第六章 ③
「アセナッ‼」
要と必が互いの心を通わせていたその時。
ついに陽彩は、その姿を視界に捉えた。
歪に組み上げられた鉄塔の頂上で、反物を歪に織り交ぜた衣類とも呼べない和装に身を包んだ少女の姿をした異形が一つ。
幻燈のような白髪に、満天の星空のきらめきを思わせる金色の瞳。病的なまでに白い肌は背景を透過するほどに透き通っており、整った目鼻立ちはこの世のあらゆる造形よりもなお美しい。だが、その美しさはバラのそれだ。凶悪な棘を含んだそれは、ただそこにいるだけで世界に違和感を叩きつける。
人のようでいて、人ではない異形。
人の心を弄び、喰らう極大な怪物。
人型虚虜アセナが、陽彩の目の前に姿を現した。
「本当は……もう少し実らせるつもりだったんだ。まだまだ希望も絶望も十分にあげられるから、もっともっと、水を注いであげるつもりだった」
陽彩の怒号など意にも介さず、アセナは勝手な独り言を繰り返す。
この怪物は、初めて見た時からそうだ。
会話をしているようで会話になっていない。ただ言いたいことを言いたいだけ伝えて、それがコミュニケーションなんだと騙っている。心を持たない怪物には、所詮は人の心の機微など理解できない。
「ボクはね、きみもひとひらも気に入っているんだ。だから大事に大事に育てるつもりだった。身を焦がすほどの熱情を、胸を突き破らんばかりの悲哀を、心狂わさんばかりの絶望を、一つずつ時間をかけてゆっくりと、あげたかった」
アセナと出会った時点で、すでに陽彩は臨戦態勢に入っていた。異能の光をその身に宿らせ、今にも殴りかからんばかりに拳を固く握りしめる。それでもかつて特対官として得た経験が、彼女の無謀な特攻を押しとどめていた。
アセナは無防備だ。構えてさえいない。だが、人型虚虜と呼ばれ、天災に数えられるその存在には、人の理が作り出した武の理屈など意味を為さない。
「でも――ああ……ほんっとうに……残念だ。ボクの心は今、歓喜している。素晴らしいものを見た。魅せられた。あれこそ人だと、そう思うに足るほどの情動。美しい――それが壊れて歪むさまを、見てみたい」
「お前は、何が言いたいの……」
「はっきり言うね。他に目移りしたから、さっさときみたちを食べて、終わらせちゃおうかなって」
ごめんね、と悪気も無く、ただそれが人の文化であるがゆえにアセナは謝罪を口にする。
その姿に、陽彩は乾いた笑いを漏らした。
頬が引きつり、拳が震える。
あまりの怒りに、狂いたくなったのは初めてだ。
「ふざけるな‼ お前が殺した姉さんを、わたしを、たくさんの人たちを……食料か何かみたいにッ!」
「ん? ボクにとってきみたちは食べ物だよ。だって虚虜だもの。当然だよね。だからきみも喰らってあげる。せっかく心も記憶も戻してあげたのに、きみはいまいち実らかったね。残念だ。それでもちゃんと食べるよ。まぁ、残飯処理みたいで気は進まないけどね」
「アセナァッ‼」
怒りが臨界点を突破し、陽彩は駆け出していた。鉄塔の頂上に座すアセナに向かって跳躍し、固めた拳を振りかぶる。
「――ゼーンズフト」
アセナの背中から蒼白の刃が生み出された。それは鋭利な凶器となって陽彩に襲い掛かり――その身体を素通りした。
「ん?」
予想外の事態に小首を傾げるアセナの頬に、陽彩の拳が突き刺さる。人間を遥かに超えた膂力は、簡単にアセナの身体を鉄塔から地面に向かって吹っ飛ばした。
大の字になって地面に叩きつけられるアセナ。その目はぎょろぎょろと動き、追撃で迫る陽彩の姿を捉えている。
「うーん、よく分からないなぁ」
再び振るわれた陽彩の拳を跳ねるようにして避け、アセナはお返しとばかりに蒼白の刃を振り向けた。だが、その一撃のいずれも陽彩には通じない。身体を通り過ぎるように刃だけが空を切る。
