第六章 ②
「要! 立って! 来るよ!」
「―――――ッ!」
必の悲鳴のような叫び声に、要は我に返る。ほんの一瞬、意識が遠ざかりかけていた。度重なる異能の行使による心の摩耗が、要の認識とは別に肉体にまで影響を及ぼしかけていたようだ。
反射的に視線を上げれば、すでに眼前で炎が瞬いていた。足がもつれるようにして何とか地面を転がり、必殺の一撃を回避する。背後で熱線が通り過ぎ、凄まじい炎が髪の毛先を掠めた。
攻撃はそれで終わらない。熱線は要を追いかけるように移動する。背後に迫る熱波を感じ、振り返る余裕も無い。要は何とか地面を蹴って高く跳躍し、爆発の力でさらに上空へ回避する。だが、まだ熱線は追ってきていた。長距離射程に持続性、破壊力も兼ね備えたその一撃を、要は縦横無尽に空を駆けることで躱し続ける。
爆風の衝撃波を利用した空中移動を続けながら、熱線の発射口に目を向ける。
熱線の主は、先の亜人との戦いで大いに利用させてもらった怪獣と形容すべき見た目の巨躯型虚虜だ。
全身を歪な鱗で覆われたそれは、見た目だけなら巨大な二足歩行の爬虫類を思わせる。巨大な尻尾と空を突かんばかりに伸びあがった背びれが特徴的であり、口元はワニのように長く飛び出している。熱線の発射口であるそこは、時折火花を散らしたように青白く発光し、間髪入れずに高火力の炎を吐き出してくる。
(あれだけの威力で、クールタイムも無しかよッ)
分かっていたことだが、厄介な異能である。あるいは特性か。
コンクリートを一瞬にして溶解してしまうほどの高温。数キロにまで伸びる長射程。一回の熱線は数秒から十数秒間も持続し、炎を吐いた直後には次の攻撃の溜めに入っている。
攻撃を防ぐどころか、懐に入り込む余裕すらない。逆に言えば、懐に入りさえすればその攻撃を回避することは容易いように思われた。虚虜が巨体であればあるほど、その動きは緩慢となり、身体の小さな要の動きで翻弄することが出来る。あの虚虜からすれば、空中の蚊を射抜くような芸当を強いられていることだろう。
とはいえ、これではジリ貧と言うのが要の本音だ。回避を優先して空中を飛び回れば、それだけ必の異能を行使する。それはひるがえって、要の心を消費することであり、戦闘継続を危うくさせるリスクを孕んでいる。
「要、建物の影に入るのはどうかな?」
要の焦燥を悟ったのか、珍しく必が自分から意見を口にする。悪くは無い意見だったが、要はそれを却下した。
「地上には神島さんたちがいる。万が一、あの熱線に巻き込まれたら終わりだ」
「そう、だね」
要が空を飛んで熱線を回避している最たる理由がそれである。
少なくとも要が注意を引き、空中に向かって熱線を撃たせている間は、その高熱が地上を焼き払うことは無くなる。それは地上を移動する一片たちを危険から遠ざける意味も持つ。
目的は異にしているとはいえ、手を結んだ同士だ。自分にとってハイリスクだからといって、みすみすその命を危険にさらすことは出来ない。
だが、現状が千日手であることもまた事実。
要に怪獣へと急接近する術が無い以上、遮蔽物の無い空中を飛び回ることは愚策でしかない。
それだけでは無い。
空中には、もう一体いるのだ。
「ぐ……ッ!」
突如として叩きつけられた咆哮に、要の態勢が乱れた。
今まで空中を浮遊していたクジラの虚虜が、音圧による攻勢に出たのだ。鼓膜を引き裂くような咆哮に一瞬、力の制御が出来なくなる。何の対策も打っていない状況では、あの音圧に著しく動きを阻害されてしまうのだ。
態勢を崩して空中に落下しかけ、すんでのところで力の制御を取り戻す。落下する要を狙って放たれた熱線に対して氷の薄膜を作ってわずかばかり、その勢いを止め、その隙に空へと駆け上った。
巨躯型虚虜二体――クジラと怪獣。
まるでファンタジー映画をそのまま現実に落とし込んだような光景に、要は乾いた笑いを零した。
四体のうち、二体の巨躯型虚虜は討伐した。残るは二体。だが、払った代償も大きい。肉体的なダメージはともかく、心の損耗が激しい。精神的な疲労が要の動きを鈍らせる。頭の片隅でフラッシュバックのように記憶がちらつき、意識を繋ぎとめるだけで精一杯になるときがある。
すでに長時間戦闘を継続するだけの精神すら、要には残っていないようだ。
「要……」
必の声は、重く沈んでいた。能天気な振る舞いに比して、必は冷静に事態をよく見ている。要の状況も等しく、よく理解していた。
現状が危機的状況であることは、要以上にその心を消費している彼女がよく分かっている。それでも要の心を喰らうことを止めれば、異能の供給すらままならず、相剋も維持できない。要を守るために、要を喰らわけなければならないジレンマに必の心は痛みを訴えていた。
必には、それしかない。それだけが唯一、彼女に残された想いだ。
失わない。失いたくない。誰にも奪わせない。
「安心しろ。俺は大丈夫だ」
