第五章 ⑥
破壊されて廃棄された製鉄所の中、蒼白の網で構築された触手で拘束された少女が小さく身じろぎする。白金色の髪に紅玉の瞳が特徴的な彼女は、冷たいコンクリートの床に寝ころんだまま、慎重に周囲を窺っていた。意識を失った状態でこの場所に連れてこられてしばらく、目覚めた直後におおよその事態を把握し、されど動くことは危険と考え、寝たふりを続けている。
意識を失う前の記憶が蘇る。
レイロンで情報屋を営むセンリの住居『PREDICTION』でセンリと共に一片を守りながら、自身らの持つ情報を共有して今後の動きを相談していたその時、奴は現れた。
六年前に望島を発端とした大規模特殊災害を起こし、多くの人命を犠牲にした張本人。
災禍に見舞われた街の中、特対官として派遣された陽彩と戦い、その戦いの果てに陽彩を喰らい、虚子と化した怪物。
それだけでは無い。
奴は、陽彩の先輩であったセンリの同調者を殺した。
その後、虚子と化した陽彩は、災禍の中で一片と出会い、同調し、奴と戦った。
人の心を弄び、育て、慈しんだ果てに喰らう最悪の虚虜――アセナ。
その戦いは苛烈を極め、戦いの果てに陽彩は足に重度の障害を負い、陽彩もまた、六年の長き眠りに着くことになった。
六年前の記憶は、今では昨日のことのように思い出せる。そもそも、陽彩には六年が経過した実感すらない。彼女はついひと月前にレイロンで目覚めたばかりだ。記憶も曖昧な状況でレイロンの住人に捕まり、そのまま政府に身売りされた。その後は、虚子と人間の双方の特徴を持つ特異な存在として、度重なる実験に参加させられていた。
別に非人道的な虐待に近い実験を受けていたわけでは無い。だが、人権があったのかと言われれば疑問も残る。それでも記憶を失い、目的も曖昧の中、陽彩にはそれに参加するしか生きる意味が無かった。
そんな実験を繰り返すだけの無為な日々を過ごしていたある時、それは起こった。
政府の実験施設が突如として虚虜の被害に遭ったのだ。
その中で陽彩は虚虜に襲われ、そのショックが契機となったのか、全ての記憶を取り戻した。六年前の悲劇、アセナの存在、別たれた一片。
そして、六年前、意識を失う前にアセナが残した呪いの言葉。
――いつかまた、きみたちを喰らいに来る。
――だから、夢を見せてあげる。
――希望に満ちた甘くて優しい幻燈の夢を。
全てを取り戻した陽彩は、居ても立ってもいられず、ただ何か突き動かされるようにレイロンへ向かった。それ以外に手がかりも無く、ただアセナを止めなければという使命感でかつての戦場へと足を運んだのだ。
結果的にそれは、ある意味で正解であり、ある意味で間違いであったと言える。
アセナは現れた。
だが、それは最悪のタイミングだった。まるで見計らっていたかのように、一片と陽彩が共にいる瞬間に、アセナは現れたのだ。
今ならはっきりと理解できる。アセナはそのタイミングこそを狙っていたのだと。
そもそも、陽彩を襲った政府実験施設の虚虜災害。あれすらもアセナの差し向けたものだったのだろう。陽彩と一片をレイロンで合流させ、彼女らの心を奮起させるために。六年の中で薄れた恐怖と絶望を再び叩きつけるために、まずは希望を見せた。
陽彩は、アセナの手のひらの上で弄ばれていた事実を思い、悔しさで唇を強く噛んだ。切れた唇から血が滴り落ちる。
「一片、来ちゃ、だめだ……」
アセナは、それこそを狙っている。
この製鉄所の外で聞こえる破壊と異形の咆哮は、まず間違いなく大規模特殊災害の前触れを表しているのだろう。いや、もしかすると、すでにそれは起こった後なのかもしれない。
いずれにせよ、アセナの目的は明白だ。
