔を反らし、起きた現実に拳を強く握りしめる。


 陽彩は、喰われた。アセナによって心を、記憶を、その大半を喰われて、ある意味で幸運にも再誕を果たせた。だが、心と記憶を失い、自分が誰かも分からず、親しい相手すらも思い出せない彼女は、果たして本当に陽彩と言えるのだろうか。


 少なくとも、一片はそう思えなかった。思えない自分に絶望して、苦悩している。


 伸ばした手に触れられない。


 想いが通じ合わない。


 かつて出会った陽彩との間に感じた言いようの無いそうあるべくしてある絆は、今の陽彩との間には無いと、直感で感じ取ったのだろう。それはある意味で、彼女がかつての陽彩とは異なる存在であることを如実に表している。


「ごめんね……」


 取り乱す一片の様子に、陽彩は小さな声で謝罪する。一片が何故泣いているのか、分からないだろうに、その原因の一端が自分にあることは自覚しているのだろう。それでも一片に手を伸ばさないのは、分かっていても赤の他人でしかないと、そう陽彩が線引きしてしまっているようで、紫咲は歯噛みした。


 紫咲は、一片と陽彩の関係性を知らない。それでも一片が長い時間をかけて探して、乞い求めていた少女であることは知っている。同調者が虚子と紡ぐ依存にも似た絆の在り方も実感として理解している。だからこそ、その絆が壊れた時に受ける傷の深さも想像できてしまう。


 身を引き裂かれる思いだろう。心が割れたと、言っても言い過ぎではないほどに。


 何故なら、同調者と虚子は、心を同調――通い合わせる存在なのだから。


 嗚咽をこぼす一片に紫咲は何を言いかけて、しかし何も音になることは無かった。なんと声をかければいいか分からずに、ただ無言の静寂の中に小さな鳴き声だけが響く。


 そんな静寂を破るように、無線機から声が響いた。


『……正直、こんなことを今言いたくは無いけど、教えて。アセナはどうしたの?』


 聞こえてきたのは、センリの声だった。声は震えていて、彼女の感じる恐怖が伝わってくるようだ。


「……今さらなんや。もう倒したわ。見てたんちゃうんか?」


 紫咲のぶっきらぼうな返事を、センリは言い訳のように否定した。


『爆風の余波でドローンとの通信が一時的に切れてたから』

「そうか。うちと白滝で倒したで。存在核をぶった切ったわ」


 先の光景を思い返す。白滝がアセナの首を落とし、紫咲の血液で生み出した剣山がアセナの頭部を串刺しにし、その中にある存在核を見事に打ち砕いた。虚虜の弱点を確実に突くプロの仕事である。


『そう。よくやったわね。ちなみに聞くけど――存在核は何個壊したの?』

「は? そんなもん、一個に――」


 その時、泣き続けていた一片がハッとしたように顔を少しだけ上げた。オープンチャンネルで無線が通じてる以上、センリと紫咲の会話は一片に聞こえていたのだ。


「紫咲、アセナは――」



『あいつの核は一つじゃないッ!』

 


 悲鳴のような二人の声が、紫咲の耳朶を打つ。


 言われた言葉の意味が分からず、ただ呆気に取られて、焦燥感を募らせる一片を見ていた。


 轟音が鳴り響き、何かが紫咲の視界の端を流れていった。それが自身の相棒の姿だと、紫咲が遅まきながら理解したその時、背後で感じた極大の違和感に背筋を凍らせた。




「ああ、ボクは運がいい。一片、きみの絶望が深くなったみたいだね」



 振り返る。


 振り返って、紫咲は、それを目に焼き付けた。


 彼女の意識は、そこで断たれた。

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