不安げに揺れる必の声を聴き、要は安心させるように微笑んだ。
絶望的な状況にあるにもかかわらず、彼の心は微塵も折れていない。
再度、迫る熱線を躱して空高く舞い上がり、雲間を突き抜けて高く高く、舞い上がる。虚虜の視界から逃れるために雲を壁にして姿を隠しながら、十分な高度に上ったところで要は反転した。
「まずは鬱陶しいあの特撮もどきをぶっ倒す」
珍しく意気軒高な言葉を口にしたのは、自分を奮い立たせる意味もあったのだろう。心の発露は同調者の力になる。それが思い込みや勘違いの類であっても、自分の心の在り様を誤魔化せる同調者は強い。
要もまた、そうした心の持ち様を得意としていた。自らを鼓舞し、心の奮起を促す。
(ぶっ倒すッ)
犬歯を剝き出しにどう猛に笑い、落下しながら要は雲の水分を手繰り寄せた。断熱膨張によって水分を凝固させ、まるでビルにも匹敵せんばかりの超巨大な氷の剣を作り上げる。
空に浮かぶ巨大な氷の剣に触れ、要は一気に爆発の推進力で地面へ落ちた。強引に氷の剣の切っ先を眼下の怪獣に向け、重力に任せて落下する。
瞬間、熱線が叩き込まれた。
氷の剣の切っ先に熱線が突き刺さり、徐々に溶かし始める。高火力と大質量がせめぎ合いながら、ぐんぐんと近づいていく。
氷の剣が怪獣を刺し貫くのが先か、溶けるのが先か。
果たして軍配は、怪獣の熱線の方だった。
超高温によって氷の剣は瞬間的に水蒸気へと変わる。大質量の氷が超高温の熱線によって一瞬にして水蒸気へと変わり――それは大爆発を引き起こした。
――水蒸気爆発。
水は水蒸気と化す時、その体積は千七百倍にまで増大するとされている。ならば、空に浮かぶ雲の水分を全て氷に固めた剣が一瞬にして気化すればどうなるか。
引き超すのは、要が異能で放っていた爆発とは比べ物にならないほどの大爆発である。
空中で解き放たれた常軌を逸した爆発は、その威力を四方八方に叩きつけた。
空中から吹き荒れた衝撃波に呑まれ、怪獣の巨大な頭部が四散する。それだけではなく、吹き荒れた衝撃波が望島全体に降り注ぎ、並みいる虚虜たちを根こそぎ吹き飛ばした。中空に浮かぶクジラも同様であり、衝撃波の波にのまれ、再び地面に引きずり倒される。
爆発による威力は、何も虚虜たちだけを襲ったわけでは無い。
その中心にいた要もまた、その威力に呑み込まれた。咄嗟に断熱圧縮による爆発で威力を相殺しようと試みたが、まさに焼け石に水だ。激しい衝撃波の渦に呑まれ、要の身体が再び遥か彼方へと吹き飛ばされる。凄まじい勢いで地面に叩きつけられ、何度も地面を転がってようやく止まる。
立ち上がろうと腕に力を込めて、すぐに身体は崩れた。激痛と衝撃でまるで力が入らない。それでも五体満足であったのは僥倖であったと言えるだろう。相剋状態の同調者の頑強な肉体と、咄嗟の爆発による威力の減衰による賜物だ。
腕に力を込めて、腕が崩れる。
足に力を込めて、ただ地面をこするだけで終わる。
頭に力を込めて身体を起こそうとして、むせて吐血する。
すでに肉体も限界だ。それ以上に心が擦り減っている。
気力だけでどうこうできる次元を逸脱している。要の肉体も精神も危険な領域に片足を突っ込んでいる。
「ぐ、お、ぉぉ……ッ」
獣のようなうめき声を上げ、それでも要は無理矢理に身体の力を込めた。震える腕に力を込めて、笑い続ける足を叱咤する。繰り返す吐血など気にも留めず、なんとか立ち上がろうとして――不意にその身体が優しく温かな両手に包まれた。
「要!」
必が相剋を解き、要の身体を受け止めていた。その表情は酷く苦しそうに歪んでいる。今にも泣きだしそうなその表情は、涙を浮かべられない己自信を呪っているようにも見えた。
「さ、だめ……相剋を、勝手に……解くな」
「無理だよ……もう限界だよ。無茶しすぎだよ……。なんで立とうとするの。少しくらい休んだって……」
「休んでる暇、なんか、無いだろ。やっと……お前を取り戻す手掛かり……なんだ。俺は……そのために、今まで……っ」
必の手を振り払ってでも、要は立ち上がろうとする。休むことすら許さない自罰的なその姿勢は、一体誰に向けた贖罪なのか。
必の瞳には要が映っている。大切な兄の姿をその目に宿している。心を共にした同調者。彼女の中に唯一残る、失いたくないという想い。要はそれを体現した存在だ。
なのに――
「なんで要の瞳には、わたしがいないの?」
「…………」
必の一言に、要の動きが止まった。
「必はわたしだよ。昔の記憶は持ってないかもしれないけど、それでもわたしだって必なんだよ? なのに要は、誰を見てるの……?」
張り裂けるような思いの丈をぶつけられ、要は何も言えなかった。
心と記憶を奪われ、心の底から感情的になることが無くなった必が今、心底の想いを口にしている。それが痛いほどに分かるからこそ、要は言葉を詰まらせた。
「必……違う。俺は……お前だって俺の妹だよ……。だけど……」
だけど――なんだ?