再び、アセナの頬に陽彩の拳が突き刺さる。自身を打つその瞬間まで、アセナは観察するように仔細漏らさず眺めていた。その振る舞いが陽彩の神経を逆なでする。この程度の攻撃など痛くも痒くも無いと言わんばかりに――事実、虚虜が傷を痛がる姿など確認された試しは無かったが、それでも自身の怒りを小馬鹿にしたような振る舞いに怒りを滾らせる。
陽彩の拳がアセナの頬を打ち、極大の存在感に比して軽いその重量を彼方へと吹き飛ばす。追い打ちのために追いかけようとした陽彩は、吹き飛ぶアセナの無感動な声を聞いた。
「ああ、なんだ。前と同じか」
「――――ッ!」
咄嗟に陽彩は回避行動に移っていた。踏み出しかけた足を強引に切り替え、その場から慌てて離脱する。遅れて爆発が轟き、陽彩が元居た場所を業火が襲った。
空に立ち上らんばかりの炎が燃え上がり、吹き荒れた衝撃波に陽彩の身体は呑まれる。それでも直撃を避けたゆえに軽傷で済んだ。あの爆発に巻き込まれていれば、無事では済まなかっただろう。
「前はこっちの攻撃を全く受け付けない守りに特化していたかな。今は、それとは逆に透過している。きみの力は、粒子の状態の自由な入れ替えなのかな」
アセナは淡々と陽彩の能力を言い当ててみせる。かつて一片と共に戦ったとはいえ、その際はまだ力に不慣れでその一端しか見せていなかったはずだ。それがこうして幾度か異能を見せただけでその力の本質を捉える。
本質を捉えることにこの怪物は特化しているのだ。
陽彩は、本能でそう感じた。
「ああ、きみ自身もどう定義される能力なのかよく分かっていなそうだね。ただ、出来ることと出来ないこと、危険なことと安全なことの境くらいは感覚で察しているという感じかな。うん、面白いね」
一人で何やら納得し、アセナは何かを確かめるように右手を掲げて眺め見た。そこに蒼白の光の粒子が宿り、静かにアセナの身体を包み始める。
「――ゼーンズフト」
無造作に、アセナは右手で銃の形を取った。意図の読めないその挙動に陽彩が警戒心を強める。
銃口が陽彩に向けられる。指先には、小さな蒼白の光が揺蕩っていた。
「ばん」
無邪気な幼子がそうするように、アセナは小さく発砲音の真似事をしてみせた。
なんのつもりだ、と陽彩が眉間にしわを寄せた瞬間、その肩を光の軌跡が貫いた。
血飛沫が舞い、異臭が漂う。肩を焼き貫かれたという事実を陽彩が理解した時には、すでにアセナの遊ぶようにその言葉を繰り返していた。
「ばん、ばん、ばんっ」
無数の光の軌跡――レーザが放たれ、陽彩が視認する間もなく、その身体を穿った。
右肩、脇腹、左足、左掌――大きさで言えば人の指先サイズのそれであり、一瞬にして焼き貫かれたことで流血はわずかだ。だが、陽彩の身体は力を失い、その場に倒れこんだ。神経を焼くような激痛に、冷や汗が零れ落ちる。
「もったいない。きみは自分の力の使い方を理解できていない。その力があれば、昔、ボクと戦った時、ひとひらを傷つけることも無かっただろうに」
憐れむようなアセナの物言いに、陽彩を自嘲気味に笑う。
死ぬほど嫌だが、アセナの言葉は正しい。
陽彩が強ければ、海彩を――姉を失うことは無かった。
陽彩が心を共にした虚子を失うことは無かった。
自身もまた、虚子になることは無かった。
何よりあの時出会った迷子の女の子を傷つけることは無かった。
全て、陽彩が弱かったからこその結果だ。
もっと強ければ、もっと力があれば――ずっとそんな後悔を続けていた。
六年越しに目覚めて、記憶が失っていながらも、そんな焦燥感だけは常にあった。だから政府の実験を受けながら、力を磨くことに専念した。自分の異能を高め、いずれ来る何かに備えた。
記憶を取り戻した時、それははっきりと像を結んだ。
目の前の怪物だ。
この怪物を倒すときこそを、自分は待ち望んでいた。
なのに、また無様にも血に倒れている。
呆気なく、一糸も報いることも出来ず。
(姉さん、センリ、一片――)
共に同じ傷を負った人たちを思い出す。
優しい姉だった。
頼りになる先輩だった。
守ってあげたい女の子だった。