かつてのあの災禍を再現し、そこに一片を再び巻き込むことだ。
陽彩というゴールを設定し、それを取り戻させるためにこの地獄の中を必死に歩かせ、その果てに至る心の在り様こそを望んでいる。
勇気と希望を胸に危機に立ち向かい、困難を乗り越え、その最後に絶望を叩きつけ、心折れたその瞬間こそ、最も心は美しく魅惑的に輝くと信じている。
かつて、陽彩も同じだった。
今のようにアセナに弄ばれ、全ての希望を打ち砕かれ、絶望の果てに心を喰われた。それでも多くの記憶が残ったのは幸いだったと言えるだろう。アセナの記憶も、それに対する憎しみも、残したまま虚子となることが出来た。
だからこそ、一片に縋り、頼り、傷つけてしまったことを思えば、身勝手な話だとは思うが、それでも彼女は虚子として珍しく、特対官としての記憶と経験の多くを残すことが出来た。
再度、陽彩は周囲に視線を向け、気配をうかがう。この場所に来てしばらく、誰も訪れてはいない。アセナすら、姿を見せていない。どういうつもりでこの場所に陽彩を置いていったのかは分からないが、来ないのであれば、いつまでも寝ている必要は無いだろう。
陽彩は力を込め、一気に解き放った。虚子として残った膂力でもって蒼白の網による拘束を強引に引き千切り、立ち上がる。
彼女は、人間に戻ったわけでは無かった。
だが、虚子と言われれば疑問も残る。
虚子は成長しない。それは確定した事実であり、実際にセンリは六年前と変わらない姿でレイロンにいた。では、六年の中で時間どおりに成長して見せた陽彩は、一体どういう存在なのだろうか。
虚子になる前、彼女は二十を少し過ぎたばかりだった。虚子となった後は、十代前後の少女の姿になった。そして今は、十代半ばのティーンエージャーだ。
だが、その身体能力は人を遥かに凌駕している。彼女が政府施設を脱出した後、単身でレイロンまで迎えた理由の一端がそれだ。
「それに、異能も使える」
製鉄所の壁面に近づき、陽彩は手を触れた。そこから小さな淡い光の粒子が灯り、陽彩と壁面を流れていく。それを確認した後、陽彩は一歩踏み出した。本来であれば、壁に当たって弾かれるだろう。だが、陽彩は身体は壁を沈み込むようにその内部を透過していき、次の瞬間、陽彩は製鉄所の外に出ていた。
「わたしは、なんなのかな」
理解の及ばない自身の状況に自嘲気味に笑いながら、それでも陽彩は理解する。自分はまだ戦える、と。
センリと共に見た未来視の記憶が蘇る。
初めは荒れ果てぶりからレイロンのようにも思えたが、今思えばそれは間違いだ。
目の前に広がる光景を見て、陽彩は確信を抱く。
陽彩の眼前には、まさに地獄と呼ぶに相応しい光景が広がっていた。大量の虚虜が至る所に存在し、破壊の限りを尽くしている。破壊と業火が周囲を包み、黒煙が空へと立ち上る。まさに六年前の再現と呼べるものだ。
センリに頼んで見せてもらった未来視の光景は、きっとここを指しているのだろう。そこで陽彩は、一片と共にアセナに立ち向かい、その果てに――
「殺させない、絶対に……!」
血で濡れた一片の姿が瞼の裏に焼き付いている。あんな未来を認めてなるものか。
拳を固め、陽彩は歩き始める。この場所のどこかで、きっとアセナがいる。
人の心の何一つも理解できない悪魔が、欺瞞に満ちた愉悦で顔を歪め、待っているのだろう。
「六年越しの決着をつけてやる」
こうして陽彩が自由に行動することもまた、アセナの思惑のうちなのだとしても。
もう失わないために。
もう無くさないために。
全てを乗り越え、望む未来を掴むために。
陽彩は、災禍渦巻く望島を駆けだした。