要の中で疑問が宿る。
必の言うことの何が間違っているのだろうか。妹を取り戻す。元に戻す。
それが要の悲願だ。そのために心を供し続けてきた。
だが、それは果たして今の必を見ていると言えるのだろうか。兄だけを真摯に慕い続けてくれる妹に、要は真正面から向き合っていただろうか。
彼女自身、望んでもいない目的のために心も体も擦り減らし、挙句の果てに泣かせて、傷つけている。
必の言うとおりでは無いか。自分は、必のことなんて見てもいない。瞳に映しすらせず、今の彼女を否定する言葉ばかりを繰り返している。
取り戻す、取り戻す――元に戻してやる。
じゃあ、今の必はどうなるのか。心と記憶を失ってもなお、兄を慕い続ける妹はどうなる。積み上げた記憶は、過ごした日々は、一体何だったというのか。
「嫌だよ。要がそうしたいならわたしはそうする。要のためなら何でもする。けど……要を失うのはやだ……ッ」
剥き出しの想いに、要の頭は何も考えられなくなった。
ただ、過去の記憶ばかりが頭の中で繰り返される。
特対官として心も記憶も使い続けた。それでも唯一、絶対に手放さなかった思い出。
記憶の中で幼い妹が笑っていた。それは場面を変え、小学生の妹が菓子を取られたと憤慨していた。中学生の妹はいつもどこか疲弊していて、それでも要を見つけると満開の笑顔を浮かべてくれた。
――最後の記憶の妹は、血だまりの中、存在が消えゆくその中で、それでも要に笑いかけてくれた。
大切な珠玉。何を忘れても、決して捧げなかった思い出。
彼の生きる意味であり、戦う意味であり、生き残った意味。
彼の宝物は、いつも思い出の中にしかない。
もうどこにもないそれに手を伸ばし続けている。幻想の夢のようなそれを求め続けている。
(俺は……何を、見てるんだ?)
現実の光景が返ってくる。
目の前で大切な妹が今にも泣きだしそうな表情を浮かべている。
縋るように震える手で要の首元に手を回し、必死の想いをぶつけてきている。
(俺は……何を、見てたんだ?)
記憶の中の妹と、目の前の妹。
どちらも同じで、どちらも大切なはずなのに。
大切だと思い込んでいただけだ。
記憶の中の美化された綺麗な思い出に拘って、自罰的な想いのまま、目の前の宝物から目をそらし続けていた。
(必は……この子は一度だって……)
――元に戻りたいだなんて、口にしたことは無い。
向き合うことから目をそらし続けていたその事実に、要は打ちのめされた。
なんだそれは。馬鹿にもほどがある。飛んだ身勝手な馬鹿野郎だ。
押しつけがましい想いを口にし続けて、結果的に妹を苦しめていた。
救いたいと言いながら、危険に巻き込み続けていた。
「やだよ……自分のことならどうでもいい。けど、要はだめ……。わたしに残ったのは、たった一つのそれだけなんだよ……?」
ああ、と要は小さく息を吐いた。その瞳から一筋だけ、涙を零す。
身体からふっと力が抜ける。無理をし続けた肉体は満身創痍で、限界に達しようとしていた。
「なぁ、必」
掠れるような声で、それでも要は口を開いた。
「俺も同じなんだ」
息も絶え絶えの状況で、必の想いに応えるように、自身の心の内を明かす。
「俺のことならどうでもいい……なんだって耐えられる。けど、お前を失うことだけは耐えられなかった。それだけは……どうしても許せなかったんだ」
大切な妹を失ったその瞬間のことを、まるで昨日のことのように思い出せる。
無力だった。力が無かった。
誰よりも強くて、優しくて、太陽の陽だまりにいるような妹に甘えて――憧れていた。
妹が真に求めているものにも気づかずに、そう在る妹は素晴らしいと、バカな妹自慢に歓喜していた。
だから、気づけなかった。気づいた時には、手遅れだった。
擦り切れる寸前の妹に気づけなかった。ようやく手が届いた時には、全て手のひらか零れ落ちた後だった。
「ごめんな、必。俺、また同じことしてた……」
身勝手な独りよがりに自己陶酔して、真に向き合うべきは誰かに気づいていなかった。
なんて馬鹿だ。
心の内をさらけ出してもらってようやく気付くなんて。
ずっとそばにいて、同じ時間を過ごして、なのにどうしてこんなにも察しが悪いのか。自分の馬鹿さ加減を呪いたくなる。
「またお前を……失う、ところ……だった」
ようやくその瞳に大切な珠玉を映して、要の意識は途切れた。