強ければ、力があれば、もっと戦えていれば――今頃みんなで笑うことが出来たのだろうか。
姉は死んだ。センリは心に傷を負った。一片は歩くことが出来なくなった。
陽彩だけだ。虚子になっても、自分だけは何も失っていない。虚子になる前と後で、何が変わったのだろうか。心も記憶も十分に引き継いで彼女は虚子となった。だから憎しみのままに、虚子となった直後もアセナと戦うことが出来た。
自分だけ、何も失わず、長い眠りの中で、まほろばの夢を見続けた。
もう、終わりにしよう。
くだらない失意も、お手軽な絶望も、誰の得にもならない自責も。
全て、いらない。
「わ、たしは……」
身体に力を入れる。足が震える。貫かれた左足が痛む。
それでも陽彩は立ち上がる。穿たれた左拳を握りしめ、痛む腹に空気を吸い込んで、決意を宿して立ち向かう。
「お前のくれる安物の絶望なんて、いらない」
陽彩の瞳を、アセナは吸い込まれるように見ていた。その心の在り様を目にして、唇を引きつらせた。
「ああ……実った」
万感の歓喜を、彼女は漏らした。
「わたしは、みんなとの未来を掴む。そのためにここにいる。お前を倒して、みんなに、言ってもらうの。頑張った、よくやった……って。だから、お前のくれる薄っぺらな希望も絶望も、愛も悲しみも、全部、お断りだ!」
「ああ……心の底から謝罪するよ。目移りなんてするべきじゃなかった。きみたちを――きみを見続けるべきだった。だってボクは、きみの心が欲しくて、きみを喰らったんだから。忘れられない味わいだから、きみに心を返したんだから」
もう一度、味わうために――。
言葉にならない願望を叩きつけ、アセナは歓喜に打ち震える。感情を持たないはずの虚虜が、心の底からの愉悦を刻む。
「最後の贈り物を上げるよ、陽彩! きみの心こそ、深く暗い穴底がよく似合う」
「いらないって、言ってる!」
叫び、陽彩は駆け出した。全身の傷でまともに走ることもままならない中で、それでも必死に腕を振るう。
何も無策に突っ込んでいるわけでは無い。
勝機はある。
アセナなどは陽彩が自分の力を理解していないと思っているようだが、それは誤りだ。政府の実験施設にいた彼女は、研究員から自身の持つ異能とその可能性について教えられている。
陽彩の能力は、アセナの言うとおり、粒子の状態の自由な入れ替え。
量子力学において、ボース粒子とフェルミ粒子と呼ばれるものがある。
ボース粒子は、同じ状態でいくらでも重なり合うことができる粒子のことだ。反対にフェルミ粒子は、同じ状態に重なれない粒子のことを指す。分かりやすいイメージとして、ボース粒子は一脚で何人でも座れる椅子であり、フェルミ粒子は一脚につき一人しか座れない椅子のようなものだ。
陽彩は、それら粒子の状態を自由自在に操ることが出来る。あるときは壁と自身とを同調させ、透過した。壁と自身とを一体化させ、逆方向に自身を構成する部分だけを表出させて元に戻したのである。
アセナの蒼白の刃が陽彩の身体を素通りしたのも同じ理屈だ。この力を使えば、かつてのアセナに使ったように、自身と敵の攻撃をフェルミ粒子に切り替え、攻撃を防ぐことも可能だ。ただ、これは、エネルギー自体は残存するために身体を負傷するリスクがある。
これらの陽彩の異能は、例えばアセナが使ったように光の粒子を収束し、レーザとして放つことも可能だ。その使い道は他にもある。
陽彩は手繰る。
穴の開いた左手に異能の光を手繰り、掴み取った空気をフェルミ粒子に遷移させ、その中で圧縮させる。本来交わらないまずのフェルミ粒子は、強引に押し込まれた圧力によって反発を繰り返し、莫大なエネルギーを生み落とす。
「きみに与える絶望はなにがいいかな? 身体の欠損? 大切な人との別離? 無力感? なんだろう、なにがきみを花開かせるんだろうね!」
「わたしは、わたしの絶望はただ一つ。お前をこの手で倒せないことだ!」
「きみが死んだらボクが食べられないじゃないか。他の案はないの?」
陽彩の接近を、アセナは歓迎する。動くことも無く、攻撃をすることも無く、両手を広げて迎え入れる。まるで我が子を抱きすくめる母親のように、欺瞞に満ちた慈愛の表情で陽彩を包んだ。
「馬鹿にするのも、大概にしろッ」
抱擁されながら、陽彩は左手をアセナに叩きつけた。正確には、そこに宿る異能の力を――莫大なエネルギーを解放した。
陽彩の手のひらを中心に、超重力の塊が解き放たれる。
フェルミ粒子の凝縮によって生まれる圧力は、フェルミ圧とも呼ばれ、空に浮かぶ星々――白色矮星を維持する力ともなっている。本来が星の成れの果てとして、重力によって押しつぶされて消滅するはずのそれが、内部にため込んだ電子同士が重力によって押しつぶされ、フェルミ圧によって高エネルギー状態に押し上げられることで重力に抗っているのだ。
その力の一端を、陽彩は手のひらサイズとはいえ、アセナに叩きつけた。
小型のブラックホールとも呼ぶべき超重力が解放され、凄まじい圧力に抱き合ったままの二人の身体が圧し潰されそうになる。
アセナだけでなく、陽彩もまた、その重圧を歯を食いしばって耐えていた。端から突貫、自身の命を顧みない捨て身の一撃だ。ここまで接近しなければ、アセナが油断して接近させなければ、打つ手など無いと分かっていた。
骨が軋む。
視界が明滅する。
焼けただれた傷口が割け、血が滴る。
それでも陽彩は、異能を手繰る手を手放さない。道連れにする覚悟で、力を使い続ける。
「へぇ……」
アセナが感嘆の声を上げる。
痛みを感じない虚虜は、圧し潰さんと迫る圧力を前にしてなお、無感動にその現象を眺め見ていた。
眺め見て、珍しくも嘆息した。
「抱いた希望が、夢見た結末が自害なんて、それは解釈違いだよ、陽彩。それじゃあきみの心は奮わないよね?」
身体を動かすことも難しいほどの圧力の中で、アセナはそっと陽彩の手を握る。まるで小動物を愛でるようなその優しい触れ方に陽彩は背筋を凍らせる。優しげに細められたアセナの瞳の奥に、極大の悪意が見えた気がした。
「ほら、やめよう。もったいない」
一瞬にして、圧力が解かれた。
理解できないまま、陽彩はその現実を見るしかなかった。
陽彩が手繰った異能の力が――重なり合い圧し潰し合っていた粒子同士が、アセナが触れただけで重なり合った。まるでそうあることが当然と言わんばかりに、反発によって生まれていた力が霧散した。
陽彩は、知らなかった。
かつての戦いの中で、アセナはそれを使わなかったから。
だから彼女が異能を模倣するなどという笑い話にもならない力を持っていることなど、予測できなかった。
必殺の一撃すら、覚悟を決めた想いすら、呆気なく、踏み砕かれた。
「ほら、見て。きみの絶望が来たよ」
耳元でそっと囁かれる。アセナの視線は、陽彩の背後を見つめていた。
振り返る。
振り返って、陽彩は見た。
「陽彩ッ!」
かつてのように二本の足で立ち、不格好ながらも必死に駆け寄ってくる一片の姿を。
「ひと、ひら……」
――だめだ。
頭が痛い。
――だめだよ、一片。
身体が痛い。
――言ったよね。わたしたちとこいつが集まると、どんな未来が待ってるか。
心臓が早鐘を打つ。
――だから、来ないで。
全身に鳥肌が立ち、膝が恐怖で震える。
――来ないで、来ちゃダメ、一片。
心がどこまでも深く、強く、嬉しくて悲しくて、幸せで辛くて、例えようも無いほどに痛い。
「一片、来ちゃダメ――」
「あれこそ、きみの最後の絶望だよ」
一片と二人の距離はまだある。まだ間に合う。
今すぐ、この一瞬で、こいつを――!
「え?」
再び異能を発動しようと力を手繰ろうと試みた陽彩は、それを見た。
地面の亀裂から飛び出た蒼白の刃を。
アセナの身体から地面に伸びた蒼白の光を。
身体を刺し貫かれ、愕然とした表情で宙づりになった大切な少女を。
「ひと、ひら……」
心が崩れた、音がした。
「ほぅら、きみは良く実ったよ、陽彩」
怪物の顎が、陽彩を捉えた。




